昭和二十年 八月九日 実方辰顕 人身御供
辰顕は不安だった。
―今日は外では、何が起きたのかな。
九日になったが、全く情報が入って来ないし、丸三日、栄が帰って来ない。
糺、栄という大黒柱の抜けた家、というものが、辰顕の不安を増進させた。
安幾は、時々は炊事を手伝えるくらいまで回復したが、実際は、不安で、寝ても居られない気分だからではないか、と思うと、気の毒で、辰顕は余計に不安になった。
―先月の十日に糺殿が亡くなって、明日で、一ヶ月か。
其の事を思い出すにつけても悲しいし、何となく落ち着かない。
子供達は、誠吉が居てくれている事で何となく気が紛れている様だが、糺と栄の不在が、辰顕は凄く嫌だった。
子供染みた考えかもしれないのは百も承知で、本当に嫌だった。
寂しくて不安になるのである。
落ち着かない。
俊顕や顕彦以外の大人を、こんなに精神的な支柱にしていたとは、自分でも知らなかったくらいである。
―十五日が過ぎたら如何なっちゃうのかな。御託宣が当たっていれば、というのが前提の話だけど。…問題は、きっと、俺を含めた皆が、其れを信じているって事だよね。
だから、余計不安なのだろう。
そして此の不安な状況で、誠吉と周と紘が居なくなるのだ。
男手が減るのも手痛いが、辰顕の精神的支柱が更に欠ける気がして、其れを考えると、辰顕は、更に嫌になるのだ。
しかし、此の場所を立ち去らなければならない事情を抱えた人間を、何時までも頼り続けるのは、相手にも自分にも酷、という気もした。
―自分が、しっかりしないと。そうでなくても、此処は女子供ばかりで、一人は妊娠初期なのだから。綜ちゃんも秋には居なくなる。何とか、出来る限り守らないと。
加えて、空襲は何時までか、抑戦争は終わるのか、と、考える程に不安になる。
―こんな日は昼餉まで勉強だな。其れ程得手でもない語学の勉強でも遣ろうかね。
勉強が現実逃避になる日が来ようとは、皮肉なものである。
―いや、世の中、皮肉だらけなのかも。
病室で、辰顕の隣の寝台に腰掛けて、本を読む紘など、そういった皮肉の集合体、という気がする。
紘の持つ全ての長所を箇条書きにして、其の全てに『だが皮肉にも本人は、そう思っていない』と書き添えさえすれば、坂元紘の紹介文の完成である。
「八月十五日といえば御盆だね。其れは、里も、里の外も同じだけど」
結局語学に集中出来なかった辰顕は、本を、枕元の棚の上に片付けてから、何と無く、気晴らしに紘に話し掛けてみた。
紘は、キョトンとした顔を辰顕に向けて来た。
「そうなの?七月じゃないの?こっちは。…御盆の日も違う事が有るのか。考えた事も無かったな」
そっか、と言って、辰顕は説明した。
「此方は旧暦に合わせてあるらしいよ。紘の居た所は新暦合わせ?」
「成程、そういう事かも」
「一つは、御盆の時期は畑を休む口実、っていう話も在るよ。何せ、八月は七月より暑いから。そんな事情も関係するのかも」
紘は、感心した様に、へぇ、と言った。
「其れなら、八月の十四日から入り盆で、十六日が送り盆かぁ。…俺達、送り盆の日に此処から出る事になるのか」
「そうだね。…御託宣の内容も、御盆の話だったら良いのにね。十五日に来る、なんて」
辰顕が、そう言って笑うと、紘も笑って言った。
「十五日に、もう一度来る、って、確かにね。御盆の話みたいだよね」
しかし、結局二人は、其れ以上笑えなかった。
