昭和二十年 八月九日 坂本紘一 瀬原集落の秘密
上座敷に、全員が一先ず通された。
初が、全員に御茶を出してくれた後、奥に引っ込んで、全員分の昼餉を作ると言った。
安幾は、喜久と五人の子供達を奥座敷に連れて行って休ませてくれている。
今日は、成子と逸枝だけでなく、貴顕と了まで水汲みや火焚きに借り出されていた。
紘一は、こんな時だが、里の教員なのだという、実方尚顕の若々しさと顔立ちの整い方に驚いていた。
此の姿で、栄より一つ年上だというので、紘一は、再び、何が何だか分からなくなった。
―また、整った顔の造作をした人だな。こりゃ、実方家の血縁で間違いないね。しかも、何か、全体的な雰囲気が凄く引き締まっているというか。若い。体が若い、って感じだ。そして多分また、脚の長い人だよ。身長は尚顕さんの方が高いのに、座高は利助さんと変わらないし、残酷なくらい顔の大きさが違うもの。
実方分家の近所に住むのだという利助が、尚顕の隣に座っていると、顔の大きさが、まるで違うので、軍服姿の人間が二人並んで胡坐を掻いているだけなのに、上座敷の光景の遠近感が狂う様な気がするのだ。
眉目秀麗な教員、実方尚顕は、事情を説明してくれた。
「実験中止の後くらいから、吉野分家や下方限の人間が家の周囲を、うろつき始めまして。不穏なものを感じてはいたのですが、近所は実方の親戚ばかりですし、助けてもらって、平穏に暮らしていました。其れが、急に、昼前に、顕彦殿が御見えになったのと、殆ど同時に、窓から石を投げ込まれました。驚きました。其れで、顕彦殿が、うちの庭に出たところ、ザッと人が散りました。何時の間に、あんなに、我が家の庭に人間が潜んでいたやら。其れから、顕彦殿に、此処に避難してほしいと言われて、連れて来て頂いたのです。道すがら御説明して頂きましたが、そういう事でしたか。全く危ないところでした。…此れが、夜中にでも行なわれていたなら…。最悪の事を想定しなければならなくなっていたでしょう。あの通り、小さい子供が五人も居りますから、全員連れて逃げ出せたか如何か。利助さんには、何と御礼を申し上げたら宜しいか」
何の、と、利助は、悲しそうに言った。
「偶々、自分の家の庭に出て居ったら、あの騒ぎよ。とても見過ごせん。うちの孫くらいの年の者が怪我でもしていたらと思うと、身が縮む思いがする。熱りが冷めるまで、家族は此処に隠しておきなさい」
悔しいです、と尚顕は言った。
「将が居たら、上手く話を付けてくれたかもしれないですが。あいつ今、ラバウルに出征しているもので。基地で事務担当、という話ですが、もう手紙も来やしません」
しょう、と、我が息子と同じ音の名前の人間の名前を聞いて、静吉が、おや、という顔をした。
顕彦が説明してくれる。
「顕将という、実方分家の者が居りまして。ややこしい話ですが、尚顕さんの、御兄さんが理顕さんという名前なもので、其方は、将と呼ばれているのですよ。勇顕さん、御存知でしょう?あそこの一人息子なのですが、そいつが家の後継でして」
「ああ、弁護士の実方勇顕さん。成程」
静吉が納得した顔をすると、そうです、と顕彦が言った。
「勇顕さんは今、寝付いちまっているのですが、其の一人息子が弁護士になって、外の弁護士事務所で修行して居りましてね。其れが、寝付いた親父さんの為に戻って来た矢先、赤紙が来まして」
「思い出した、栄と同い年の子だったな。そうか、ラバウルに」
―父さんも知っている人なのか。
紘一は、辰顕に、そっと耳打ちした。
「里にも弁護士が居るの?」
「居るよ。事務所兼自宅が上方限に在るの。上町にも仕事場が在ったけど、焼けちゃって。里関係の事件は、大体其処が外と遣り取りをしてくれていたの」
―…ラバウル航空隊っていうと…昭和十七年一月には、ニューブリテン島を制圧しているから…三年前には其の人は既に里に居なかった?そうすると、勇顕さん、という人は、更に其の前に倒れている計算になる。成程、さては、軍と八次さん達が近付く時には、既に…。其れは深読みかもしれないけど、弁護士の不在が、今の混乱に拍車をかけているとは言えそう。
重なる時は重なるものだな、などと、紘一が思っていると、利助が嘆かわしげに、全く、と言った。
「女子供に石を投げる様な者は、ろくな者では無い。不満の捌け口にされただけだ。嘆かわしい、自分が生きているうちに、上方限で、他人の家の窓硝子に投石する様な不届き者を見ようとは。誇りは無いのか。品性下劣としか言い様が無い。此の様な理不尽は見過ごせん。坂元家が気の毒でならん。第一、巫女を廃止するのは、瀬原一門の年嵩が決めた事だというのに」
清水の双子が、声を揃えて、え?と言って聞き返した。
新しい情報だな、と紘一は思ったが、双子も辰顕も驚いている。
あまり知られていない事らしい。
利助は苦々しげに答えた。
「そうだぞ。元々、巫女は、あの六人で最後と決まっていたのだ。だから、四つの本家の娘さん達を、皆で御願いして巫女さんにしてもらっていたのだ。今更、復活させる、とか、そういう話のものでは無いのに、連中、もう聞く耳持たんわ。巻物なんて代物が在ったとして、誰を巫女にするというのだ。供出宜しく、里の娘を差し出せ、と言って回るのか?誰が納得する。巫女の修行の内情を知っとる年嵩は、未だ、どの家にも居る。知っていたら、自分の家からは出さんぞ。其れともまた、四家の本家頼みか?飽くまで責任感で本家の娘達を差し出してくれていただけの、本家に頼るのか?其れも、吉野本家の娘は、もう嫁入り前だ。今からじゃ巫女にはなれん。確か初潮前から仕込まんといかんのだ。瀬原本家と実方本家には娘さんは居らん。其れじゃ、清水本家と坂元本家からか?清水本家を大事な話し合いから締め出し、結核を出した家、と陰口を叩かせていた事は忘れんぞ。儂は清水の一門の者だ。誰が言い出したのか、大方見当は付いて居るわ。本家当主を継ぐ勉強もせんで、棚から牡丹餅で家を継いだ、何処かの次男坊だろ。能々、由緒や歴史を知らぬ事よ。清水の一門からは、儂の目の黒いうちは、巫女は出させんぞ。其れとも、里から追い出した坂元本家から巫女を出せと?そんな時ばかりは頼るのか?都合の良い話だ、恥知らず共」
