第五章 鉄壁上司との同居③
程なくして社員食堂を出た私と大澤さんは、幾見君と別れ女性用トイレへ向かった。
ここトーマビルには、三階ごとに“女性専用パウダールーム”がトイレに隣接して設置されていて、昼休憩や就業後は多くの女性社員で賑わっている。
昼食後の化粧直しの為に立ち寄ると案の定そこは混んでいて、隣のトイレで口紅を塗り直す程度にしておこうかと思った時、その声は聞こえてきた。
「さっきのアレ、見た? 完全調子に乗ってたよね」
「見た見たあの雪女! 両脇にいい男を従えて鼻高々だったわよね!」
奥の方にいる彼女たちは私に気付かず、話を続ける。
「そうそう、まじうざ。仕事にガツガツして、まわりの男たちが引いてんの、分かんないのかねー」
「『仕事が出来る私ってステキ~』とでも思ってんじゃない? イケメンとの仕事でモテてると勘違い? ほんと笑えるー」
ぎゃはははっ、と笑う声が響く。
入口のすぐ脇で固まった私の隣で、大澤さんの方がピクリと肩を跳ね上げたのが分かった。
「いいかげんなことを」
大澤さんの低い呟きにそちらを見ると、綺麗な眉をぎゅっと寄せて険しい顔つきをしている。
「私……ちょっと用を思い出しました」
「主任!」
大澤さんの呼びかけを振り切るように、踵を返してパウダールームを後にした。
『雪女』
自分が陰でそう呼ばれているのは知っていた。
名前の“雪”からと、仕事中には感情を表に出さないせいだろう。
【Tohmaビール】に就職して初めて所属になった支店の営業部で、営業のことを学んでいる時、取引先は良識のある方ばかりだったが、まれに女だからと理不尽な扱いを受けることがあったし、営業が上手くいかず悔しい思いもした。
けれどどんなに辛い時でも『泣くのはいつも家に帰ってからだ』と自分に言い聞かせて、職場で涙を流すことを必死に堪えた。それもこれも、『女だからすぐ感情的になる』と言われたくなかったからだ。
そうして自分の感情を表に出さずにフラットな状態でいるように心掛けた結果、周りからは『氷の女』とか『雪女』だと言われるようになった。
酒の席で酔った男性社員からは『高嶺の花』と私の名前を掛けあわせて『雪山の花』と言われたりする。
(もう慣れきったことじゃない……)
速度を上げる足元を見ながら、自分に言い聞かせる。
本社のマーケティング本部に主任として赴任してからずっと、妬みからくる陰口を耳にすることはあった。更に私の部下に幾見君がついてからは嫉妬心も合わさって頻度が増えた。そして、ここに来ての“高柳統括マネージャー”だ。
(モテてるなんてこれっぽっちも思ってないわよ!)
言い返すことが出来なかった言葉が、心の中で湧き上がる。
(仕事にガツガツしてて悪かったわね! 仕方ないじゃない! 私には仕事だけなんだもの!)
陰口を言う相手に言い返さなかったのは、決して私が気弱だからじゃない。
仕事をするうえで『言うべきことは言う』と心に決めているが、今回のことは言っても変わらないだろう。なぜなら彼女にとって真実などどうでもよく、悪口を言う対象を貶めたいだけだから。そんな相手のことは放っておくべきで、言い返して余計に面倒なことになるだけだ。
分かってはいるけれどかといって腹が立たないのとは別問題。
めらめらと湧き上がる怒りを胸に、勢いのまま進んで行く。昼休憩のせいで人のまばらな廊下に、跳ねるようなヒールの音が鳴り響いた。
「このままじゃダメ……」
こんなイライラした状態のまま午後からの業務に突入すれば、何かいらぬ失敗をしでかしてしまう。私は決して『仕事が出来る氷の女』ではない。
外の空気でも吸えば気分転換になるかもと、普段はほとんど使うことのない非常階段の方へ向かう。社屋の裏手側にあるそこは屋外避難階段となっていて、ほとんど人が通ることは無い。私そこを通って自分のオフィスのある階まで戻ることにした。
キィッという音と共に扉を開けると、思ったよりも冷たい風が肌を撫でた。
「高っ!」
高所恐怖症ではないはずだけど、下を見ると足元が竦みそうになるほどの高さに思わず鉄の柵をギュッと掴む。慌てて足元から前方に目線を上げると、遠くの方にあるビルまでが良く見渡せた。
秋晴れと、髪を揺らす乾いた風が心地良い。
「気持ちいい…」
手すりを掴んだまましばらくそのまま景色を眺めていた。




