第二章 『はじめまして』をもう一度③
その日、私が帰宅したのは七時前。こんなに早い時間に帰宅したのはいつぶりだろう。
いつもは週初めから八時以降の帰宅になることは当たり前なのに、今日は定時と共に職場を後にした。
原因は高柳滉太。
彼のせいで今日一日、仕事が全く手に着かなかったからだ。
(まさか、高柳さんがホールディングスの人だったなんて!!)
今日は一体、何度この台詞を叫んだだろう。
あくまで口には出さずに心の中で留められた自分を褒めてやりたい。
『高柳君。こちら商品部一課主任の青水くんだ。青水くんは今回の企画の発案者でもある。』
高柳さんを伴って私のデスクまでわざわざやってきた浅川部長に、慌てて立ち上がる。
『はじめまして、高柳です』
先に言われた自己紹介の言葉に、開きかけていた口をむっとつぐんだ。
(『はじめまして』……)
私を見下ろすその顔は、少しも崩れることは無くピクリともしない。
同じようなシチュエーションがあったことは記憶に新しい。
(もしかしてあの時の“お見合い”が私だって気付いていない?)
いや。大学生のことならともかく、少し前に会った時の私とはさほど変わりはない。
“お見合い”の席ではしっかり名前も名乗っていたし、“青水”なんて珍しい名前だから他の人と混同することもないだろう。
(ああ、そうか。きっと私と会ったことを知られたくないのね……)
「はじめまして、青水雪華です。五輪特別企画はここにいるメンバーみんなで考えたものです。これから色々とご意見ご指導、よろしくお願い致します」
口の端を軽く持ち上げ、瞳を柔らかく細める。
営業時代に取引先から最も定評のあった営業スマイルを彼に向けた。
「ばっっかみたい…」
思いっきり自分への罵声を口にして、ビールの缶をぐいっとあおる。ひとりっきりの自宅に相槌を打ってくれる人はいない。
帰宅してすぐシャワーを浴びた私は、膝丈のハーフパンツに首のよれたTシャツというゆるい恰好で、ビール片手にラグの上で胡坐をかきながらやさぐれていた。
コンタクトを外して愛用の黒縁眼鏡、外では斜めに流している前髪をクリップで止め、普段は隠しているおでこも全開にしている。
外では“きちんと”した格好で武装している分、家にいる時くらいは自分が一番楽だと思える姿でいたいのだ。
目の前のロウテーブルにある皿から枝豆を口に入れて、もぐもぐと噛みしめた。
「『私に気付いたらどれほどびっくりするだろう』なんて……そわそわしていた私のばかっ!」
朝礼で彼の姿を見てからずっと落ち着かず、気もそぞろで仕事に集中できなかった。
その上、浅川本部長に連れられて挨拶した後からはもやもやし、それが次第にイライラに変わって今に至る。
勢いよく缶の中身をあおると、あっという間に空になってしまう。
週末以外は一缶だけ、と自分を戒めているのを破って、二缶目を取りに冷蔵庫へ向かった。
レンジで解凍した冷凍枝豆と買い置きのチーカマ。それが今日の夕飯。
足りなければ冷凍ご飯をチンすればいい。
いつも大抵家での夕飯はこんなもの。はっきり言って料理は不得手。
家事全般自体あまり得意ではないけれど、仕事で疲れているのに汚い部屋に帰るのは嫌なので、部屋はそこそこの状態を保つようにしている。
というより“物を置かなければ片付けなくていい”という持論から、あまり物がない。“シンプルイズベスト”といえば聞こえはいいが、“殺風景”と言われたらそれまでだ。
家事の中でも一番苦手なのは料理で、正直“食べる”という行為にあまり興味はない。
お酒は好きだけどつまみが無くても飲めるタイプだし、空腹なのもあまり気にならない。
冷蔵庫からよく冷えたビールの缶を取り出して、定位置に戻るとプルタブを開ける。プッシュっという気持ちの良い音が部屋に響いた。
さっきは勢いに任せて缶のまま飲んでいたが、今度はきちんとグラスに注ぐ。本来ならビールは泡と共に味わうのが私のポリシーだ。
ビール会社に勤めているくらいなので、自社製品が一番好きだけど、他社の新製品も必ずチェックするし、今流行のクラフトビールも飲む。なんだかんだで、ビールが好きなのだ。
「ああっもうっ!!」
大好きなビールを飲んでも全然解消されない気分に、私はとうとう音を上げた。
こんな時はこれに限る、とスマホを手に取る。
【HELP ME!】
すばやくそう打ち送信した後、私はグラスのビールをもう一度あおった。




