昭和二十年 八月九日 瀬原周二 絵という物
昭和二十年 八月九日 木曜日
最低気温23.0℃ 最高気温31.7℃ 曇り
―相変わらず何の情報も入って来ないなぁ。九日になっちゃったけど。
周二は、何だか不安で、焦る様な気持ちになっていた。
珍しく苛々してしまう。
早稲も刈ったし、月に一度の肥取りも終わった。
朝の畑仕事が終わると、周二は、体を清拭し、浴衣に着替えた。
近頃暑過ぎて、白装束に袖を通す気になれない。
洗濯物は少なかったので、直ぐ終わって、今日は此れで、昼餉まで、のんびり過ごしても良い筈だった。
しかし、ポッカリ空いた仕事の無い時間が出来ると、周二は落ち着かなくなって、つい仕事を探してしまった。
曇りで、比較的涼しい日だったので、庭掃除でもしようか、と、周二が母屋の庭先に行くと、考える事は同じなのか、庭帚を持った、浴衣姿の綜一が居た。
綜一は、軍服姿の顕彦と話をしていた。
久し振りに顕彦の姿を見たのが嬉しくて、周二は、先生、と言って、笑顔で駆け寄った。
「今御戻りですか?」
顕彦も笑顔で応じてくれた。
「おう。今戻ったぞ。息災だったか?此方は色々とゴタゴタしている」
顕彦は、やれやれ、と言って、頭の後ろで腕を組んだ。
綜一は、酷く落胆した様子で、嘆息して、言った。
「…何故、うちの父は八次さんを庇うのでしょう」
其れは、一体何の話をしていたのだろう、と、周二が驚く程の落胆ぶりだった。
顕彦は、そうだなぁ、と言った。
「単純な理由かもしれん」
「…また、其れですか」
綜一は、嘆かわしげに、珍しく顕彦に対して、少し冷たく、そう言った。
そう言うなって、と言って、顕彦は、穏やかに微笑んだ。
「単純に考えてみろ」
単純に?と言って、綜一は、不思議そうな顔をして、首を傾げた。
―あ、兄上、苦手そう、単純に考えるの。
物事の裏を読み過ぎてしまう事が有る此の兄には、単純に考える、もしくは、気楽に考える、という事は、時として寧ろ難題なのだろうと周二は思う。
周二は思わず口を挟んだ。
「つまり、そうしたいから、そうした、って事ですか?」
顕彦は、そうそう、と言って笑った。
「庇いたいから庇っているのだろう。そういう事だ」
綜一は、余計に不思議そうな顔をした。
顕彦が、苦笑しながら説明してくれた。
「立場が偉いと如何しても孤独になる。他人に相談出来ない事も増える。其れで、長にとって、補佐が如何いう存在か、というのは、余人の知り得ないところだが、理由なんて案外そんなもんかもしれん。長が八次さんを庇いたいから庇っているだけだろう。御前達も、御互いを庇うのに、特に理由なんか無いだろ?」
しかし、綜一は、其の説明に、更に、解せぬ、と言う顔をして、言った。
「うちの親と八次さんは、其れ程結び付きが強いのですか?」
顕彦は、分からん、と言って笑った。
其処に、大喜びで、貴顕と了が駆けて来て、顕彦に、ひし、と、しがみ付いたので、綜一も周二も、顕彦から、其れ以上何かを聞き出すことを諦めた。
御帰りなさい、と叫ぶ、明るい声の持ち主達に、二人は顕彦を譲った。
そうこうしているうちに、貴顕達の声を聞き付けたのか、逸枝まで庭に出て来て、顕彦に、しがみ付いて笑った。
顕彦も、子供三人に、飛び切りの笑顔を向けた。
喜ぶ子供達と顕彦の笑顔を尻目に、箒で庭掃除を始めた綜一の、何時もの仏頂面より渋い表情を見て、周二は、綜一から、顕彦と何の話をしていたか聞き出す事を諦めた。
―…ま、こういう時だからこそ、絵でも描こうかね。庭掃除に二人も要らないでしょ。
昭和二十年 八月九日 午前十一時二分。
周二は久しぶりに絵具を出してみたが、何本か固まってしまっていた。
其れ等は、もう使えないので、処分する事にして、周二は、残った無難な色で母の絵姿を模写する事にした。
以前から時々此の絵を模写するのだが、難しいのである。
―父上は、やっぱり上手い。
しかし、此の絵を持って行くのは流石に気が引ける周二である。
―何か、何となく俺の物、みたいにして貼っているけれど、本来は、俺達二人の為に父上が描いてくれた絵だし。
其れに、父の描いてくれた絵は、少しずつ劣化してきていた。
唇を表現するのに使われていた薄い赤が、年々褪せているのには気付いていたが、保存も何も考えずに、幼少の砌から、ただ壁に貼られているだけの絵なのである。
―持って行くなら、保存状態を考えると、複製が欲しいからなぁ。此の絵を置いていく事は、考えられないけど、持っていくなら複製だよね、やっぱり。
