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山行かば 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第二章 昭和二十年 八月
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昭和二十年 八月八日 瀬原周二 子供時代の終わり

 周二は、読書会の時間に、何時(いつ)の間にか綜一が馴染んだ事を嬉しく思っていた。


 綜一は、何なら、英文を読もうという努力までしていた。


 弟の自分から見ても、兄は記憶力が異様に良いのである。

 其処に向学心が備われば、案外、多言語を習得するのは不得手では無さそうだった。


 英語に興味を持つ綜一、というのは、周二にとっては、読書会に誘った時点では想定すらしていない姿だったが、其の気真面目な性質を思うと納得もした。


―今までは知らなかっただけだよね、きっと。そう、治ちゃんも言っていたけど、知らない事って欲しくないよね、やっぱり。知ったら、覚えてみようかな、って思ったり、使ってみようかな、って思ったりするよね。他の国の言葉だって、きっと。そんな出会いが自分を変えるよね。


 綜一は変わった、と周二は思う。


 表情には其処まで表れないが、綜一が以前より明るくなったのを、周二は感じ取っていた。


 軍での実験が中止になった事や、瑠璃との事、年の近い仲間と、こうして一緒に居る事。


 様々な事が、綜一を変えたのだ。


― 一番は、紘との出会いだよね。やっぱり、不思議な子。


 滅多に泣かない、笑うのが下手だった兄は、読書会に於いては、話が面白ければ、泣いたり笑ったりするのだ。

 綜一の感情の発露を目の当たりにする度に、周二は、もう大丈夫、と、安心する気持ちが強くなる。


―ハナ子おばちゃんも、あれから普通に接してくれるし。俺が此処を出て行っても、もう大丈夫。…後、八日(ようか)


 こんなに好きな人々に囲まれている日々が、もうすぐ終わる事が信じられない周二だったが、今は楽しい事だけ考えたかった。


 其の夜も病室に集まった。


 昼間の暑さと肥臭さが嘘の様に涼しく、風呂上がりでサッパリしてから夕餉を食べたので、周二は良い気分だった。


 今夜は、周二の寝台には薫陶、紘の寝台には陶冶、辰顕の寝台には綜一が腰掛けていた。


「そう言えば、治さん、昨日少し伺った気がするのですが、里の小学校は共学ではないのですか?」


 紘の問い掛けに、陶冶は、建前は共学だよ、と言った。


「校舎が別なのさ。男児にだけ術を教える都合で、女児と同じ教室に出来ないらしい。女児には、体術も、術も、教えないのが決まりだからな。術は、存在すら知らない筈だ」


「そういう事ですか。有難うございます。成程、其れで、建前、ですか」

 紘が少し驚いた様に、そう言ってから、へぇ、と言った。


―あ、まただ。


 周二には、紘が何に驚くのか()だ上手く理解出来ない。


―男女七歳にして席を同じうせず、って言うじゃない?兄弟姉妹ですら、上方限(カミホーギリ)では、七歳にもなれば、寝る場所は()(かく)、布団すら別だって聞くのに。校舎も、そうだと思っていた。だから、血縁でも無ければ、女の子となんて(ほとん)ど喋らないし、俺なんて、こんな狭い里なのに、名前も分からない女の子が居るものね。


 実は周二は、昨夜陶冶が口にするまで、()(ばる)集落の外の尋常小学校が共学である事も知らなかったのである。


―そう、何となく思い込みで、(みっ)ちゃん達の通っている、里の外の小学校は、偶然共学なのだと思って、興味も持たなかったからなぁ。


 (こと)(ほど)左様(さよう)に、里と外は違うらしい。


―好子と吉雄が級友でも、外国の話だから、って思うと気にしていなかったのだけど、こういう時、自分は世間知らずだって思うな。覚えていかなければいけない事が沢山有るのだろうけど、今は、自分が何を知らないのかも分からないものね。


