第三章 嵐は突然に③
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「青水主任。私はそろそろ…」
隣から掛けられた声にハッとなって時計を見ると、いつのまにか六時を過ぎている。
窓の外はいつのまにか真っ暗だ。
大澤さんは契約社員なので、よっぽどのことでもない限りは定時きっかりに帰っていく。
結婚している彼女は、毎日仕事から帰って夕飯の支度をしているという。
「うちはまだ子どもがいないから、そんなに大変じゃないですよ」と彼女は言っていたけれど、会社で仕事をした後に更に帰宅後も“家事”という名の仕事が待っているなんて大変だな、と思う。家事、特に料理の苦手な私には、上手くこなせる自信はない。
(結婚生活は私には向かないわ……一人で生きていくために、仕事だけはしっかりしないとね)
「大澤さん、お疲れ様でした」
「主任もお疲れ様です。お先に失礼します」
大澤さんのうしろ姿を見送った後、パソコンモニターに向き直った。
「雪華さんはまだ帰りませんか?」
斜め上から降ってきた声に顔を上げると、鞄とジャケットを小脇に抱えた幾見君がデスクの隣に立っていた。
「もう八時ですよ?」
「えっ、やだほんと」
ついさっき大澤さんを見送ったはずなのに、もうそんなに時間が経っていたなんて――
「私はもう少しやってから帰るから。幾見君はもう上がってね」
「俺、手伝いましょうか?」
「ありがと。でもあと少しだから大丈夫。お疲れさま」
「分かりました、お疲れ様です」
帰ろうと背を向けた幾見君に、「あっ」と思い出して声を掛ける。
「幾見君!」
呼び止められた彼が振り向くのに合わせて、私は次の言葉を口にする。
「明日からちゃんと名字で呼ぶように!」
軽く目を見開いた彼は、口の端を軽く上げると
「善処します。ではまた明日――雪華さん」
笑顔でそう言って帰って行った。
(もうっ、絶対直す気ないわね、あの子)
意外と図太い神経をもっているのだろうか、ちょっとやそっと注意したくらいじゃやめそうにない。さすが営業成績トップの実績を持つエリート。
(って、感心してる場合じゃないわ。若手エリートよりも怖いグループトップの鉄壁エリート様から出された仕事を終わらせないと)
四散そうになる集中力をかき集めるべく、すうっと息を吸い込んでから目の前の画面に意識を集めた。




