昭和二十年 八月八日 坂本紘一 初恋
昭和二十年 八月八日 水曜日
最低気温22.2℃ 最高気温30.6℃ 晴れ
―明日は九日か。
紘一は、少し不安になりながらも、束の間、穏やかな気持ちで、一人で上座敷の縁側で脱穀作業をしていた。
昨日の七夕の竹が井戸端に見え、萬古焼の蚊遣り豚は、今日も、紘一の傍らで、惚けた愛嬌のある顔の口から、細い煙を吐いていた。
今日、辰顕は、昼餉の後から、貴顕を連れて、顕彦の代わりに、里に在る実方本家の様子を見に行き、鶏の餌遣り等をしてくる、との事で不在だった。
初は、里に行くのは止したら、と、何やら言い難そうに止めたが、女性達は危険だから里に戻すわけにはいかないし、実方衆は大丈夫でも、貴顕一人では心許無いし、実験も中止になったのだから、もう辰顕が里の人間に見られても構わないであろう、というのが、辰顕の言い分である。
結局、辰顕は、貴顕への親切心から、一緒に瀬原集落に行ってしまった。
此の頃、顕彦も、ずっと家を留守にしている。
瀬原集落に戻るとなると、静吉も紘一も一緒には行けないので、大変そうでも、手伝える事が無い。
そして、静吉は、午後から一人で墓の掃除に行ったし、綜一と周二は、今日は、午後から汲み取り便所から肥を集める当番だった。
清水の双子が、此の気温に気の毒だ、と言って、肥取りを手伝ってくれる事になったので、人手が有ったのが救いであろう。
そして午後、紘一は、一人で、縁側で脱穀作業をする事になったのであった。
最近、専ら、紘一が脱穀係なのである。
紘一も肥取りを手伝おうとしたのだが、脱穀の方をしてくれ、そして米に触る前は肥の近くに来ないでほしい、と綜一に言われたのだった。
棒を使って、延々、瓶の中の籾殻付きの米を搗くから、手が痛くなるのは困りものだが、脱穀等の地道な単純作業は、実は紘一の性に合っていて、好きなのである。
此の御時世、米を、こうして脱穀出来る機会も貴重であるし、頭の回転を止めていても手を動かせば出来る作業は、心が休まる気がするのだ。
そして如何やら其れを周囲に見抜かれての抜擢らしいのだった。
断る理由も全く無かったので、一人、涼しい縁側での作業は悪いと思いながらも、紘一は、作業に没頭していた。
そうして、浴衣姿の紘一が、上座敷の縁側で、胡坐を掻いて、瓶を足で支えて米を脱穀していると、成子と逸枝が、揃いの、白地に紺の鉄線柄の浴衣姿で、やって来た。
午後は暑いのか、子供達は百姓袴を脱いでしまう事が多い。
時折、鹿児島市上空を通過するB29を見掛けると、百姓袴に着替えておいた方が良いと成子に言う大人は居たが、逸枝が怖がるので、逸枝には直接は言わない。
そんな事一つとっても、紘一は、此の小さな従妹達が不憫でならなかった。
特に、自分の妹の由里より幼いかと思うと、何でもしてあげたい様な気分にさえなるのだ。
何とかして守ってやらねば、という意識が働く。
逸枝が、紘兄ちゃん、と、小さな声で言った。
紘一が、如何したの、と声を掛けると、逸枝は、そっと、成子の後ろに隠れた。
成子は、逸枝の気弱な態度に、やれやれ、という顔をして、逸枝に代わるかの様に言った。
「紘兄ちゃん、また空襲は起こる?」
紘一は返答に困った。
何故か、紘一は、もう空襲は起こらないと思う。
しかし、根拠は無いが、そう思う、というだけなのだ。
だから、其の通りに言うしかなかった。
「起きないとは思うけど。俺が、そう思うだけだから」
しかし、紘一の返事を聞くと、逸枝は、ホッとした顔をした後、愛らしい笑みを浮かべて、有難う、と言って去った。
斑の褪紅色の兵児帯を締めた小さな背中が、帯の結び目の脇の、たれをヒラヒラと、金魚の尾鰭の様に揺らしながら遠ざかる様子が、如何にも頼りなげで、可憐な従妹である。