病室に沈黙が訪れた。
恐らく御盆の話では無いのだろう。
そして、其れを二人共感じているのが、痛いくらい分かる沈黙だった。
辰顕の気晴らしは失敗した。
そうして二人が黙りこくっていると、病室の扉が叩かれる音がして、清水の双子と、綜と周が入って来た。
「ああ、御揃いで」
紘は、少しホッとした様に、皆に声を掛けたが、清水の双子は苦笑いした。
周が心配そうな顔をして、綜の顔を見た。
綜は、周の視線を受けて、困った顔をしてから、辰顕と紘の方を見てきた。
一先ず座ってもらおう、と、辰顕と紘で、椅子を四つ出すと、皆、礼を言って、其々、腰掛けた。
辰顕と紘も、自身の寝台に腰掛ける。
陶冶が口火を切った。
「昼餉前に時間が出来たものだから、此の四人で、少し話をしたのだが。…済まない、周も含めて、従軍していない御前達には、実験に関する事は、詳しい事を言うわけにはいかないが、聞いてくれないか」
辰顕と紘は、思わず身構えた。
なぁ、と陶冶は言った。
「薫が以前言っていた事、覚えているか?…いや、回りくどい言い方は止めよう。なぁ、紘。俺達な、所属が言えないのさ。周が、先生達は、所属とやらが書いてある、軍隊手牒や識別票を所持していた、と言っていた。此れからするのは、そんな物の存在も知らされていなかった、哀れな田舎者の話だ。従軍なんて、していなかった。此の三年、軍服なんかで騙されていて、御国の為に働けていなかった。そうじゃないか?色々考えたが、其れが、此の四人で話し合って出た結論だ。…何か、おかしいだろう?部隊解散ったって、他に軍の仕事も無く、家に帰れるって事が有るかね?」
薫陶が、紘も何か知っているのか?と言った。
綜は、御前が気付いていない筈は無いよな、と言った。
紘の沈黙が答えだった。
辰顕は身を硬くして、皆の話を聞いていた。
―気付いたか。いや、時間の問題だった。抑薫さんも綜ちゃんも、其れに気付きかけていたから。
陶冶は、沈痛な面持ちで唇を噛んで俯いた。
「そうか…。いや、な。顕彦さんは、解散及び職務続行の通達を受けた、と仰っていただろう?あの時、妙な気がして、ずっと引っ掛かっていたもので、綜達と先刻話をした。解散後仕事が無い、という事は、つまり、そういう事じゃないか?俺達が抑従軍していないからではないのか?」
綜一も頷いて言った。
「先生の話だと、そろそろ里の者が不安がっているらしい。此の先、如何なるか、とな」
何か知っている事や気付いている事が有れば話せよ、と綜が言ったので、紘は、確証は無いよ、と言った。
綜が、構わん、と言ったので、紘は、渋々言った。
「知っている、というか、俺が思うだけだけど。此れから起こる事。先ず、ハッキリ言うけど、此の状況は不味い。里が失業者で溢れ返ったわけだ。『仕事』が無い」
辰顕は、思わず、う、と呻いた。
―…そうだ。全く考えが及ばなかった。栄さん達が帰って来ないのが不安で嫌だ、なんて、頭に蠅の止まっている様な事、暢気に考えている場合じゃなかった。不味い。…里に『不公平』が生まれている。そしてまた、栄さんは軍医だから従軍している、となると…坂元家は妬まれる。自分達は失業したのに、って。こんな状況じゃ、祈祷師やって現金収入を得るってわけにもいかないって、治さん達と話していた時に、如何して思い付かなかった?『里全体に』、暫く収入が無い。…紘は、分かっていたのかな。でも、そうすると、何が起きる?
