十三月の離宮 5
ニンジンを口にした男性は、しばらくの間それを咀嚼していた。
真剣に味わっているのだろう、眉間に少し皺が寄っている。
(……分かるわ。とってもおいしいから)
祖国では、いつでも腐ったスープが出されるし、時にはパンに下剤が盛られていることもあり、人が作ったものを食べるのは、怖いことだった。
だから、自分が作ったものが一番安全という思いが私の中にはある。
(お城にいるくらいなのだから、この男性もそんな苦労をしているのかもしれないわ……)
「……人が作った、といっていいものかは悩むが、こうして食べるのは十年ぶりか」
「おいしかったですか?」
そう言って、距離を縮めてしまったことが意外だったのだろうか。
男性は、真っ黒な瞳を見開いて、私のことを見つめた。
「…………悪くなかった」
「それは良かったです」
にっこりと笑えば、ほんの一瞬動きを止めたあと、男性が少しだけ距離を詰めてくる。
私たちは、気がつけば至近距離で見つめ合っていた。
男性の肩の上で、アテーナはあいかわらず嬉しそうにすり寄っている。
……アテーナは、私に害意を持つ人を許しはしない。
(もし危険な人なら、こんな風に懐くはずないから、きっとこの人は私にとっていい人なのよね?)
そんなことを思いながら、少しだけ警戒心を緩めて男性を見上げる。
「……ところで、俺が誰か知っているか?」
「……? えっと、この国ガディアスの軍人さんでしょうか」
「まあ、間違いとは言い切れないな」
残ったニンジンが、私の口に押し込まれる。
甘い香りと、今さら気がついてしまった間接キス。
そう、こんな風に誰かの近くにいたことが、私にはないから。
……だから、きっと、こんなにも心臓が苦しいほどに高鳴ってしまっているに違いない。
シャクシャクと音を立てながら、ニンジンをかみ砕いて、そんなことを思っていたのも束の間。
男性が、直前までの温かい微笑みを消して、獰猛に微笑んだ。そう、これが本当の姿だとでもいうように。
「――――カイル・ガディアス。この国の皇帝だ」
「…………カイル・ガディアス陛下!? え、どこにおられるんですか!?」
「……目の前にいるだろう?」
冗談を言っているのだと思った。
けれど、ここはどんなに荒れ地で、ようやく耕し始めて整えられてきたとしても、やっぱりガディアス国のお城の中なのだ……。
お城の中で、皇帝陛下だと名乗る人なんてさすがにいない……。それに、真っ黒なこの色合い、噂に聞いていた絶世の美貌だというお姿……。
黒髪に黒い瞳は、珍しい。
侍女のダリアも、黒髪に黒い瞳だけれど、この国の特徴ではない。
そう、それは私のお母様と同じ東方地域の特徴……。
(……カイル・ガディアス陛下が、皇帝陛下で、私はいちおう十三月の離宮の妃?)
「――――わ、私のまだ見ぬ旦那様、ということですか!?」
「ん……。反応するのはそこか? だが、どんな形であれ、君が離宮の妃としてここにいる以上、それが事実なのかもしれないな」
「えっと」
「通常であれば、妃であろうと不敬を問うところだが、同じニンジンを食べた仲だ。許してやろう」
「……ふぇ」
(耳元でささやくの、やめて欲しいです。だって、ぞわぞわして、思わずこすってしまいたくなってしまいますから!)
ゴシゴシと耳元をこすっている私を陛下は、楽しそうな、それでいて意地悪げな表情で眺める。
「そういえば、命を助けてもらった礼をまだしていなかったな? 欲しいものがあれば、何でも言うがいい」
「何でも……。ですか?」
「ああ、この俺が手に入れることができないものなど、この大陸には存在しない」
きっと、その言葉は事実なのだろう。
東から西。そして北から南。
この大陸の覇権を、カイル・ガディアス陛下が握っていることは事実だ。
そうであれば、この大陸すべてのものが、カイル・ガディアスのものだ、と言っても過言ではない。
(それなら、私にはどうしても欲しいものがある)
「……欲しいです。北から南、そして東から西、全ての」
「――ほう。可愛らしい顔をして、強欲だな? だが、一度口にした言葉だ。必ず叶えてやろう」
見下ろしてくる真っ黒の瞳は、獰猛でありながら、どこか楽しげだ。
「欲しいです! まだ見ぬ大陸全土のお野菜!」
そのあとの沈黙は、とても長かったけれど「そうか……」と一言だけ口にした陛下。
願いが大きすぎただろうか、と緊張して見つめていると、「約束しよう」と答えが返ってくる。
「それでは、失礼する」
「あ、次はいつお会いできますか……?」
「――――それは」
「……そうでした。この場所は、十三月の離宮ですものね。皇帝陛下が、いらっしゃることなど」
忘れてはいけない。私は、運良く助かった命をこの場所で繋いでいけばいいだけ。
たくさん望むなんて、してはいけないことだ。
でも、なぜだろう。こんなにも、目の前の人が去って行ってしまうことを残念に思ってしまうのは。
「――――もう一度名前を教えてくれ」
思いのほか、優しく質問される。
じっと見つめた陛下の表情は、少しだけ微笑んでいるようにも見える。
「――――ソリア・レーウィルです」
「そうか。だが、たとえ月日から切り離された場所であろうと、皇帝である俺には関係ない」
「……そう、ですよね」
「ソリア……。三日後には、大陸中の野菜の苗とともに、会いに来てやろう」
その瞬間、吹雪のような冷たい風とともに、陛下の横にあの日見た、アイスブルーの瞳をした白い豹が現れる。
「幻獣……」
「そうだ、こいつと同じだ」
首元を差し出すようなアテーナを指先でくすぐった陛下は、その手で今度は白い豹の頭を撫でた。
「――――どうして」
「ソリア、また会おう」
白い豹と共にかき消えるように、陛下の姿が見えなくなる。
居場所を失ったアテーナは、一度私の肩に乗ってから、いつものように姿を消してしまう。
三日後に現れた皇帝陛下に続くのは、列をなす野菜の苗を積んだ荷馬車。
私はまだ知らなかったのだ。本来であれば、陛下が来ることなどないはずの十三月の離宮。
けれど他の離宮には各月の始め、一年に一度しか、陛下はお出ましにならないなんて。
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