第六十一話 運命の括目
気が付くと、ヌルスは水中にいた。
傍らを、日記帳が同じように沈んでいくのが見える。意思疎通の為に油紙に包まずに持ち歩いていたソレは、水に濡れてもう二度と使いものにならなさそうに見えた。
ぼんやりと、バラバラに千切れて沈んでいくページを眺めるヌルス。
《はっ いや、それどころじゃない》
そして我に返る。衝撃で、意識がぼんやりしていた。
ぺちぺちと自らの触手で本体を叩き、意識をしゃんとさせる。
《そうだ、私は湖の巨大な怪物に……アルテイシアは!?》
ここに至るまでの記憶の連続性を認識した所で、大事な事に気が付く。
居ない。
衝撃の直前、とにかく守ろうと触手で包み込んだはずの彼女の姿が、懐に無い。
意識が飛んだ拍子に手放してしまったのか。
《く……っ、ど、どこだ! アルテイシア、どこだ!!》
薄暗い水中を必死に探す。周囲には砕けた岩やら石やらが大量に沈みつつあり、感覚を阻害してくる。光にも匂いにも頼らないこの感覚も、完ぺきではないようだ。
《いや、そうだ、魔力! 彼女の魔力を探れば……!》
魔術師としての感覚に意識を研ぎ澄ませ、彼女の魔力を追う。
居た。
少し離れた場所に、ゆっくりと沈んでいく、清廉な魔力の反応。
生きてはいるようだが、動きが無い。衝撃で気絶しているのか。水を吸ったローブに引きずられるように、華奢な少女の体が水底に沈んでいく。
《まってろ、今……ヒィ!?》
アルテイシアを助けに行こうとするヌルスの躰が、巨大な、あまりにも巨大な魔力反応を感じ取って縮こまる。
いる。
4層の真の恐怖。足元に潜む死。
かつてヌルスを襲い、今しがたフロアガーディアンを食い殺した巨大な怪物が、ゆっくりとこちらに向かってきているのを感じる。その向かう先は……ヌルスではない。
アルテイシアだ。
《…………っ!!》
この時、ヌルスの中では夥しい数の葛藤が一瞬で駆け巡っていた。
見捨てるべきだ、と理性は言う。この状況、仕方ないし誰も悪くない。あんな化け物に立ち向かった所でもろとも食われてしまうだけだ。きっとアルテイシアやその仲間たちだって責めたりしない。その仲間たちだって、一目散に逃げ出していたではないか。
理論武装は十分だ。そもそも、ここでアルテイシアを助けに向かっても、何もできない。普通に考えればせめてヌルスだけでもこの場を凌ぎ、情報を冒険者達に伝えるべきである。
何より、ヌルス自身の目的を忘れてはいけない。
生き延びると決めたのだ。唯の魔物として死ぬのではなく、必ずこの迷宮を出て、ヌルスがヌルスとして存在した意味を残すのだと。
そう、分かっている。
分かってはいる。
《……》
「そうですか。ふふっ、それは良かったです。私もそう嫌いじゃないんですよ」
「あははは、そんな大げさな。でもこんなに簡単に見つかるとは思っていませんでした、ヌルスさんの日ごろの行いが良いからですね!」
「それじゃあ、ヌルスさん。また迷宮でお会いしましょう」
《いや。アルテイシアは、私の目的に必要だ》
状況を整理しよう。
今現在、ヌルスとアルテイシアは謎の地下水脈に落下している。そして目の前には、ここを縄張りとする超巨大モンスター。巨体にも関わらず敵の動きは高速であり、命綱を陸に残していないヌルスの機動力では離脱は不可能だ。このままでは、アルテイシアとヌルス、それぞれ各個撃破されるだけだ。
だが、見たところ敵はあまりにも巨大すぎる。恐らく手あたり次第に丸呑みし、体内で獲物を分解する、というものだろうが、あそこまで大きいと飲み込まれた所で、知性の無い魔物はともかく、人間やヌルスであれば生存の目があるのではないだろうか。であるならば、どうせ逃げられないならアルテイシアの近くにいた方が今後を考えると色々な可能性が残せるだろう。