―ああ、成程。本当の後継が亡くなったから、保親さん、という人が家を継いだだけ、という事は、其の辺りの教育が施されていない人が当主になった、とも言えるのか。知識の継承が途絶えている。だから、ある意味本気で、巻物なんて物の存在も思い込めるし、廃止される筈だった事情も知らないから、他人を扇動して、復活、なんて風潮に持って行けるのか。質は悪いけど、ある種の正義感から来る行動では有ったりして。
悪意のみでは無く、無知から来る思い込みの言い掛かりも、有るには有ったのかもしれない、と、紘一は、身も蓋も無い事を思った。
そう、七夕という伝統行事すら、『伝統』かと言われると怪しいものだと、八月七日に、紘一は思ったのだ。
此の狭い集落の中ですら、多くの種類の行事が存在し、何を継承するか、其れを選択する事で、容易に内容が変わり、または統一されてしまうのだ。
顕彦から学校で七夕の行事を習った子供は、此れから、自分の家の七夕行事とは全く異なる七夕を、『伝統』として継承していくかもしれないのである。
七夕ですらこうであるので、集落の由緒や歴史を保親が知らないで、自身の思い込みで正義感を持っていても、何ら不思議は無い、と紘一は感じた。
「あの、利助さん。確認しますけど、巫女は本家の娘さんがなるものだった、というわけではないのですよね?ちょっと、自分の中で整理したくて」
紘一の問いに、利助は、儂から説明しても良いのかね、と言って、静吉の顔を見た。
上座敷に居る全員が、不思議そうな顔をして、静吉の方を見た。
静吉が口を開いた。
「先程利助さんが申された通り、巫女になるのは大変だ。制約も多い。実態を知っていると、なり手の方が少ない、だから、本家の人達が、最後の巫女を出すのに責任を果たした、というのは、俺の親世代の間では常識だった。宗教の秘儀については自然、口の端に上らない土地柄故か、若い人にはあまり知られていないが。だから、元々廃止される筈のもので、実は、苗の神教の信仰自体には、巫女は不可欠ではない。保親殿が矢鱈巫女復活に拘るから、其の主張を聞いていると混乱するかもしれないが、巫女は、真実、誰がならなければならない、という決まりも、絶対に居なければならない、という決まりも、居たから御加護が復活する、という存在でも無い」
利助も、そうだ、と腹立たしげに言った。
「本当に、何故あれ程巫女に拘るのか。巫女舞は、ありゃ、奉納と言いつつ、実際は、苗の神様を利用して御託宣を受けていただけだ。皆、先の事が知りたいものだ。豊作か否か、等な。先の事を少しでも知った気になって安心したいだけの事よ。信者の心の為に遣っていた事だ。だから、無くしても良いのだ。最後、と決めて、巫女になってもらえないか、と頼むのは、そういう話だったからだ。桜島噴火による大災害の起きた大正三年に、長や先代の巫女達が亡くなって、里の人心が動揺している時に、急に無くさない方が良い、という瀬原一門の年嵩連中の判断に、偶々、娘が居た本家の人達が、厚意で同意してくれただけの事。本来、奉納だけなら、舞は特に要らん。巫女舞を奉納していた時代も災害は起きたし、巫女舞を奉納出来なかった年も其れなりに平穏に過ごせたであろう。不幸を、全て巫女舞が無くなったせいにするのは、下駄の鼻緒が切れたから、其の後起きた事が全て不吉に思える、と言っているのと同じだ。幸運の方に目を向けなくなっているだけだ。御加護を受けたいのであれば、祈るなり供物を捧げるなり、すれば良かろう。昔から、苗の神教の術を生業にさせて頂いて、収入を得ていて、最近は、軍に目くらましだ何だと協力して、物資を得ていたではないか。知らん者も多いが、協力を条件に、食料供出もしなくて良い様に融通してもらっていたのだ。兎に角、そういった事の一切を御加護と思わんのは何故だ?隠れ里に住まいながら、今まで、術で現金収入を得られていた事こそが、御加護では無いのか?何かが上手くいかないなら、自分達が宗教の術を利用して軍事協力した罰だとは思いもせんのかね。全部坂元家のせいか?短絡的過ぎて付いて行けん」
「食料供出?」
双子と、清水の双子が、揃って、そう言うと、目を丸くした。
やはりそうか、と紘一は思った。
―皆知らないよね。繁雪さんも辰ちゃんも知らなかったみたいだし。
「此処が、抑『地図に乗せないでいてもらえる』理由は知っておるかね?」
利助が、周囲の反応に、困惑した様に、言った。
知らないと思いますよ、と静吉は穏やかに言った。
「うちの息子にも教えておりませんから。…あの、逆説的ですが、俺達の世代までは常識だから、知っているものと思って、下の世代には教えていない事、というものが、案外有るのです。うちは、教える必要も無いと思いましたから教えて来ませんでしたが」
利助が、其れは困ったの、と言って、周囲を見渡した。
「教員も学校じゃ教えんかね?」