其の場に居る全員が色を無くして、紘の言葉に耳を傾けていた。
紘は、辛そうに言った。
「だからって、俺に如何こう出来るわけじゃ無いけど…」
「そんなのは良い。此の先如何なると思うか、話せ」
綜は青い顔の儘、少し懇願を滲ませた声で、紘に、命じるかの様に呟いた。
紘は続けた。
何時もの様に其の声は淀みが無かったが、流石に淡々と語る事は出来ない様子だった。
「里が失業者で溢れ返ると起きる可能性が有る事は、ザッと考えて、二つ。一つは不満。もう一つは連鎖。不満は、自分達だけ失業した不満。軍医と郵便兵の三人以外、解散で、事実上失業。軍から支給されていた物品も手に入らなくなる。連鎖は、気付きの連鎖。治さんが考える様に、軍医と郵便兵だけ仕事が有る事に疑問を抱く人や、軍隊手帳や識別票の存在を知る人も出てくれかもしれません。『里全体の従軍』が事実では無かった、という事が知れると、最初の、病院を後から里の病院として貰える、だから、里全体の従軍が前提、という話も、疑う人が出てくるでしょう。何かが噛み合わない、と。そうなると、そろそろ…焦る人が出てくる。従軍が嘘だったなら、芋蔓式に、病院の話が疑われて、立場が悪くなる人が出る。其の人が何をするか…。責任を取るか、保身に走るか。兎に角、何か、妙な事を言い出す人が出てきたら、保身だ。其方に目を向けさせて、病院の話から目を逸らさせようとする。其れで、…坂元本家に、また、保身の為に言い掛かりをつけてくるかもしれない。俊顕さんが仰っていた話だと、扇動される人達が、一番、正義の名の元に叩きたい人達が、坂元本家の人達。其方に目が向けば、と、咄嗟の、でっち上げみたいな事を、姑息にも言い出す人が居るかも。其れが、どんな内容かまでは分からないけど…いや、徒に不安にさせたくないよ。俺が、こう思うってだけ。憶測に過ぎないから」
紘は、忘れて、と言ったが、周は、怯えきった顔で、凄い、と言った。
「何で分かるの?紘」
「…周ちゃん?」
辰顕が、思わず、周に声を掛けると、周は、あのね、と俯いて言った。
「兄上が先刻先生から聞いたって。実験の中止は、苗の神様の御加護が無くなったせいだって言い出した人達が居るらしいの。…其れでまた、うちの吉野の伯父さんが、巻物の話を蒸し返しているみたい」
「如何して、そうなるの?」
辰顕は、驚きのあまり、裏返った声で、そう言ってしまった。
あのね、と周は更に言い難そうに言った。
「巻物が有れば、正式に儀式が出来て、また御加護が復活するかも、って。…もう、何を言っているのか分からない、って思っていたけど、そうなのか。本当である必要は無い。保身の為に焦っているのって、多分、八次さんか、うちの伯父さんの事でしょう?また、扇動して、巻物だ、坂元家のせいだ、って、煽って、自分達から目を逸らさせようとしているって事でしょう?紘。そうでしょう?」
陶冶が頭を抱え、薫陶が溜息をついた。
綜は舌打ちして言った。
「あの伯父は、いけ酒蛙酒蛙と。今度という今度は呆れた。里に焼夷弾が落ちなかった事は御加護とは考えないわけか。其の程度の信仰心で、収入という名の加護だけ得ようとは、口から出任せだとしても厚かましい。扇動された側も血迷っているとしか思えん」
そういう事か、と紘は言った。
「…不味い。父さんは何処?いや、父さんじゃ駄目か、里に行けないもの。顕彦さんは?」
紘は、寝台から立ち上がり、辺りを見渡した。
「…紘?如何した?」
綜が、椅子から立ち上がった。
「綜ちゃん、坂元家の血縁は、もう、瀬原集落には居ない?…いや、居るね?ごめん、迂闊だった。居るよね?だから、御祖父様の納骨に来てくださった筈だから。ああ、喜久さん、坂元分家の娘さんの喜久さんは、何処に住んで居るの?もしかして、瀬原集落の中?」
「ああ。上方限の実方分家に住んで居る。だから、如何した、紘」
不安そうに問い質す綜に、紘は駆け寄った。
「ねぇ、顕彦さんに此の話を聞いたのって、何時?」
「つい先刻だよ。俺が母屋の庭に居た時だから、精々十一時前の事だ。一時間も経過していない」
綜が、紘に答えていると、俄かに母屋の方が騒がしくなった。
如何しよう、と紘が言った。
