第五章 鉄壁上司との同居⑤
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就業時間を一時間以上過ぎた頃、私は職場を出て帰路に着いた。
非常階段で目撃してしまった場面は、気持ちを落ち着かせるどころか平常心を奪うのに十分な威力を持っていたらしい。
何ごとも無かったようにいつもの席に座る高柳統括マネージャー。
当事者である彼は平然としているのに、どういうわけか私の方がそわそわしてしまい、彼が動く度に意識がそちらに持って行かれてしまう。
何とか自分の仕事に集中しようと頑張るが、どうにも上手くいかず仕事が手に着かない。
結果、彼が席を外すまでの二時間ほど、私の仕事は捗らなかった。
意識しないように意識する、それは結局意識し続けるということを学んだ二時間だった。
(今日の私、まったくダメね……)
暗い車窓に、吊革に掴まる自分が映っている。
『仕事だけはきちんと』
心に決めていたことを、些細なことで守れなくなる弱い自分が悔しい。
非常階段の出来事のせいで集中力を欠き残業になってしまった。結果としてすっかりその前の出来事を忘れてしまったのは、良いのか悪いのか――。
大澤さんが帰り際に、『あの後、あの子達にちゃんと釘を刺しておきましたから』と私の耳元で囁いたけれど、一瞬何のことか分からなかった。
そんな私を見た大澤さんが、『主任が気にしてないようでホッとしました』と微笑んで帰って行った。
(やっぱり素敵なお姉さんだな)と、彼女のうしろ姿を見送りながら思っていた。
「ただいま帰りました」
玄関を開け中に入りながら声を掛ける。
脱いだ靴を整えキッチンにつながる扉を開くと、そこには予想通りのエプロン姿があった。
「おかえり」
「……ただいま、です」
ぎこちなく返事を口にする。このやり取りは三回目。まだ慣れない。
「夕飯もう出来るから、着替えて手を洗って」
「はい」
キッチンから香る美味しそうな匂いにお腹が反応しそうになって、急いで自分の部屋へ滑り込んだ。
部屋着に着替え手を洗ってからリビングに戻ると、二人掛けのダイニングテーブルの上には湯気を立てた料理が並んでいる。
「何か出来ることありますか?」
「じゃあ冷蔵庫からビールを出して」
「はい」
冷蔵庫の扉を開くと、昨日まで無かったものが目に付いた。
「瓶ビール…」
「ああ、それを出してくれるか」
言われた通りにドアポケットからそれを出して、テーブルに持って行く。その私の後ろからエプロンを着けた高柳さんがやって来る。彼は手に持っていたご飯茶碗をテーブルに置くと、私の向かいに腰を下ろした。
「あ、今日はご飯バージョンなんですね」
「ああ。タコと枝豆の混ぜご飯だ」
「良い香り……なんか洋風な匂いがします」
「ガーリックオイルが入っている」
「うわぁ、美味しそう」
目を輝かせる私に、高柳さんはテーブルの上の瓶を持ちあげこちらに向けた。
「あっ、すみません。私が」
「いい。ほら」
上司に先にビールを注がせるなんて申し訳ない気持ちになるが、促されるままグラスを持ち上げ注いで貰う。白い泡が立ち、グラスが琥珀色に染まる。
私も注ぎ返そうと瓶に手を伸ばしたが、彼はあっさりとそれを制して自分のグラスに注いでしまった。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
グラスを持ちあげ軽く合わせると、お互いそれに口を付けた。
ごくごくごく、と一気に喉に流し込むと、しっかりとした喉越しの後、独特の香りが鼻に抜けた。
「美味しい…」
思わず口からこぼれた。
「やっぱり瓶は美味いな」
「そうですね。一人だと缶ばかり飲んでしまいますが、瓶の方が舌触りがマイルドな感じです」
「そうだな、缶よりも瓶の方が泡の状態も良い」
二人で飲んだビールの感想を言い合う。
一緒に暮らし始めて一週間、これが私たちの間に最初に出来た習慣だった。