「いえ…恥ずかしながら、私も、今日初めて聞いた話ばかりでして」
尚顕が、困った様に言った。
何と、と利助は言った。
「こりゃ深刻じゃ。あの家の次男坊当主の事ばかりは言えんな。そうか、清水の一門の双子も知らんか。…こうやって、由緒や歴史は語られず、忘れられていくのかの」
清水の双子は頷いた。
参ったな、と言いながら、利助は語り出した。
「学校の先生が知らんというのでは。まぁ、御若いのだ、無理も無かろう。大正に入ってからの生まれかね?」
大正二年生まれです、と、恥じ入った様に尚顕が言うと、明治は遠くなったな、と言って、利助は語り始めた。
「僭越ながら、儂が説明するとして。瀬原集落という名前は、つまり、瀬原さんの家の土地、という、其の儘の意味だ。如何いう事か分かるか?」
紘一は、あ、と言った。
「…まさか、長個人の『私有地』扱いですか?抑行政区画として、村、等という形で存在していない、とか」
御名答、と利助は言った。
「広い私有地、という事になっているから、色々と都合してもらって、詳細を地図に載せないでもらっている。載っても林か草原か、という話だ。だから、あれだ、郵便が届かんだろう?個別には」
あ、と辰顕が言った。
「…『住所が一つ』だから?」
郵便兵の顕彦が、御明察、と言った。
「そう、辰も気付いたか。長の私有地の住所に、一纏めにして届く。だから其れを各家に分配する仕事が成り立つわけだ。長というのは、実は、大勢を自分の家に住まわせている、妙に大きい土地屋敷の戸主の様な扱いだ。役所としても特別扱いかもしれないな。土地の遣り取りで金銭が発生しているのは、飽くまでも住民個人同士の遣り取りで、書類上、実際の所有者は下方限の長、瀬原修一氏個人だ」
そういう事でしたか、と紘一は言った。
「食料供出は、農家に課せられているものですから…。此処は、正確には、農家という扱いを受けないで居させてもらっている、という事ですね?だから、耕作で収穫した物を、作付面積ごとに供出しなくて良い…」
そう、と利助は言った。
「流石に聡いな。其れは長の計らいらしい。里の者は、御蔭で、他所よりは飢えずに済んでおる。切れ者の長よ」
「あの」
紘一は、そっと挙手して、言った。
「結局、苗の神教というのは、如何いう宗教で、何故隠れ里に住んでいるのか、伺っても宜しいですか?」
上座敷が静まり返った。
紘一は、挙げた手を、胡坐を掻いている浴衣の膝におろした。
「…聡いが…何を知っていて、何を知らんのかが、読めん子だなぁ」
利助が、ポツリ、と、そう言うと、陶冶が、紘、と言った。
「苗の神様は、何時もは蓑を被って山に居る山の神だけど、秋には豊穣神となって里に来てくれる。五穀豊穣、子孫繁栄の神だ。里には石像も在るぞ。色々な形をしておいでだ」
「そうなのですか。御説明有難うございます」
紘一が、知らなかった、などと思いながら陶冶に一礼すると、利助が、はぁ?と、呆れた様に言った。
「今の若け衆は、そんな話を信じておるのか。こりゃ重症だ」
利助の言葉に、静吉と顕彦以外の全員が驚きの声を上げた。
尚顕が、でも、と言った。
「俺、そう習いました。学校でも、そう教えています」
利助が困った顔をして言った。
「そりゃ建前だ。『何時から建前の方が本当になった』かね。いやはや、世代ごとの、苗の神教に対する認識の違いも深刻だな。そうか、教員も、もう、知らんかね」
仕方無いですよ、と顕彦も言った。
「子供が秘密を守れるとは限らない。最初は建前を教える。分別が付いてから本当の事を教える。其れが、以前は建前だと誰もが知っていた。先程誠吉さんの御話でも有りましたが、知っているものだと思えば教えない人も居るでしょう。また、敢えて建前しか教えない場合も有ったでしょう。俺も、明治四十一年生まれですが、事実を知ったのは教員を辞めてからでしたよ。当然、生徒には、そう教えているし、親から聞いている話と違ったら、学校で教えられている方を信じる子供も出たでしょう」
何とまぁ、と利助は、嘆かわしげに言った。
「儂も、知っているものとばかり思い込んで、敢えては教えなかったな。…そうか、今教えても、信じない者が出る、というわけだ。巻物や巫女の話と同じだな。此れは根深い。儂の世代が、常識だと思って下の世代に宗教教育を怠った罰だろうか。特に、女児には殆ど教えないが、此れからは、そういう分け隔てをせずに、残せるだけ残る様、工夫して教えていかなければならないのかも知れんな。戦局が落ち着いたら、清水本家当主に御相談して、清水の一門の子供だけでも、真っ当な宗教教育を受けられる様にせねば」
あの、と辰顕が口を開いた。
「結局、如何いう事でしょう…」
顕彦が静吉の方を見た。利助も、顕彦と静吉の顔を見て、うむ、と頷いたので、静吉が頷いて、口を開いた。
「皆、呪文は言えるか?術を使う前の呪文だ」
其の儘、静吉は、スラスラと、術を使う前に唱える呪文を唱えた。
「葛、楮、藤蔓、天の蚕を敷き紡ぎ結い績み織り纏いて、強き子を増やせ。田は米、海は魚得て、禍去る。姿見えぬは山の神也、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた神也、龍神也。地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ。月の神は山の神也、山の神は田の神也。神の田を耕せ」
だから、と陶冶が言った。
「豊穣神ですよね?苗の神様です」
良く御聞き、と静吉は言った。