成子は、立ち去らずに、紘一の隣に正座した。
紘一の作業中に、子供達が、こうやって近付いてくるのは、何ら珍しい事では無かったが、今日の成子は、美しい、ハッキリとした顔立ちの中の眦を決し、紘一を静かに見詰めていた。
其の姿は個性の塊だった。
―うわ、目千両。宝塚受ける、なんて自分から言い出すだけ有るよね。
其の、既に、逸枝と年子だというのに、可憐なものは全く感じられない、ハッキリとした意思と、ある種の強さを感じる容貌を引き立てる様に、浴衣の白さが、午後の陽光の中で冴え、成子を、何処か高潔に見せていた。
締めている兵児帯は古びて、元は萌葱か、何色かハッキリしないが、褪せて、所々、白緑か薄青か、と思える様な斑になっていた。
上手く合わせてあるだけで、継ぎ接ぎの帯なのかもしれない。
しかし、其の、帯の色の薄さが、不思議な清涼感を印象として添えていた。
―此の、何時もの鉄線柄の浴衣、趣味が良いよな。洗い替えの、撫子柄の浴衣より似合っている。柄自体、昔から在る割には意匠としても現代的な気がするけど、こういう、ハッキリした現代的な柄が似合う子なのか。
紘一は、成子の浴衣の柄に、渋谷の自宅の庭を懐かしんだ。
白い花を愛した富が、生前、庭の黒い大和塀に、鉄線の蔓を這わせて、白い花を咲かせていたのである。
母の死後、剪定が上手くいかず、何年かしたら枯れてしまったのだが、紘一は、夏に向けて何度も白い花を咲かせる、高貴な紫色の蕊を持つ其の花が気に入っていた。
鉄線の根本近くに、富が、白妙菊を植えていて、其の辺りが、黒い大和塀を背景に、白妙菊の銀色の葉と小さな黄色の花、鉄線の白い花が映えて、初夏から夏の庭を彩る様は、雪の上に花が咲いている様で、幼心にも不思議だったのである。
食糧難の今は畑にしてしまったので、白妙菊も既に庭には無いが。
思い出の中の庭と従妹の美しさが紘一の頭の中で調和した頃、成子が口を開いた。
「私も質問宜しいかしら」
思わず、紘一は、丁寧に、どうぞ、と言ってしまった。
成子は、有難う、と言った。
「紘兄ちゃんは、私が、今度の六月の真ん中に十になったばかりの子供だからって、誤魔化さずに答えてくれそうだから伺うのだけれど、御時間頂ける?」
―うわ、巧妙な前置き。
要は、紘一を持ち上げつつ、自分の質問には正直に答えろ、と言っているのだった。
―こんな言い方、小さな子供に、其れも、女の子にされた事無いな。
多分此の子、相当頭が良いや、と思いながら、紘一は、辰顕の言葉を思い出した。
―あ、此れが『頭の回転が速くて気の利いた人』との会話?
紘一は少し可笑しくなったが、笑うのは止めた。
何と無く成子に怒られそうだと思ったからである。
―でも、幾ら美人だって、こんなに小さいとね。由里より小さいもの。あと、五、六年は待たなくちゃ。オマケに従妹だし。そういう相手じゃないでしょうに、可笑しいや。
しかし、其れを差し引けば、相手が美しい異性である事と、賢い人間である事には変わりはなく、会話が辛い事は全く無さそうである。
紘一は、そんな考え事をする間も作業の手を止めず、ずっと脱穀をしながら、成子に言った。
「俺に何を聞きたいの?成ちゃん」
「紘兄ちゃんは巫女さんなの?」
「男だから違う」
紘一は全く作業の手を緩めず、淡々と言った。
棒で瓶の中の籾を只管よく搗かないと籾殻が上手く落ちないのである。口は動かしても、手を止める様では仕事にならない。
だが、成子は眉一つ動かさずに、すかさず言った。
「男だから巫『女』さんじゃない、なんていうのは言葉遊びじゃないの?」
―うわ、辛口。此れ、もしかして、誤魔化さずに答えろ、って、念を押されているの?