 しかし、今考えても其れは分からない事なのだった。


 周二は、サッサと読書会に意識を切り替えた。


 好子が舟で演劇ごっこをしていて、舟ごと流されてしまうと、周二は、危ない遊びをするなぁ、と、肝が潰れる様な思いがした。


―好子って、女の子らしいところも沢山有るけど、案外御転婆だよね。


 しかし最近周二は気付いたのだった。

 多分好子が、大人しく美しいだけの少女だと、話が全く進まないのである。


 好子が感情を目まぐるしく変化させたり、何か仕出かしたりするから、聴衆が一緒になってハラハラドキドキし、時に笑い、時に涙するのである。


先刻(さっき)は肝が潰れたって思ったけど、事件が無いと面白くないからなぁ。


 陶冶は、(えら)く月子を気に入っているが、例えば、好子も月子の様な性格の美少女だったら、此れ程周二が聞いていて飽きない話にはならない気がするのである。


―二人の女の子が、ただ凡庸な日々を田舎で仲良く過ごす、っていうのも、其れは其れで興味深い話にしようと思えば出来そうだし、多分嫌いじゃないけど。


 其れこそ川原村の週報程度の内容しか提示されないだろうと周二は思う。

 少なくとも、此の話の様に、大笑いが出来る気はしないのだった。


 今も、好子は、乗っていた舟の底に穴が開いていて、一緒に水没しかけていた。


 如何(どう)なっちゃうの、と、周二はハラハラした。

 すると何と、吉雄が登場して助けてくれたのだった。

―あら、ちょっと。格好良い登場じゃないの?好子を助けちゃうのかぁ。


 そして吉雄は、以前からかった事に対して許しを請うが、好子は素直に許せず、吉雄を怒らせ、もう二度と好子に許してもらおうなどとはしない、と言うのである。




「おや」

 周二と清水の双子は、思わず、同時に、そう言った。


 陶冶が、更に、おやおや、と言った。

「好子に変化が有ったな。此れは内心、吉雄を許しているな」


 陶冶の考察に、薫陶も同意した。

「そうだね。案外上手くいくのかな、此の二人。もしも仮に此れを恋物語というなら、やっと此処が始まりかもね」


 周二も同意した。

「吉雄と仲直りしても良いかな、って、一瞬でも好子が思うなんて、凄い変化だよね」


 しかし、綜一は、困った顔をして、分からん、と言った。

 清水の双子と周二は、声を揃えて、え?と言って聞き返した。


 しかし、辰顕も、俺も分からない、と言った。

(そもそも)俺、女の子を、からかわないから…此の流れが、今一つ分からない」


 そうだな、と綜一が言った。

「俺だったら、そんなに長い間許してもらえないなら、許してもらえなくても構わない、と思うだろうな。助けて感謝されなくても仕方が無いと思うだろうし、ついでに、以前に揶揄(からか)った事を許してくれないか、とも言わないだろうな。前提として、俺は、揶揄(からか)わないし、別に、相手に感謝されようとして助けないからな。見ている前で級友が水没するのを見過ごしたら寝覚めが悪かろう」


 そうだね、と紘も言った。

「まぁ、最初、好子を揶揄(からか)った頃の吉雄も、性格が良いとは言い切れないからねぇ。俺も此の箇所は、ちょっと分からないなぁ。揶揄(からか)った時よりは吉雄が成長している、という事かな?」


「そう言えば、最初の方は、俺は不参加だったからな。其の辺りの理解も出来ているとは言い(がた)い。出会った頃の吉雄の様子を聞いても良いか?」


 綜一の依頼に、紘は、勿論、と言って本を捲った。


「とは言え、話を進めるのに、色々と端折ってしまったから、皆も詳細は知らないかな?今更だけど、吉雄が好子を気に入っていたのは、初対面からでね。吉雄は女の子の気を引こうとして失敗した事が無いのに、好子が全く吉雄の存在に気付かないもので、からかった、という流れ」


「そんな事が書いてあるの?」


 周二の問いに、紘は、うん、と言って、英文を訳してくれた。


「吉雄は、女の子が、彼の方を見るようにしようとして失敗する事に慣れていない。彼女、あの、赤毛の女の子、小さな尖った顎をして、川原村の学校には居なかった、大きな目をした、草原(くさはら)とかいう女の子、彼女は、彼の事を見るべきである」


「はぁ?女の子は皆自分の方を見るべきで、気を引こうとして失敗した事が無い、だぁ?性格が良いとは言い切れない、どころか、随分な性格していると俺は思うぞ」

 陶冶が、そう言って、目を丸くした。


 紘が、英文を指で指し示した。

「なかなか凄いですよ。She SHOULD look at him,って、shouldが全部大文字表記ですから。必要だ、とか、そうあるべきだ、其の筈だ、っていう意味ですが、其れが強調されているわけです。彼女は、彼の事を見るべきである、と」