父が描いた母の絵だから、という以前に、模写し過ぎて、周二には、此の絵が自身の創造の源の様に感じられるのである。
両親への思慕、というものをも超越した何かを、周二は、此の絵に感じている。
―だから、此れを模写する事を親思い、みたいに言われると、ちょっと違う気がしちゃう。そんな執着は感じないから、逆に、持って行くなら模写で構わない、と思っちゃうのかも。絵は、絵だ。母上の絵だけど、母上そのものではない。勿論、此の絵は好きだし、母という人も大事。思慕を此の絵に重ねた時期があった事も事実。でも、絵は、絵。
同様に、綜一は、此の絵の達者さを以て、父の母への愛情が、再婚をしないくらい強いと思っている節が有るが、周二の意見としては、其れこそ、絵は絵だ、と思うのである。
此の絵は、観客を意識した、一つの作品なのだ。
観客とは、綜一と周二の二人である。
此の絵は、寂しがる二人の観客の為に描かれ、そして、観客が喜んだ時点で、作品としては一段落ついている、と周二は考えるのだ。
描いた其の時は母への愛情が有った、という事も、周二は、絵の出来とは別だと考えているし、母への愛情の有無は、恐らく其処では測れないと考えているし、事によると、父本人も、其の事は分からないで描いているのかもしれない、と考えるのだ。
描く技能と、実際に表出される表現と、描き手の感情は一致するとは限らない、と周二は考えている。
感情の大きさと、其れは別だ。
自分自身の感情の大きさを自分自身は分かっていない事など、山とある。其れを表現しきれないから絵を描くのだとも言えるが、此れは此れ、其れは其れ、である。
だから、此の絵を描いた時と父の気持ちが変わっている可能性はあるし、此れから父が再婚したとしても、別段其れを、母に対して冷たいとは周二は考えない。
―ま、写真みたいな物って事よ。再婚する、しないは偶々だろうし。俺なんて、三ヶ月くらい前に描いた絵でも、描いたのを忘れていたりするもの。父上が此の絵の事を忘れている可能性も有るくらいだと思っているし。絵は絵で、俺が、こういう絵を描けるようになりたい、と考える事とも別。
絵に関してのみは、普段の周二とは掛け離れた冷静さと割り切りを持つ事について、周二本人は多少自覚的だった。
時には、そんな考え方をする自分を、冷たいのだろうか、と思う事さえあった。
しかし、別なものは別だ。
だから逆に、愛情に満ち溢れていなくても、父は父、とも思う。
其の事実は覆らないのだ。
―多分、兄上とは、こういう考え方は合わないだろうな。だから、此の絵に関する感想は、兄上には殆ど言わない事にしているけどさ。実は其れ程、此の絵自体に対しては感情が無い、とは、言い難いくらいだからね。兄上の方が絵を好きなのかも、とまで思うよ。
そう言えば、と、周二は思い至った。
―前は、小さい子達に、絵を描いて、なんて、せがまれていたのに、絵具を隠す様になってから、サッパリだったな。色付きで何か描いてあげようかな。
周二にとっての絵は、手紙でもあった。
周二の気持ちが描いてある便箋だ。
だから、描いて渡したら役目も終わりなので、其の後捨てられようと如何されようと、其れ程気にはならない。
周二は、描ければ良いのであり、僅かでも気持ちが届けば良いのだ。
滅多な事では気持ちなど伝わらない。
自分の感謝も愛情も、誰にも、全ては伝えきれない。
其れ程に感謝と愛情は深く、多い。
だから、其れで良い、と周二は思うのだ。
―さようなら、と、有難う、の気持ちで描こう。大好きだよ、って。伝わっても、伝わらなくても。
周二が、そうやって絵を描いていると、仮眠室の扉が叩かれた。
入って来たのは、清水の双子と綜一だった。
籠目模様の浴衣を腕捲りして、腕組みした陶冶が、邪魔するよ、と言った。
三人共酷い顔色をしていた。
周二は、嫌な予感で、思わず背筋が寒くなった。
紛らわしていた不安が、再び顔を出した。
陶冶が、周、と言った。
「絵を描いているところ悪いね。少し話せるかい?」
「勿論。すぐ片付けるから」
―話って何だろう。
一言も発しない薫陶と綜一の青い顔が、周二の不安を加速させたが、平静を装って、周二は、心持ち丁寧に道具を片付けた。
良い話では無さそうな事だけは分かった。
薫陶が、落ち着かなげに、麻の葉模様の浴衣の襟を正して、言った。
「従軍の話をしても良いかい?周」