巫覡、と言うが、巫は女性で、覡は男性なのである。『巫』『女』は確かに、字としては二重の意味で女なのだ。
別に誤魔化した心算は無かった紘一だったが、字義では無く、成子が納得する答えを求められている事を悟り、作業の手を止めずに、説明を試みた。
「ちょっと教えてもらったから、巫女さんみたいな事が出来るだけ。修業をしたわけでもないから、物真似みたいなものだよ。俺は巫女じゃない」
紘一にとっては、単なる余興に過ぎなかったから、衣装を着て化粧まで施したのである。
自分が御託宣をするとも思わなかったし、した事も覚えていない。
紘一にとっては、余興の物真似程度の認識、というのは一面の真理だった。
―物真似の様なもの…でも、突き詰めれば、再現は多分可能…。
しかし、こうして、小さな従妹を前にすると、皆が巫女舞の復活を望まなくて良かった、と紘一は本心から思った。
あれを、もしかしたら、此の子達にさせなければならないのだ、と思うと、成子達の為にも、あれは廃れるべきもの、という気がした。
―…そうだね、皆。俺、こんな小さい子達に、あれを遣らせたいとは、思えない。危険だ。
紘一が、黙って作業を続けていると、成子が口を開いた。
「逸ちゃんはね、紘兄ちゃんが空襲の予言をしたと思っているの。あの子にとっては、紘兄ちゃんが巫女さんなの。だから、もう起こらないって聞いて、安心したかったのね」
「ああ、そういう事」
―其れで態々、俺を名指しで聞きに来たのか。ああ、今日は、俺が縁側で、一人で居たから、狙って聞きに来たわけだ。他の人が居ると聞き難かったのか。
直感で導き出した事柄に、後付けで付けた理屈だったが故に、確証は無いけどね、と、前置きしてから、紘一は、逸枝に対してしたよりも、幾分丁寧に成子に説明した。
「空襲が起きるか否か、と言うより、起きても、他所より、此処は被害が少ないかもしれない、という話だよね。此処は、上空から標的にされ難い土地だろうな、とは思うよ。市街地の中心部よりは、隠れ里に近い方が、被害が少なくて然るべきでしょう?確率の話でもあるけど。御託宣の事は覚えていないから、こんな話しか出来ないよ」
しかし、意外にも、成子は、確証なんて無くても良いのよ、と言った。
「逸ちゃんは今、紘兄ちゃんに、空襲は起きないと言ってほしかっただけだと思うわ」
―うわ、慧眼。俺より上手だった。成ちゃん自身は空襲の話に別段重点を置いていないのか。
多分成子の言う事は本当である。
逸枝は安心したいだけなのだ。
だから、予言をしてくれると思っている紘一に空襲の事を聞いたのだ。
だから恐らく、紘一が答えた時点で逸枝は自己完結し、安心を得たのである。
本当である必要は、実は無い。
しかし其れを、まさか十歳の小さな従妹が看破しているとは考えもしなかった紘一は、動揺を隠しつつ、そういうもの?と成子に問うた。
成子は、伸びれば柳髪と称えられるであろう、艶の在る、おかっぱ頭を、そっと、自身の左手で撫でながら、ええ、と言った。
「だって、不安な状態なんて、大体は、理由も無くなるものよ。あれは、誰かに大丈夫だって請け負ってほしいだけね。次に空襲が有るか無いか、本当は分からなくても良いの。少なくとも、次に空襲が起るまでは、安心して過ごせるでしょう?例えば一ヶ月後に空襲が起るのだとして、其の一ヶ月を、不安になった儘で過ごすか、安心して過ごすかは、結果が同じでも、気分は全く違うもの。毎晩怖くて泣いてしまうなんて、あんまり不憫だわ。だから良いのよ、あれで。紘兄ちゃん、逸ちゃんを安心させてくれて有難う。紘兄ちゃんは、あれで徳を積まれたと思うわ。逸ちゃん、救われたもの。少なくとも次の空襲までは」
