第五章 鉄壁上司との同居⑧
三か月間一緒に暮らすにあたって、私達はいくつかの取り決めをした。
この同居の目的は“模擬結婚生活”なので、お互いが夫婦であるという仮定の基に生活しなければ意味がない。その上で決まった取り決めは次の通りだ。
一、家事は分担制。洗濯は青水担当。掃除は高柳。週末の掃除は二人で
一、夕食は交代制。ただし、残業等で遅くなる時は連絡をして交代可
一、青水は寝室、高柳は書斎、をプライベートルームとし、お互い無断入室禁止
一、朝食は一緒に
一、夕食のキャンセルは必ずお互いに連絡する
一、他人を連れて来ない
一、寝室は別々
以上のことが書かれた紙が、冷蔵庫に貼られている。
高柳さんとの暮らしは思ったよりも悪くなかった。
(家に帰っても上司がいるのってどうなのだろう)
(男の人と一緒に暮らすなんて、何か間違いでも起きたらどうするの)
そんな私の心配をよそに、彼は妙齢の女性が一緒に暮らしていると思えない程淡々と自分の生活を続けている。
切り替えのスイッチがどこかに着いているのかと思うほど、完全にオフモードになった彼はとてもマイペース。私が居ても居なくても全然問題ないと言う感じ。
毎朝早くに起きてランニングに行き、シャワーを浴びた後朝食を作る。朝食を食べたらタブレットで今朝のニュースや株価をチェックした後、出社準備を始める。
帰宅後は料理をしたり仕事をしたり本を読んだりと、まちまちだ。夕食後にコーヒーを飲みながらソファーでくつろいでいることもある。
最初、食事の時以外はお互い部屋に籠って顔を合わせることもあまりないかと思っていたが、こんなふうに高柳さんが気兼ねなく過ごすのを見ているうちに、私もあまり気を張らないようになってきた。
一緒に暮らしているからと言って、私のことをあれこれと訊いてきたり「ああしろこうしろ」とうるさく言わない。必要以上に慣れ合うことも触れ合うこともしないから、私の緊張もましになってきたのだろう。
あまりにもこちらのことを気にしない彼を不思議に思ったけれど、『君にはさほど興味はない』とお見合いの後に言っていたことを思い出して、ストンと腑に落ちた。
“女”がどうとか言う前に、彼は“青水雪華”に全く以って興味はないのだ。
(私に手を出さなくても、相手に不自由することはないものね)
非常階段での出来事を思い出し、一人納得する。
(私は期間限定の妻として生活して、最後に彼の望みどおりに『結婚には合いませんでした』って佐知子さんに報告すればいいだけ)
スープを一口飲んで、もぐもぐとじゃがいもを咀嚼する。コンソメのシンプルなスープは優しい味だ。
「そういえば、今日はいいのか?」
「ん?」
急に声を掛けられ、ゴクンと飲み込んだ芋が喉に引っ掛かる。こほっと軽く咳をしながら、目の前の彼を見た。
「裕子さんにビールを注がなくて良かったのか?」
「あっ!」
瓶ビールに気を取られてすっかり忘れていた私は、慌てて小さなグラスにビールを注いで、母の写真の前に置いた。
家でお酒を飲む時は、こうして母にも供えることをもう長い間続けている。私と晩酌をすることを楽しみにしていた母が少しでも喜んでくれたらいい。
「忘れててごめんね、お母さん」
両手を合わせながら遺影に向かって呟く。
後ろに気配を感じ振り向こうとした時、脇からスッと長い腕が伸びてきた。
「ほら、これも一緒に」
コトリ、とビールのグラスの隣に豆皿が置かれる。見ると混ぜご飯がちょこんと可愛く盛られていた。
斜め上を振り仰ぐ。くっきりと横に伸びる瞳がこちらを見下ろしている。そこには同情も憐みも見当たらない。
「……ありがとうございます」
私の言葉に黙って頷いた彼は、踵を返してもとの場所に腰を下ろした。
台風の後自宅マンションから荷物を運び出す時に、私は父と母の遺影と位牌もちゃんと持って出た。三か月間だけとはいえ、二人を残して行くことなんて出来ない。持ち帰った遺影と位牌は、自室に当てられた寝室に置くつもりだった。
『寝室で線香を上げるのは火災が心配だから、リビングに置くといい』
『線香はあげなくても大丈夫ですから』と言う私に、『俺が遠山夫人に叱られるだろう』と言われ、言わなければ分からないのでは、と思いつつも言葉に甘えることにした。
言われた通りに棚の上に置かれたそれは、大きな効果を発揮した。なんとなく母の写真があるだけで、リビングが深い呼吸が出来る場所に変わったような気がする。