 いやはや、と薫陶が言った。

「だから好子も此方を見るべき、って発想、凄いね、吉雄」


 やはり頭の中に坂元(さかもと)吉雄(よしお)が出てくると見え、皆、薫陶の言葉に、クスッと笑った。


「久しぶりに吉雄が登校すると、村では見かけない女の子が居る。気を引こう。気を引けないとは初めてだ。では、からかって気を引こう、という流れですね。だから、文脈として、吉雄は好子に(ほとん)ど一目惚れに近い感情を抱いたのでは、とは、俺は思うのですが…ちょっと、やっぱり、俺、此れは分からないですねぇ。揶揄(からか)う、っていうのが」


 綜一が、首を傾げた。

「紘、其の、好子の顎の描写は何だ?」


「ああ、好子は、自分の鼻は形が好いと思っているみたい。だから好子は、顎も鼻も、ツン、としていて、横顔が綺麗、という事かも」


―ああ、辰ちゃんみたいな感じ?


 周二は、辰顕の側貌(そくぼう)が好きである。

 此の幼馴染は、(えら)く横顔が美しいのだ。

 絵になる。


―そう、お景さんみたいに、鼻が綺麗だよねぇ、辰ちゃんって。あと、手。


 周二の経験上、人間の手は、大体、其の人間が持つ足の裏の長さの三分の二くらいの大きさである。


 周二の見たところ、辰顕は、足の裏の長さの三分の二より、少し手が大きく、指が長いのだ。


 其の長さを、周二は美しいと思っている。

 楽器を弾く手、と思うと、尚、美しい気がするのだ。


 しかし、其の美しい幼馴染は、でもなぁ、と言った。

「そういう心の機微の話は難しいなぁ。つい、最初から優しくすれば?と思っちゃって」


「いや、好きだから意地悪したって話の流れだろ?此れ」

 陶冶の説明を受けて、綜一と辰顕と紘は、うーん、と唸った。


 こりゃ駄目だ、と周二は思った。


 陶冶は、尚も説明を試みた。

「好きだから気を引きたいし、何でも良いから相手からの反応が欲しくて、意地悪するわけだ」


 辰顕と紘が顔を見合わせた。

 綜一が、もう一度、うーん、と言った。

 三人共、顔に『理解不能』と書いてあった。


―あらー、全然響いてない。そんな気もしていたけど。


 三人共、容姿の美しさに反比例する様にして、こういった事柄への理解が不得手である様に周二には思える。


 大丈夫かな、と周二は少し不安になった。


―兄上、瑠璃さんと上手くやっていけますように。


 三人への説明を諦めた陶冶が、仕切り直して、紘に、先を読む様に促した。

 周二は其れを英断だと思った。

 今考えても、三人共絶対分からない、と周二も判断したのである。




 槍谷清子が、好子と月子を、都会に在る自分の自宅に招く。

 其の、都会で過ごす四日間を、月子は心から楽しむが、好子は、楽しみながらも、やはり緑家(みどりや)が良い、と思うのであった。


 周二は、話を聞きながら、鼻の奥がツンとした。


 そして、四日ぶりに帰った好子の為に、輝子が、七面鳥とかいう鳥の焼き料理を作って待ってくれているのである。


―あ、此れ。(オンジョ)(ドイ)を、つぶして待っていてくれるのと似ている。御馳走(オゴッソー)の事だ、きっと。


 周二は、顕彦が綜一の為に大事な鶏を、つぶして食べさせてくれた事を思い出して、ホロリと泣いた。


 其れからも、好子が遺書を書くなどして、また(ひと)(しき)り話が盛り上がったが、遂に、周二が一番驚く事が分かった。


 好子は、もうじき十四だという。


―嘘、もう、そんなに大きくなったの?わ、将来の話とかまで出てきた。


「え?女の子を師範学校に?」

 陶冶が驚きの声を出した。


 輝子が好子を師範学校に入れてくれるというのである。


―ま、此の辺じゃ考えられない話だよね。


 周二は、陶冶の驚きに共感した。

 里に学校が在るとはいえ、女が学校に行って如何(どう)する、其れなら嫁に行け、という風潮が、(いま)だ根強く残っている。

 家の手伝いをさせるから、と、尋常小学校にも(ほとん)ど通わせない家も在る。


 辰顕の二人の妹でさえ、女学校の後に、更に師範学校に行こう、などという話は聞かない。