「何か起きたのかな。遅かったかもしれない…。何故こんな事に気付かなかったのかな。成程、理不尽な事で何かを失いそうな気がする…、ね。慧眼じゃないか」
紘は、辰顕には分からない事を言ったが、綜は、紘が言い終わるか言い終わらないかのうちに、病室に居る全員に声を掛けた。
「待っていろ。俺が母屋まで行って確認してくる。全員で出て行っても大丈夫な様なら、呼びに来るから、此処で待機していてくれ。治さん達も、御願いします」
綜が病室を飛び出すやいなや、全員椅子から立ち上がった。
辰顕も、寝台から立ち上がって、紘に駆け寄った。
「紘、説明してくれ」
「辰ちゃん。多分、里の中に、里の話題の中心を、苗の神教の御加護にしようとしている人が居る。従軍の件や病院の件、占いの件に触れられたくないから、扇動する。不安を煽る。嘘で嘘を塗り固めているから、如何しても綻びが出る。でも、其の綻びも隠さなければならない。だから、扇動して、一番知られたくない事から目を背けさせようとする。保親さんと八次さんは、結託しているのだとしても、常に緊張状態にある筈だよ。御互いに弱みを握り合っているの。何かの時に、何方が責任を取るか、未だ分からないけど、戦争に勝つか否か、其れは何時分かるのか。今は、そんな不安定な時期だ。そんな時に、病院の件なんかの真相に辿り着いた人が二人を責めたら?未だ取らなくて済む責任の話を、里の人に説明しなければならなくなったとしたら?そんな事遣りたがるかな?」
「其れは不味いな…」
―病院を引っ張ってくる話に一枚噛んで甘い汁を啜っていました。そして病院の誘致は、話し合いの何処かの時点で、里全体の従軍、つまり里の人間の人体実験参加前提になっていました。其れを咎める糺殿を陥れました。しかも、正式な従軍ではありません。どれも言えやしない。暴動が起きても、最悪自決を迫られても、何も、おかしくない。此れ程里を危険に晒して、掻き回して、無辜の前坂元本家当主を追い詰めて、自分は甘い汁を吸っていました、とは、絶対に言えない。だから、言わなくて良い風潮を作ろうとしている、って事か。…坂元家のせいにして。
「…待って、紘。其れじゃ、喜久おばちゃんが危ないって…」
周は、泣き出さんばかりの顔をして、紘を見詰め、そう言った。
紘は言い難そうに言った。
「魔女狩り、って言っても分かり難いか。坂元家 憎し、の風潮を作る。Scapegoat…贖罪の山羊、生け贄、人身御供。不満や憎悪を擦り付ける存在。自分の失態を、坂元家に押し付けるの。こんな事になったのは、巻物が無いせいだ。其れは坂元家のせいだ、里に残る坂元の家の者を…正義の名の元に、叩く。いや…ハッキリ言うよ。扇動された不満分子に襲撃される可能性が有る。今、喜久さん、もしくは、喜久さんの子供達は危ない。そして、里の人間の事を考えない扇動者は…。巻物の事を言い出したのは」
周は、八次さんじゃないね、と言って、遂に泣き出した。
「酷い、吉野の伯父さんって、そういう話ばっかり。喜久おばちゃん達、如何なっちゃうの?」
周が泣くのと同時に、綜が病室に駆け込んで来た。
「紘、間一髪だった。御前の言った通りだった。誠吉さんが気付いて、先生を里に走らせてくれたらしい」
病室の空気が、フッと緩んだ。
辰顕は、自分も泣いている事に、今気付いた。
病室に居た全員で庭に出ると、ゾロゾロと人が居た。
顕彦が、実方分家の一同を連れて戻ったらしかった。
相当急いだらしく、軍服の袖を捲って汗だくの顕彦とは対照的に、夫の実方尚顕に伴われた、百姓袴姿の喜久は、青褪め、呆然としていて、此方に気付くと、気を取り直した様に、丁寧に一礼してきた。
実方分家の近所に住むという、軍服姿の清水利助が、親切にも、尚顕と喜久夫妻の五人の子供を引率してきてくれたらしい。
尚顕と喜久は、死んだ筈の周二の姿を見ると、酷く驚いた顔をしたが、母屋から、百姓袴姿の安幾が、泣きながら、喜久姉、と言って駆けて来ると、喜久は、走ってはいけない、と言って、気丈にも微笑むと、青白い顔をした儘、安幾を抱き締めた。
安幾が、こんなのって無いわ、と言って、喜久の胸で、オイオイ泣いた。
「喜久姉が、私達が何をしたと言うの」
―何もしていない。生け贄…人身御供にされただけだ。
辰顕は、悔しさで唇を噛んだ。




