第四章 思いがけない避難先④
軽く胃袋が満たされ互いの缶がほぼ空になった頃を見計らって、私はここに来た時から気になっていたことを口にした。
「避難させて頂いて、本当に感謝しています。今夜一晩、このソファーをお借りしますね」
夜明けまでもう数時間しかない今、少しでも早く眠ったほうがお互いの為だ。早々と消灯を促すことにする。
これ以上高柳統括の睡眠時間を削ってしまうのが申し訳ないのもあるが、正直言って、これ以上深夜の密室に二人きりな今の状態に耐えられそうになかった。
「そのことだが――」
「割とどこでも寝れるタイプですので、お気遣い無用です」
今年は残暑が厳しい。十月になったというのにまだ日中は暑く夜もそんなに冷え込んだりしていない。地球温暖化はよろしくないが、今の私にはありがたい気候である。
「後片付けもやっておきますので、統括はもうおやすみになっ」
「統括じゃない」
「え?」
「今は仕事中ではない」
「あ……」
現状打開に気を取られて、うっかりさっき言われたことを忘れてしまっていた。
「それにさっきから、俺の話も聞かずに勝手にアレコレ決めて……青水は仕事中はしっかりしているのに、プライベートでは相変わらず人の話を聞かないな」
「っ」
『相変わらず人の話を聞かない』と言う台詞に、私は目を見開いた。
それはあの“お見合い”の日のことを示唆している。
トーマビールで再会してからこれまで一度もあの日のことは話題に上らなかった。
私達は『はじめまして』なのだから。
「……あの時は大変失礼いたしました」
「あの時もきちんと謝罪を受けたから、気にしていない。」
「ありがとうございます。統か…高柳さんは覚えていらっしゃったんですね、私のこと」
「少し前に食事をした相手のことを忘れたりしないだろう」
「です、よね…」
「そういう青水こそ覚えてないのかと思っていたが」
「ちゃんと覚えていましたよ」
(もっと前からずっと忘れていません)
心の中だけでその言葉を付け足す。
(私が“ちゃんと”覚えているのは、お見合いの日のことではなく大学サークルの時からですが)
一瞬口走りそうになった言葉を飲み込んで、それとは違うことを口に出す。
「でも高柳統括が『はじめまして』とおっしゃったので、私のことを覚えていらっしゃらないのだと思っていました」
「あの場で『お見合いの時はどうも』とでも言って欲しかったのか?」
「……それは困ります」
そんなことが職場でバレてしまったら、間違いなく仕事がやりづらくなっただろう。なんたって相手は独身女性がこぞって釣り上げたくて堪らない“イケメンエリート様”なのだ。どんなに鉄壁統括と陰で言われていたとしても、それを上回るほどの人気が彼にはある。
瞬時に色々なことが頭を巡っていた私を見ながら、高柳さんは「それはそうと、」と続けた言葉に動きを止めた。
「青水はベッドルームを使いなさい」
「え?」
「シーツは替えておいた」
「いや、あの、私はソファーで十分」
「襲って欲しいのか?」
目を見開いて、ひゅっと息を吸い込んだ。
正面からじっとこちらを見つめる彼は真顔で、目元も口元も少しも緩む気配はない。
射すくめられた私はその場で固まったまま口を開くことも出来ない。
「職場の女に手をつけるほど困ってはないが、俺も男だ。据え膳を喰わないほど馬鹿じゃない」
(困ってないんだっ!)
余裕はないのに余計なことに突っ込みを入れてしまうほど、私はパニックに陥っていた。
(鉄壁はどこにいったのよ~~っ!)
経験豊富な女性なら、転がり込んできたこの状況を『一晩だけでも』と愉しむことが出来るのだろうけど、私にはそんなことは無理。
だって私は――
「冗談だ」
「はっ?」
「冗談だと言っている」
彼が言っていることを理解するまでの間に、たっぷり十秒はかかった。
私がよっぽど間抜け面をしていたのだろう。ローテーブルを挟んだ向かい側の彼は、肩を震わせ「くくっ」と笑った。
(わ……笑ってる……)
鋼の表情を持つ上司が目の前で声を出して笑っている。
俯いているからはっきりとその表情は分からないが、笑っているということ自体がレアなことなので、その姿に釘付けになってしまう。
しばらく呆然とその姿を見つめていると、すぐに笑いを収めた高柳さんが顔を上げた。
「冗談が冗談にならなくなる前に早く寝室に行きなさい。そこは鍵がかかるから」
「……はい」
さっきまで笑っていたのが嘘のような真顔の上司にそう言われ、私はそれ以上何も言うことが出来ずに肯いた。
半ば追いやられるようにベッドルームに入り言われた通り鍵を掛ける。そのままふらふらとベッドまで行き、ストンとそこに腰を下ろした。
(か、からかわれた……んだよね?)
じわじわと羞恥で顔が熱くなる。
(冗談とか、言うんだ……)
彼を狙っている女子達が見たら黄色い悲鳴を上げるだろう稀少な笑顔。
(笑ってるの見るの、何年振りだろう……)
あの頃の彼の笑顔はもっと素直な感じだった。今日みたいに顔を伏せて笑うような笑い方はしなかった気がする。整った顔をクシャリと潰して笑う、少年のような無邪気な笑顔が好きだった。
しばらくの間、遠い記憶に思いを馳せていたが、朝になったら早くここを出ないといけないと思った私は、ベッドの端に体を横たえた。
真新しいシーツが素肌にサラリと心地良いが、彼の匂いのするベッドになかなか緊張がほぐれず、結局私が眠りについたのは夜明けが近付いた頃だった。