彼女は現時点ではヌルスより優秀な魔術師だ。というか、魔力感知などの特殊スキルを覗けば、ヌルスは彼女の友人たちにも劣っている。ここでヌルス一人生き延びたとしても、それは僅かな時間稼ぎにしかならない。
方針は決まった。
ヌルスは動きを阻害するだけとなった外套、籠手やブーツを脱ぎ去り身軽になると、触手を振り回してアルテイシアの元に向かった。
流石に各種道具をため込んでいる胴鎧だけは、捨てるわけにはいかないので装備したままだが、他は容赦なく廃棄する。
あんな重しをつけていては到底間に合わない。
なんとか沈むアルテイシアの元にたどり着いたヌルスは、眼前に迫る巨大な口を前に、今度こそはぐれないよう彼女の体をしっかりと抱きしめる。
《いち、にの……せいっ!》
巨大な口……もはや天から降ってくる門戸にしか思えないそれに、タイミングを合わせて飛び込む。相手が高速で動いているのが逆に助かった、ちょっと前進すればタイミングをずらすのは難しくない。
そうやって、自ら暗闇の中に飛び込んでいくのはすさまじいストレスを感じた。腕の中のアルテイシアの体を抱きしめて、なんとか正気を保つ。
背後で巨大な牙と顎が噛み合わされ、生物のそれとは思えない衝撃音が響く。視界の全てが暗黒に閉ざされたばかりか、魔物の体内に侵入したせいか、急激に感覚が鈍っていく。水流が渦を巻き、ヌルスの体を攫って行く。
《あ、ダメな奴だ、これ》
ヌルスはしっかりとアルテイシアを抱きしめると、自分の触手を固結びにした。直後、高速で振り回されて絞られているような感覚を最後に、全ての外界認識はブラックアウトした。
《いたたたた……》
怪物に飲み込まれて10分か、1時間か、それとも一日か。
時間の間隔が曖昧だ。それでも、ヌルスは何とか意識を失う事なくどこかへたどり着いた。ここではどうやら外部認識が機能している。
何やら、ほんのり明るくて生臭く、じっとりした空間。触手的には過ごしやすいが、どこか本能的に危機感を感じる。ここに長居してはいけない、そんな焦燥感に炙られて、ヌルスはゆるゆると身を起こした。
ヌルスがいるのは、4層フロアガーディアンの間に続く洞窟を思わせる、そこそこ広い回廊のような場所だった。まあ、迷宮内ではないのは一目でわかる。
どうやら、あの巨大怪物の体内らしい。壁も床も肉っぽく、その向こうで大量の魔力が血液のように脈動しているのが感じ取れる。ほんのり明るいのは、その魔力の輝きが肉の向こうから透けているからだろう。
振り返ると、こちらから流されてきたのだろう。肉の床が、揺蕩う水の中に沈んでいる。反対側、奥へと視線を向けるが、こちらは明るさとは別に高濃度の魔力で認識が阻害されているらしく、遠くまで見通す事が出来ない。
《ふぅ。どうやら、砂嚢に招かれてミンチだとか、胃袋に取り込まれて溶かされるとかにはならずに済んだようだ。まあ魔物だしな……そういう器官はないだろうとは思っていたが》
いくら常軌を逸した謎の怪生物とはいえ、迷宮に潜むなら魔物には違いない。そして、魔物は通常の代謝活動は行わない。まず最初の賭けには勝った、という事か。
だが油断はしていられない。ここが安全という保障は皆無どころか、魔物としての本能が一刻も早い脱出を促している。理屈で考えてもここが危険地帯であるのが道理だ。
《と、アルテイシアは!?》
遅れて気が付き、慌てて確認する。
確認すれば、魔術師の少女の姿はちゃんとあった。ちょうど、ヌルスをベッドに俯せに臥せっているような体勢。その腰元には、きつく結ばれた触手が巻き付けられたままだ。ここに運ばれる過程で離ればなれにならずに済んだようで、ほっとするヌルス。
見たところ外傷はない。トレードマークのトンガリ帽子はどっかにいってしまったがそのぐらいだ。
すでに意識を取り戻している様子の彼女は、身じろぎせずにずっとヌルスを見つめている。 微動だにせずこちらを凝視する青い瞳。
あれ、なんだ。そこまで考えて、ヌルスはようやく自分の状態を思い出した。