 しかし、其の女学校ですら、里の子女は一人も行っていない。


―此の辺じゃ女学校に通えるだけでも()(ゴイ)(サァ)だよね。更に、師範学校に進学なんて、夢みたいな話。


 そうですね、と言って、紘は、本を捲った。

「輝子は恐らく、賜男や自分が亡くなった後の事を考えているのでしょう。好子は孤児ですから、クスバート…いや、明智兄妹亡き後は身寄りが無い。其の為、何が起こるか分からない世の中だけど、自分で生活費を稼ぐ準備をしておくに越した事は無い、という事ですね。そういう形の愛情なのでしょう」


 周二は、良かったね、と言って泣いた。

「男の子じゃないから私を要らないのですね、なんて言って、好子、泣いていたのに。好子は緑家(みどりや)の子にしてもらえたって事じゃない。本当に良かった」


 周二は、今夜は矢鱈(やたら)、自分と好子が重なる。

 だから泣かずには居られなかった。

 清水の双子も辰顕も泣いている。

 薄暗くて離れた場所に居るのに、綜一も涙を堪えて居るのが、周二には分かった。


―別に、恋愛の心の機微の話なんて、分からなくて良いか。こうして、同じ話で、一緒に泣けるなら。


 やはり綜一は大丈夫だ、と、周二は思った。



 月子は師範学校には行かない事が判明すると、周二は再び泣いた。

 あれ程一緒だった二人の人生の道が、此処で分かれたのである。


 そして、吉雄と好子は、学問の好敵手として、同じ師範学校への入学を目指すのだった。

 しかし吉雄は、もう好子に何の関心も示さない。

 好子は仲直り出来なかった事を後悔しているが、其れを完璧に隠し通している。


「おお、やっぱり、好子は吉雄を気にし始めているなぁ」

 陶冶が、ハッとした様に、そう言った。


 紘が、本を捲って、淡々と言った。

「吉雄も本当は好子の事を気にしていますからねぇ」


 薫陶が、上手くいかないね、と言って苦笑いした。


 そして、好子には、輝く様な夏が訪れる。


 夏、と思うと、周二は少し悲しくなった。


 現状、夏は、好子の体験する様な輝きに満ちた美しさを、なかなか周二の間に展開させない。

 

 此処に居る周二が、どれ程幸せでも、戦時下である事は変わらないのだ。


 外が爆撃で酷い有様、という事実が、周二を苦しい気持ちにさせた。


 物語にも、不穏な影が訪れた。

 以前から心臓が悪かった賜男が、軽い心臓発作を起こしたのである。

 其の場面が語られると、周二には、病室の中の気温が少し下がった様にさえ感じられた。


 そして医者は、好子にも、結核にならない様に、と、夏の間は、(しばら)く好子を自由にさせる事を輝子に推奨する。

 結核の事を思うと、周二は、(とも)寿(ひさ)(きぬ)夫婦を思い出して、更に悲しくなった。


 しかし、科木稚子は、好子の成長ぶりを褒めた。


 此の三年で家事も上手くなり、立派な美しい少女になった、と言うのである。

 成長は寂しさだけでなく、喜びも連れてくる。

 しかしまた、喜ばしい反面、十四になった好子の子供時代が、そろそろ終わろうとしている事に、周二は気付いた。


 もう、子供らしい失敗をして、周二を大笑いさせないのかもしれない。


 架空の事なのに、周二は寂しく感じた。


 此の読書会が、どれ程周二の心を慰め、気を紛らわせてくれたかを考えると、周二は、紘だけではなく、好子にも礼を言いたい気持ちだったが、其れでも、やはり寂しかった。


―後、八日(ようか)で終わっちゃう。


 其の時までには読み終える様に、紘が、物語を、かなり努力して端折ってくれているのを知っている周二だったが、残りの日数の事を考えてしまうと、もう少し引き伸ばしたい様な、切ない気持ちになるのである。


 其れは、周二の子供時代の終わりをも意味していた。


 近頃、次第に好子に影響されて穏やかになった輝子の様に、穏やかになってきた綜一も、秋には所帯を持つのだという。


 今より余計に、自分と好子を重ねてしまいそうで、周二は心に、赤毛だと言う女の子の姿を思い浮かべた。

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