風俗説教おじさん
新宿の裏路地、ネオンの光は濁った水たまりに映り、まるで誰かの人生のように歪んでいた。雑居ビルの一室、汗と安物の芳香剤が混じる空気の中で、田中茂(49歳)はベッドの端に座っていた。プレイが終わった瞬間、彼の目が曇る。「賢者モード」は快楽の残滓を洗い流し、代わりに彼の内なる虚無を呼び覚ます。
茂はかつて、零細商社の営業マンだった。バブル期の残りカスを啜りながら、若い頃はそこそこの夢を持っていたが、離婚、借金、リストラ、そして親の死。人生は彼を容赦なく削り、今は派遣のデータ入力で月15万円の生活を繋ぐ。唯一の「贅沢」は、給料日の後に訪れるこの風俗店と、そこで繰り広げる説教だ。彼にとって、説教は自分を「まだ生きている」と感じる最後の手段だった。
隣では、風俗嬢のユキ(24歳)が、黙って服を着ていた。彼女は茂の常連で、彼の癖を嫌というほど知っていた。プレイ後の10分間、茂は決まって「人生の教訓」を語り始める。ユキはそれを「老人の呪い」と呼び、ただ耐えるだけだった。
「ユキ、お前、こんな仕事してちゃダメだ」茂の声は、低く、まるで自分の墓碑銘を刻むようだった。「若いのに、なんでこんなとこで腐ってる? 俺の若い頃はな、もっと…もっと何かがあったんだよ」
ユキは無表情で頷き、スマホの画面をスクロールした。彼女は茂の話を聞いていない。茂の言葉は、彼女にとってただのノイズだ。だが、茂は気づかない。いや、気づきたくない。「お前、こんな生活してたら、将来、俺みたいになるぞ。みじめで、誰も相手にしてくれない、ただのゴミだ」
ユキの手が一瞬止まった。彼女は鏡越しに茂を見たが、すぐに視線を逸らした。「ふぁ、そうですか」と呟き、口紅を塗り直した。茂の声は、まるで独り言のように部屋の壁に反響した。
茂の説教は、風俗店に限らなかった。コンビニの店員には「もっと真面目に働け」と吐き捨て、電車では若者のスマホに「そんなもん見て何になる」と絡む。だが、最も執拗なのは、この「賢者の時間」だった。プレイ後の数分間、茂は自分がまるで世界の汚物を浄化する預言者だと錯覚する。だが、その言葉は誰も救わず、ただ空気を重くするだけだった。
ある雨の夜、茂はいつものようにユキの部屋でプレイを終えた。外の雨音が、部屋の薄い壁を叩く。茂は、いつもより酒の匂いを強く漂わせていた。「ユキ、お前、なんでこんな仕事選んだ? 親が泣くぞ。俺みたいに、誰もいなくなった人間の気持ち、わかるか?」彼の声は、まるで自分がその場で朽ちていくかのように弱々しかった。
ユキは、いつものように黙って聞いていたが、今日は何か違った。彼女はタバコに火をつけ、煙を吐きながら言った。「田中さん、いつも同じ話だよね。私の親が泣く? 田中さんの親は、田さんがここに来て説教してるの見て、泣かないの?」
茂の顔が凍りついた。「な…何だと?」彼の声は震え、まるで壊れた機械のようだった。ユキは続ける。「田さん、毎月ここに来て、私に説教して、で、何? 自分が偉い気分になれる? それで、田さんの人生、変わった?」
部屋に重い沈黙が落ちた。雨音だけが、まるで時間の無意味さを嘲笑うように響く。茂は反論しようとしたが、喉が詰まった。「俺は…お前のためを…」
「やめてよ」ユキが遮った。彼女の目は、冷たく、まるで茂の存在を否定するようだった。「私のため? 田さんは、自分のために喋ってるだけじゃん。私、毎回聞いてるけど、なんにも変わらないよ。田さんも、私も、この部屋も」
茂は立ち上がり、フラフラとドアに向かった。「ふざけるな」と呟いたが、声に力はなかった。ユキはタバコの灰を落とし、「時間ですよ」とだけ言った。ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
その夜、茂はアパートに帰らなかった。雨の中、歌舞伎町の路地を彷徨い、コンビニで買った焼酎を飲み干した。ユキの言葉が、頭の中で錆びた釘のように刺さっていた。「自分のために喋ってるだけ」。彼は、説教で誰かを救おうとしていたつもりだった。だが、本当は、自分の失敗と孤独を他人に押し付け、ほんの一瞬だけ「自分はまだ価値がある」と思い込みたかっただけだ。
鏡はもう見られなかった。そこに映るのは、ただの疲れ切った中年男。リストラの屈辱、元妻の不倫、親の葬式で誰も来なかったあの日の空虚。茂の説教は、彼自身の墓を掘るシャベルの音だった。
翌月、茂はまた風俗店に現れた。ユキの部屋でプレイを終え、彼は口を開きかけたが、すぐに黙った。ユキは無言でタバコを吸い、茂を一瞥もしなかった。茂は「…悪かった」と呟き、部屋を出た。それが、彼の最後の言葉だった。
数週間後、茂の姿は歌舞伎町から消えた。誰も気にしなかった。ユキは別の客に「なんか、あの説教おじさん、来なくなったね」と言い、すぐに別の話題に移った。茂がどこに行ったのか、誰も知らない。ある者は、彼が借金取りに追われて夜逃げしたと言い、ある者は、ただ静かに死んだのだろうと笑った。
歌舞伎町のネオンは、変わらず輝いていた。雨は降り続き、誰も茂の説教を覚えていない。誰も、彼の存在を必要としない。