「苗の神、という、肝心の一語が、呪文の中に全く入っていないだろう?呪文では、一番近い言葉で田の神だ。此れはね。そう、古い神ではないのさ」
場が、水を打った様に静まり返った。
静吉は続けた。
「恐らく、地震ふる山に霾晦。恐らく、地震、から、苗の神様だ」
利助と顕彦を除いた全員が、ええ?と言った。
「…地震、なのですか?」
薫陶が、信じられない、という声を出した。
静吉は何時もの様に、おっとりと答えた。
「其の辺りは、もう伝承も何も無いので、定かでは無いが。ただ、豪く古い、土着の信仰で、神道だと言いきれないのは確実なのだ。神仏混交しているのか否かすら、本当のところは分からん。廃仏毀釈辺りの宗教に対する風当たりが強くなったのせいで、其の辺りの事は表に出せなくなったので、隠れ里にして、神道の振りをするのに白装束を着ているだけだ。神社庁に何か届を出しているわけでも何でもない。単なる地方の土地神の様なものだからな」
全員唖然としていた。
―教員も、長の息子も知らなかったなんて。
紘一は、父の語る内容と、周囲の反応に驚いた。
利助が腕組みをして、言った。
「薩摩藩の廃仏毀釈は本当に酷かった。寺は潰され、藩の関係者に宗教が知れて捕まれば、拷問されたとも聞く。だから、信仰を捨てない為には、隠れ里に潜伏して、神道の農耕神の振りをしようとしたわけだ。江戸の終わりから明治の動乱期に、隠れ里を作る機転を持った人々が、藩の取り締まりを掻い潜って、苗の神教を守ってくださったのだ。…成功したのかは分からんが、今も此の宗教が長らえているのは、其の機転の御蔭よ」
―妙に巧妙な隠し方だな。藩の取り締まりを掻い潜って、そんな事が出来たとは…。
一体誰の機転?と紘一は思ったが、静吉が説明を続けたので、聞けなかった。
「そう、普段は山の神様、山の神で、里には秋に降りてくる、五穀豊穣、子孫繁栄の神、なんて言うのは、此の辺りの田の神様、田の神の伝承を語り直したものだ。苗、という漢字の意味に引っ張られているから、豊穣神と読める様な気がするだけだろう。『地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ』とあるが、霾は熊本辺りの方言で、火山灰の事だ。苗の神の石像は、恐らく、豊穣神から結び付けて、他の集落から盗んできた田の神様の像だ。銘文も、江戸後期、三百年前くらいの物しか無い。日本の神は、元々姿が無い。こういう物に石像なんか作り始めたのは、そんなに古い事では無い」
そんな、と辰顕が、かなり動揺した様子で言った。
「では、明治前までは、瀬原集落は隠れ里では無かった、という事に…。そんな…隠れ里になったの自体が、比較的最近ではないですか」
―そういう事か。
オロオロする辰顕達を他所に、紘一は一人で納得していた。
―明治となれば、百年も経っていないもの。道理で遠縁が大隅に居る筈だ。
静吉は、辰顕に、其の通り、と言った。
「元々此の集落の人達は、上方限も下方限も、信仰の為に隠れ里に移住してきた人達ばかりなのだ。実方家も、大元は大隅の人だろう?」
やっぱり、と紘一は思った。
―そう、『別々の場所から移住してきたから』、七夕の行事が家毎に違う、なんていう事になっているのではないかな、とは思ったけど。そういう事だよね。
顕彦は、はい、と言った。
「未だに交流有りますよ。名字は違いますが、遠縁が大隅に居ります。何年かに一度は外で会っていますよ。辰も会った事が有るだろう?」
「…有りますけど…そういう事だったとは。疑問にも思っていなかったので、隠れ里と繋げて考えた事すら有りませんでした」
辰顕が、そう言って、目を丸くしていると、利助も、そうだ、と言った。
「清水本家も外に土地を持っているだろう。ありゃ、移住前からの持ち物だ。明治以前から所有しとる、外の土地なのだな。ああ、名字は、違うぞ、何処も。親戚に迷惑が掛からん様に、どの家も、隠れ里に住む前に名字を変えているからの。里の出身でない者でも術が使える様になるか否か、などと、軍に実験を依頼されるまでも無く自明の事。元を正せば『全員移住者』だからな」
誠吉と顕彦以外の全員が、ええっ?と、更に驚きの声を出した。
紘一は更に納得した。
―多分、明治以前から土地や名字を持っている様な身分で。…移住の際に、土地に居た被支配層も連れて来た、という事なのではないかな。多分、名字を辿ったら、迷惑を掛けられない様な身分の人が出てくる、という事だ。何処にでも有る家の、何処にでも居る名字の家なら、そんな気遣い、必要無いもの。
実は、紘一自身は、京都に居る遠縁の親戚の伝手で、やんごとない場所で、占いの真似事をさせられた事は有るのだった。
其の、占いの仕事をした事実のみは、初日に辰顕にも教えた。
しかし、紘一自身も、詳しい事は教えられなかった。
だが、まさか瀬原集落関係で、こんな話になるとは思っていなかったにせよ、『迷惑を掛けられない様な身分』の人々が遠縁に居る、という事は、其の時薄々感じていたし、其処と、やんごとない場所の人達に、紘一が余興の様に、其の様な事をやって見せる事で、伯父の会社に幾許かの援助が有ったらしい事をも察していた。
静吉が、紘一達を見世物の様にする事に対して内心乗り気でなかった事も察していたので、抑出来はしないが、弟には遣らせずに、自分から余興役を買って出て、伯父と父と三人で京都に行った事は、弟にも未だに詳らかにしてはいない。
故に、操という人物の政治関係の繋がりは、其の辺りからも発生したのではないかと紘一は想定していたのである。
