第六章 元カレ襲来⑤
「企画のことで何か?」
あまり二人きりになりたくなくて、手短に用件を聞こうと思った。長くなりそうならメールで返答しますと言おう。
「冷たいな。付き合っていた頃は初々しかったのに」
「そんなことっ」
何を言い出すのかと焦る。こんなところでわざわざ持ち出すような話ではない。
「仕事のお話で無いのなら、私はこれで」
お疲れ様でした、と通り過ぎようとした時、腕を掴まれた
「……っ!」
「話、終わってないんだけど?」
ぐっと引かれ、階段の入口に引き込まれる。ここは廊下からは死角になっていて見えない。
「今日この後、食事に行こう」
「は?」
「定時までどこかで時間をつぶしておくから、一緒に食事に行かないか?」
矢崎さんの彼の体と壁に挟まれて身動きが取れない。掴まれた腕を振りほどきたいのに、体が固まってしまってどうしたらいいのか分からない。
さっきよりも更に近い距離にいるため、顔を上げることすら出来ず目の前にあるネクタイを睨んだ。
「い、行きません」
毅然と断ろうと思っていたのに、声が震えてしまった。
そんな私を彼は「ふ~ん」と軽く流す。
「その様子だとアッチの方はあの頃と変わらないのか」
軽侮するように言われ、「何が」と反論しようとすると、彼は私の耳元に口を寄せてきた。
首筋に吐息が掛かり、ぞわっと鳥肌が立つ。反射的に彼の胸に手をついて押し返そうとしたが、ビクともしなかった。
「俺と付き合った時、お前、処女だっただろ」
「なっ!」
一瞬で真っ赤になった私を見た矢崎さんは、瞳を細め満足そうに笑う。
顔から火が出そうなほど熱くなって、これ以上彼と話すなんて耐えられない、と思ったその時、矢崎さんの体の向こう側から低い声が聞こえた。
「何をしている」
ビクリ、と肩が跳ねた。
視線を向けると、高柳さんが階段から降りて来るところだった。
突然掛けられた声に矢崎さんが気を取られた隙を狙って、掴まれていた腕を振りほどいて壁際から抜け出した。
「青水、打ち合せのこと忘れたのか?」
「い、いえ…これから向かうところで」
「俺が彼女を引き止めました。聞きたいことがありまして」
私と高柳さんの会話に割って入った矢崎さんは、完璧な営業スマイルを見せている。
「首都圏第三支店営業部の矢崎さん、でしたね」
「はい。これからよろしくお願いいたします。高柳統括」
無表情のままの高柳さんと、営業スマイルの矢崎さん――対照的な二人だ
「特別企画へのご意見ご質問は、社内メールでいつでも受け付けています」
「ええ。先ほどの会議の時にもお伺いしました」
「そうですか」
普通に会話を交わしているだけなのに、なんだか不穏な空気が漂っている。
微妙な雰囲気が漂う二人に挟まれ、私は一刻も早くこの場を立ち去りたくてたまらなくなる。やましい事なんて何もないはずなのに、矢崎さんと一緒にいるところを高柳さんに見られたくなかった。
「打ち合せの時間ですので、失礼します。企画のことは社内メールでお願いします」
矢崎さんに頭を下げてから、「お待たせいたしました、統括。行きましょう」と高柳さんに声を掛け、すばやく階段を二、三歩降りたところで、今度は矢崎さんがこちらに向かって声を掛けてきた。
「さっきの件、メールするから」
その言葉には返事をせずに、私は足早に階段を下りた。




