第五章 鉄壁上司との同居④
数分後、気分を落ち着かせることが出来た私は非常階段をゆっくりと下る。
自分のオフィスの階まで近づいた時、下から誰かの声が聞こえてきた。
「仕事の後に食事でもしながらゆっくり聞いて頂きたくて……」
可愛らしい女の子の声だ。
こんなところで誰かに合うとは思わなかったけれど、社内なのだから無いわけではない。頭を下げて脇を通り抜ければいいやと、そのまま階段を下りようとした時、聞こえてきたもう一人の声に、私はその足を止めた。
「仕事の相談だと言うなら、社内ですればいい。他の人に聞かれたくないからとここまで来たが、わざわざ社外で聞くことではないだろう」
冷淡なくらいに淡々とした声は、さっき一緒にランチを取った上司のもの。
「でも、その……食事をしながら話したくて……」
「………」
私はいつのまにか息を潜めて二人の会話に耳を澄ませていた。
何となく出て行きにくくなったのもあるけれど、来た道を引き返さなかったのは彼が何て返事をするのか気になったせいだ。
“鉄壁統括”
女性の誘いをすげなく切り捨てる彼は、そう呼ばれているらしい。
けれどこの目でそれを見たことのない私は、半信半疑だった。
(だって……私を振った時はとても優しかったわ……)
綿雪の舞い降りる校舎の裏庭が脳裏に過ぎる。
困ったように下がる眦。頭の上に乗せられた大きな手のひら、そこから伝わる温もり。
「お願いします…一回だけでいいんです…」
耳に入った言葉に肩がピクリと小さく跳ねる。
昔の自分の声が聞こえたのかと思った。
けれどそれは現実の声で、あの頃の私なんか太刀打ちできない程色気のある声がねだるように次言葉を続ける。
「私……一晩だけで」
「分かった」
(えっ!)
相手がすべてを言い終わる前に告げた低い声に、私は目を見開いた。
(『分かった』って、誘いに乗ったの!?)
“鉄壁統括”じゃなかったの!?
そう叫びたい声をごくりと飲み込む。これ以上聞いては行けないのに、足がその場に張り付いて身じろぎひとつ出来ない。
うるさく鳴る心臓の音が下にいる二人に届いてしまわないかと、より一層息を詰めた時、再び低い声が聞こえてきた。
「君がしたいのは仕事の相談ではないとよく分かった。それならこれ以上話すことは無い。失礼させてもらう」
「そ、そんな……」
「言っておくが、“一晩”なんてとんでもない。業務外で“一分”だって君に割く時間はない」
聞いているだけで背筋か寒くなるほど冷淡な声がはっきりとそう告げた後、バタン、と扉が閉まる音がした。すすり泣く声とカンカンという鉄製階段を駆け下りる音が段々遠ざかっていき、私はやっと金縛りが解けたようにその場にしゃがみ込んだ。
(お…恐ろしい……)
噂に聞く“鉄壁統括”の実態を目の当たりにして、背筋に悪寒が走った。
(あの頃の彼とは本当に別人みたい……)
卒業してから今日まで、彼にいったい何があったのだろう。
気にはなるがそんなこと聞けるわけもない。
ゆっくりと立ち上がり腕時計を見ると、始業まであと五分を切っていて、慌てて階段を駆け下りた。