足掛かりは『血縁』や『地縁』、という事であろう。
―でも、こんなに賢い人達が。辰ちゃんも、治さん達ですら、此処の事を疑問にも思っていなかった。だから、知ろうともしてこなかった。外の事を知らないと、自分の住んでいる場所を客観的に見る、って、凄く難しい事みたい。
利助は尚も続けた。
「五つの家は、其々(それぞれ)造りも違うであろう?あれは、上方限では、里を作る時、其々の家が御抱えの大工に家を作らせたからだ。出来た時期や大工が違うから、各家で、まるで家毎に形が決まっているかの様に分かれとる、というわけだ。ほれ、樋の間が無い家、なんかも有るであろう?其れは結局、五つの家は、殆ど出身が違うからだ」
「上方限は、って事は、下方限の家は?大工さんが同じ、とか?」
紘一は、辰顕に囁いた。
辰顕は、いや、と言った。
「…あれは…台所と囲炉裏端、一棟しかないし、中に二部屋有れば良い方じゃない?最近じゃ、家らしい家も出来てきているそうだけど、同じ大工と思って見た事は無いなぁ」
「え?台所?ナカエ、じゃないの?俺、てっきり、炊事場とかの方言がナカエなのだと思っていた」
「ああ、此の辺は、二つ家とか呼ばれる造りの家が多いから。えーと、オモテとナカエが、並べて建ててあって、殆どの家は樋の間で繋がっているから、二つの家がくっ付いているみたいに見える家が多いの」
辰顕の説明によると、オモテ、というのは、来客を通して接客をしたり、家族が生活したりする、本屋、其の名の如く、家の表の顔なのである。
ナカエは、内向きの作業をする、客等を通す前提の造りにはなっていない、中に向かった場所で、炊事屋なのだ。
其れを、樋の間、つまり、雨樋の役割をしている渡り廊下で繋いでいるから、二つ家、と呼ばれる造りになるのだそうである。
そうだったの、と紘一は言った。
「ああ、ナカエで御飯を作っているから、俺が、単純にナカエを炊事場の事だと思ったのか」
「いや、別に間違いじゃないよ。台所って呼ぶ家も在る、というだけ。ナカエは炊事に使う事が多いから、湿気とかで痛みやすいの。坂元家みたいに、樋の間が無い家も在るけど、二つ家にしておくとナカエだけ建て替える事が出来るから、便利なのさ。オモテ、つまり生活空間には特に影響が無いから、建て替えの間も通常通り生活出来るわけ。だから、大体の家は、ナカエの方が簡単な造りになっているよ。建て替え易い様にかもね」
辰顕の説明に、静吉も、そうだな、と言った。
「高温多湿の地域の知恵なのかもしれんな」
―うわ、上方限と下方限って、家の造りまで違うのか…。そうだろうね、二棟の家が連結されているなら、見た目が立派にもなろうというものだよね。さて、其々、出自の違う五つの家。瀬原家の人達の殆どは、少し低く見られている、下方限に住んでいる。他の四つの家は上方限に住んでいる。しかし、巫女に関する事の決定は、瀬原の、年嵩の人達が決めた。そんな大事な事の決定権は、下方限の人に有る。…知れば知る程、何かが変だ。
「あの…其れでは、坂元本家と坂元分家の形が違うのは?」
周二が、そう言って、利助を見詰めた。
ああ、と利助は言った。
「坂元分家が出来たのが、本家の建物より後だったのだが、坂元家だけは、本家を建てた後に御抱えの大工が亡くなって以降、御抱え大工を持たなかったらしいのだ。永住するなら、居た方が良いと思うのだが。結局、何かの縁で、出水の方から大工を呼んだらしい。だから、要は、本家が建った時期と分家が建った時期も違うからだが、あそこは抑大工が違うのだ」
―其れ、如何いう事だろう…まさか…坂元家は、『永住する気が無かった』?
益々、疑問を深める紘一を他所に、周二は利助に、有難う御座います、と言った。
あの、と紘一は言った。
「長の館と里に在る坂元本家は造りが同じ、だという話ですが、理由は…」
紘一の言葉に、綜一が、ハッとした顔をした。
恐らく今まで、理由を考えた事が無かったのであろう。
理由なぁ、と、利助は首を傾げた。
「長の館は、坂元本家を御手本に作ったそうだぞ。理由は分からんが」
其の言葉に、今度は全員が、え?と言った。
静吉も顕彦も知らない事実だったらしい。
紘一と綜一の目が合う。
御互いが、何か、強い疑問を抱いている事を、紘一は悟った。
「まぁ、一つは、其れも有るのだろう。今となっては、坂元本家に分家が造りを似せると、坂元分家が全部、長の館と同じ造りになってしまうからな」
利助の言葉に、紘一は、益々、疑問を持った。
―そんな、鶏が先か、卵が先か、みたいな話、変じゃない?長の館に似てしまうから坂元分家の形を変える、とはならないでしょう?普通、本家と分家の形を同じにして、長の館の形を変えるものじゃないの?『坂元本家と長に何か関係が有る』なら兎も角。…坂元本家と分家の形が違う理由は大工や建造時期の違いなら、長の館が、坂元本家を御手本に作った事を、誰も疑問にも思わないのは何故?…いや、綜ちゃんは今、疑問を持った筈だ。きっと、本当に、昔から、そういうものだと思い込んで、常識だと思い込んでいると、気にも留めなくなる事、っていう、其れだけだったのかも。…意外なのは、父さんまで、此の事を知らなかったらしい、という事だ。ひょっとしたら今の今まで、父さんも、疑問にすら思っていなかったのかも。
紘一は堪らず、更に利助に聞いた。
「あの、御抱えの大工さん、というのは、今は何処に?五つの家は、瀬原集落の外から移住する時に、連れて来た大工さん、という事ですよね?」
「ああ、今も其の子孫を各家の本家で下働きとして使っているぞ。頼めば分家の立て直しや庭仕事なんかもしてくれる。特に家を持たないで、代々其の家に仕える人が殆どだ。瀬原の娘さんなんかと縁付いて下方限に住んでいる事も有るが、大体は殆ど里に縁戚関係を持たないで、そうやって、下働きとして普段暮らしていて、家の建て替えの時なんかには大工仕事をしてくれる。ほれ、実方家にも居ただろう。熊八さんと甚六さんだよ。坂元家が出水から呼んだ大工の子孫だ。使用人の交換は、上方限では珍しくも何とも無いからな。身寄りが無いから、坂元本家と実方本家に忠義立てして、よく仕えておったろう」
利助の説明に、周二が驚きの声を上げた。
「え…?熊八さんと甚六さんって、そうだったのですか?てっきり、下働きの人達って、瀬原の一門の人ばっかりだと思っていたけれど。元は大工さんだったなんて。…身寄りが無いとは聞いていたけど」
いやいや、と利助は言った。
「最近じゃ、里には家を建てる土地も殆ど余っていないし、棟上げなんかも無いから見た事が無いだけであろう。ほら、下方限の家を建てる時には、あの人達は殆ど手伝わないだろう?出自が違うから、仕える相手が違う。瀬原の使用人じゃないからな。第一、下方限は大抵の事を結でやってしまうじゃないか。特別な大工なんて居らんでも」
「…其の御話だと、瀬原家だけ、移住する時に御抱えの大工を伴って来なかった、という事になりますが」
綜一の指摘に、利助は、ハッとした顔をし、誤魔化す様に、兎に角、と言った。
「里には大工は居る。隠れ里と言っても、そんな専門技能を持った人間は必要だからな」
―…やっぱり何か有りそう。いや、きっと、此の、誤魔化す事にこそ、真意が在る。御抱え大工が居る家柄と居ない家柄、という話にも出来るのに。…利助さんも恐らくは、父さんの言うところの、知っている世代の人、だものね。
紘一は、質問の切り口を変えてみる事にした。
「専門技能、というと…色々有りますけど、例えば床屋さんなんかは無さそうですけど。物資もそうですよね。品物。初日に、氷売りの話を聞いた時も思ったのですが…隠れ里に、行商の人が来る、という事なのですか?意外に、完全に隠れた里、というわけでも無いのですね?」
理髪器が見付からない、という理由で、若け衆の髪が、かなり伸びてきているのである。仮に床屋が里に在るのだとしても、病院の敷地から出るわけにはいかない人間だらけなので、結果が変わるとは言い切れない紘一だったが、理髪器の所在と同じくらいには、床屋と、氷売りの存在は気に掛かっていたのだった。
しかし、利助は、アッサリ、何だ、そんな事か、と言った。
「床屋も行商人も来るぞ。氷だけじゃない。生魚な要らはんどかい、などと言って、魚も」
「…え?カタゲウイ?ブエン?…イオ?」
思わず紘一は、助けを求める様に、キョロキョロしてしまった。
知っている心算の言語の中で、聞き取る事が出来ない単語や、理解出来ない単語を聞いたりすると、思考が分断される様な気がして、時に混乱してしまうのである。
日本語の筈なのだが、聞き取れない時点で、紘一には英語より難しい。
何時もの様に辰顕が、戸惑う紘一を見かねて説明してくれた。
曰く、品物を担いで、つまり、担げて売りに来るから担ぎ売り、担売であり、ブエンとは、無塩、つまり塩が無い、塩を振って保存する前の魚、即ち鮮魚の事だと言う。
「辰ちゃん、有難う。よく分かった」
紘一は、辰顕が居ないと本気で困るところだった、と、説明してもらえる時、何時も思う。
辰顕の説明が終わるのを待って、利助が続けた。
「兎に角、そういう、行商人や床屋を集めて住まわせた場所を作った時期が有って、隠れ里に来てもらえる仕組みを作った人が居た、という話だったぞ。今はもう其の子孫の代だろうが。だから前は、床屋も通いで、外から定期的に来てくれておったのだ。此の頃、床屋も行商人も見掛けんが、品物を流通させようにも空襲も酷いし、働き手も徴兵されておるかもしれんからなぁ」
またも全員、え?と言った。
此れも、静吉も顕彦も知らない事実だったらしい。
「そうでしたか。利助さん、有難う御座います」
追究した心算の紘一だったが、全員が驚いて興味を持ってしまった事で、綜一の質問を逸らす方向に話が行ってしまったので、多少困惑しながらも、利助に礼を言った。
―でも、そうなのか。…此の里なりの仕組み、というのが在るわけだ。『隠れ里の儘でやっていける仕組み』、というのを、早い段階で『構築』した、という事だ。態々、床屋や行商人に土地を与えて。そういう契約で土地を貸したか与えたかした、って事だ。巧妙だ。藩の取り締まりを掻い潜れる立場。土地持ち。御抱え大工持ち。条件を知れば知る程、一般庶民とは思えない…一体誰が?
「そっか、品物を外から持って来てくれる様に、外に、そういう人達が住める所まで作ったって事ですね。…隠れ里の儘にしておく為に」
周二が、そう言うと、そうだ、と利助は言った。
「そういう、外との交渉が必要な仕事、例えば、木材や道具を都合するのは、行商人達に分業出来れば、大工の方は、ずっと里に居てもらっても構わんからな。だから下働きとして…いや、逆だな。そうやって囲い込めなければ…隠れ里の秘密が漏れるからな」
利助は、そう言うと、少し神妙な顔をして、右手で、自分の首を切る様な仕草をした。
囲い込めない、隠れ里の秘密を守れない者を、如何いう処遇にしてきたか、という事が窺われる仕草だった。
―…あ、口を封じて…?
全員青褪めた。
此れも、静吉も顕彦も知らない事実だったらしい。
―そうだね…桃源郷なわけは無い。隠れ里を守る為に、手段を選ばない時期が有った、というわけだ。
知りませんでした、と陶冶は言った。
「俺、上方限で生まれ育ったのに、知らない事ばかりでした。いや、自分が何を知らないのかも知らなかった、と言って良いでしょう。そうか『知らなければ欲しくない』。自分が何を知らないかも知らなければ、答えを欲しいとも思わないから、質問すらしない。だから何も知らない儘。そして、聞かれない大人は、分かっているものだと思って教えない。そんな事が、ずっと続いてきたのか。自分で『疑問を発見』しなければ、無いのも同然で、こうやって消えてしまうのか。…あの、地震の神様、って?」
陶冶は、そう言いながら、静吉の方を見た。
静吉は、そうだなぁ、と、言った。
「結局、呪文の中に書いてあるわけさ。姿見えぬは山の神也、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた神也、龍神也。地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ。月の神は山の神也、山の神は田の神也。火山で、龍神で、魚得て、とあるからには海神で、豊穣神。色々な自然現象をひっくるめた、かなり大きい存在、という事だろうな。どれ、という事では無く、全て、という事だろう。豊穣神、と教えられているから、『苗』の神なのだろうとしか思わない」
若け衆は、全員、あ、と言った。
紘一も、そうか、と思った。
―呪文無しで術が使えちゃってたから、あんまり意味が無いと思って、気に留めてなかった。
尚顕も知らなかったと見えて、少し興奮気味に言った。
「凄い、そんな意味が」
そうだよ、と、静吉は、おっとりと言って微笑んだ。
「ただ、後世創作された呪文だろうな。呪文自体には意味が無いのだ。強いて言えば一定の調子の音で、暗示に掛け易くする、導入剤程度の使い方をしていた筈だ」
紘一を除いた若ケ衆が、全員、衝撃を受けた様に、え、と言った。
「い、意味が無い、ですか?」
尚顕が、酷く驚いた様子で問うた。
ガッカリさせたかい?と言って、静吉は微笑んだ。
「別に、あれは呪文じゃない。呪文なんか無くても術は使える。先程も言ったが、『田の神』という言葉が入ると、そう古い言葉じゃない。神道でも、『山の神 祝詞』は有っても『田の神祝詞』は無い。そして、田の神神像は多いが、山の神の神像は、ほぼ聞かない。俺も、埼玉の都幾山慈光寺の申八梵王の石碑しか知らん。姿が見えないのが、日本の本来の神なのであれば、やはり、目に見えない、祝詞で敬うべき山の神が『姿を得て』田の神になった、という事で、其れ程古くないのであろう」
「じゅ、呪文無しで術が使える…?な、何を…。た、田の神が如何とか、俺、そんな風には、生徒に教えて来ませんでした。そりゃ、呪文の中に含まれてましたけど。ただ、呪文と術の遣り方を教えていただけだったもので」
尚顕の言葉に、俺も、そうだったよ、と顕彦は言った。
「極端な話、呪文なんか無くても術は成り立つって知ったのは先月、其処に居る、紘が遣ったのを見た時だからな。そうやって、呪文の内容自体にも、何らかの意味が在ったのが形骸化していく様に、伝えていくうちに抜け落ちていくものが有るって事だろう」
「え?…本当に、呪文が無くても術が使えるのですか?てっきり、術は呪文有りきだとばかり。だから俺、術が出来ない子にも呪文を暗記させて」
尚顕が、目を点にした。
静吉は、穏やかに言った。
「そう。結局、術というのは強い暗示だ。先程も言ったっとおり、一定の拍子で呪文を唱える事で暗示に掛かり易くなる、という導入効果は有るが、上手く相手の注意を惹き付けられれば、其れを契機に相手に暗示を掛けられる。実は必要ない。其れ自体は意味が無いのだ。術は、使い方の方が重要だったのさ」
静吉の言葉に更に驚く尚顕を他所に、紘一は自己を省みていた。
―…何だ、俺にも思い込みが有ったわけだ。そういうものだと思って、呪文で言われている物が何か、気にした事が無かった。此れは何だろう、と思って考えなければ、何時もの風景と同じで、呪文を丸暗記して知っているのに、其れが何という名前で、如何して其処に盛り込んであるか、考えた事も無かった。…違う。俺は、此処に来るまで、父さんの故郷になんて、全く興味が無かった。だから、気にも留めなかった。住んでいれば知っている、という事じゃ無い。毎日父さんと会っていたって、父さんの過去の事、何も知らなかった。…そうだ、こうやって次第に、失われていったのかもしれない、色々な事が。
無理も無い、と、静吉は続けた。
「実際、伝わっていない事が多過ぎるのだ。今言った話も、単なる俺の仮説に過ぎない。ただ…記紀にもヒントは有るのだろう。『古事記』で阿波国の別名である大宜都比売神は須佐之男命に殺されて蚕と五穀を死体から生じさせた、とある。しかし、『日本書記』では、月読命が保食神を切り殺した話になっていて、大年神の系譜では、羽山戸神の妻が大気都比売神、という事になっている。此の、羽山戸神、というのが、山の端、麓の神らしいのだ。山の麓の神が、穀物神の女神を娶る。そして、春になると『山の神』が里へ降りて来て、『田の神』となって農耕を見守り、秋に収穫が終われば再び山に戻って『山の神』となるという、此の、日本古来の信仰。そして、山の神は女性、とする所も多い。記述されている大宜都比売神をすべて同一神だという前提にしてしまうと、穀物神、そして阿波の国の別名という大きい存在を、山の端の神と娶せているとなると、釣り合いが取れない気がしないか?しかし、大年神の系譜で考えると、羽山戸神と大気都比売神の間の子は、山の神と穀物神の他に、若狭那売神という田植えをする早乙女の神が居る。やはり、山と穀類と田は、切っても切れない関係にある様だし、そういう大きい存在と娶せるか同一視するか、という必要は有ったのだろう。しかし、前にも言ったが、『山の神 祝詞』は有るが『田の神祝詞』は無く、稲魂が重要視される。天照大御神の田の描写は有る。案山子の神も居る。しかし、田の神は結局、記紀には出て来ない。山を切り開いて、感慨をして、農耕をしてきた事と、何らかの関係が有るのかもしれないが…結局分からん。因みに、記紀には、月読命同様、阿波の国、つまり四国の記述は異様に少ない。此れも、今考えても、読み解ける謎ではないが」
記紀?と、周二が復唱した。
利助が、成程、と言った。
「其処までは詳しく考えなかったが」
静吉は尚も続けた。
「とは言え、本当に、元が如何なのかは、全く分かりませんからね。古い土着の信仰、というのも俺の思い込みの可能性が有る。仮に、術を使う山伏が連れていた歩き巫女の方が信仰の対象だった、と考えると、そういう意味では、術を使う者と、信仰の対象であり御託宣をする巫女が別の、巫女有りきの宗教だったかもしれない」
利助は、ほう、と言った。
「仮説か。なかなか興味深い。ただ、もう確かめる手立ても無いからな。元が分からない事が今日の混乱を生んだのであろうな」
顕彦も利助に同意した。
「そうですね。だから教師も、教え様が無い、というのも有るのです。全てが推論の域を出ない。建前が一番綺麗で、教えやすいのですよ。統一された、教科書向きの答えって事です。農耕神として片付けてしまえば通りが良いですからね」
ふぅむ、と利助は言った。
「困ったものだな。皆、何の神か、よく知らずに祀っとるわけだ。今まで御加護を賜っていたのだとしたら、何とも心の広い神であらせられる事よ」
静吉が、穏やかに微笑んで、そういうものですよ、と言った。
「今や、神社に祀られている神の謂れを知って参拝している人間の方が少ないかもしれませんよ。神が八百万も鎮座する国ですから。仏教と神道も、ある時期までは混交を推奨していた。其れを区別して考える人間も、昭和の今となっては、どのくらい居るでしょう。ただ、尊い、と、有難がっている。そういう点では、実に此の国らしい信仰の在り方とも言えませんか?其れより」
静吉は、如何しましょうかね、と言った。
「在りもしない巻物を出せ、と言われる。失業も何もかも坂元家のせい。其れで家に石が投げ込まれた、となると」
顕彦も、如何します?と言った。
静吉は、そうだなぁ、と、おっとり言った。
「長に一肌脱いでもらうか」
上座敷に居た、静吉と紘一以外の全員が、驚きの声を上げた。
「長ですか?」
顕彦が、そう言って、目を丸くした。
静吉は、そりゃあ、と言った。
「証拠を出し難い、噂だの中傷だの、といった事では相談し難いかも分からないが、此方に損害が出たからには。窓硝子が投石で割られるとなると、実害が出ている。器物損壊だ。住人が偶々怪我をしなかっただけで、此れで、石で誰かが怪我をしていたら、如何なっていた事か。今回は利助さんという証人もいらっしゃる。此処まで来たら頼っても良いのではないだろうか。否、更に酷い事になってから相談したり、何故相談しなかった、と言われる様な事態になってから報告したりするより、今頼っておく方が良いのではないか?何しろ、そういう時、纏めてくださる為の長だからなぁ」
尚顕が恐縮しながら言った。
「長ですか…。恐れ多い事で…とても。御会いしたら、何を御話して良いか分からなくなりそうです」
顕彦は、えーと、と、気不味そうに言った。
「まぁ、長ですから。里の揉め事を収めてくれ、と頼むのは正しいです」
そうだろう、と静吉は穏やかに言った。
「彼方にしても、大事な息子を二人も預けている以上、坂元家に悪い感情は無かろう」
「あっちには、悪い感情は無いでしょうけど」
顕彦は、言い難そうに言った。
「あの…誠吉さんが、長に頼み事をする、という事ですか?」
「皆が言えないなら、そうしても良いぞ、別に」
「はぁ。いや、誠吉さんが良いなら、良いですが。誠吉さんは、長に頭を下げて頼む事になっても平気なのですか?誠吉さんの方は、長に悪い感情は?って、今更ですけど」
「俺は所詮、里を出た人間だからな。また外に帰るだけだ。だが、里に残された所縁の人々が此の様な目に遭うのは忍びない。頭を下げるくらい、何とも思わん」
静吉の言葉を聞いて、利助と尚顕が、感動した様な顔をした。
顕彦は、すげぇ、と言って、続けた。
「まぁ、俺から頼んでも良いですが。坂元分家から嫁を貰っていますから、無関係って事は無いし。…あー、でも、あれだ。此れを機会に、長と話し合ってみません?」
静吉は、おっとりと、あー、と言った。
顕彦は目を丸くして、え?と言った。
「誠吉さん、もしかして忘れていました?」
「忘れてはいないが、意識には上らなかったな。毎日の食べ物の方が大事だ」
「其れ、俺の地元では『忘れていた』と言いますね」
「俺と御前、同じ地元だろう?」
「そういう話じゃないのですが」
顕彦は、静吉と噛み合わない会話を続ける事を諦めたらしく、まぁ良いや、と言った。
「俺、明日長を此処に連れて来ますよ。ついでに糺殿の月命日の御祈祷も御願いしましょう」
上座敷に居た人々が、ざわついた。
しかし、静吉は、おっとりと、そうか、と言った。
「直接御会いして話をした方が早いかもなぁ」
※上町 上町地区。薩摩藩鶴丸城の旧城下町一体を示す言葉。実際は、地名や町としては存在しない名前だが、慣例として現在も使われる。
※二つ家 分棟型。二棟造とも。