―うわ、立て板に水。あと、思っていたより相当頭が良いや。迂闊に口が挟めないくらい頭も口も回る。置いていかれそう。今まで、人生単位で、徳を積みましたね、とか、誰からも言われた事無いもの。何か負けそう。
十一歳のアン・シャーリー、もとい、草原好子ですら、こうまで喋ったかは分からない、と思った紘一は、思わず作業の手を止めて、そうかな、と言った。
聞いていると、御託宣の事が黙示的に含蓄されている様な気にさえなる、其の妙に知的な発言の内容を、紘一は、やっとの事で咀嚼した。
成子は居住まいを正すと、紘一の顔を、ジッと見た。
紘一は、作業を再開させながら、其の人形の様に整った顔の和膚に、敢えて選んで埋め込まれたのではないかと疑いたくなる程の、黒い蛋白石もかくやと思われる、知的な光の閃く瞳からの視線を、まともに受け止めた。
「巻物って何?誰も教えてくれないのよね」
「ああ」
成子が漸く言葉を発してくれたので、そんな、巻物という不吉な単語でも、紘一は、何処かホッとした気持ちになって、身体の緊張が解れた気がした。
紘一は、作業の手を止める事無く、答えた。
「そういう物が在る、と思っている人が居るらしい、って話。其れが在れば巫女舞を復活出来る、っていう、思い込みだね」
「実在はしないの?」
「少なくとも俺は知らない。大人の人達は無いって言っていたよ」
「じゃ、巫女さんは復活しないのね?」
「しないよ」
紘一の言葉に、成子はホッとした顔をした。
「良かった。選ばれるとしたら、私も含めた、本家の娘かも、って、思っていたの。御母さんも巫女さんだったし、娘の私達を、と思われるかも、って」
―あ、やっぱり、そう思うのか。
「成ちゃんは、巫女さんに、なりたくないよね?」
「なりたくないわ。姿を人に見られてはいけなくて、殆ど外にも出してもらえない上に、御友達にも、自分からは会いに行けなかったって、御母さんから聞いたわ。毎日水垢離して、舞の練習。学校なんて夢のまた夢だったらしいわ。そんなの、あんまりよ。私、なりたくないわ。宝塚なんて、そりゃ、本当に行けるなんて思っていないけど、別に宝塚でなくても、何時か、もっと綺麗なものを見に行きたいのよ。普通に生きていたら、そういうものが見られる可能性は在るでしょうけど、巫女さんになったら、外に出られないなら、可能性自体無くなってしまうのよ。巫女を引退するにしても、何時まで其れを続けなければいけないのかも、よく分からないのに」
自身の母や景、仲、長の妻、双子の叔母、という、最後の巫女だったという六人の女性の事を思うと、紘一は複雑な気分になり、再び作業の手を止めた。
成子は十歳とは思えない、落ち着いた、抑えた声で、続けた。
此の年で自制を知っている事自体が、甘えん坊の妹を持つ紘一を驚嘆させたが、紘一は黙って、成子の言葉を待った。
「此処は変よ。苗の神教、って、よく分からない。外で御寺がやっている様な事を、長がやっているだけ、という気がするわ。其れが如何いうものなのか、私は、よく分かっていないの。御盆や何かも遣るけど、他所と如何違うのか、全く分からないの。だけど、隠れ里なのでしょう?此処は変だわ。私、もう嫌なの」
「嫌、って。成ちゃん、滅多な事言うものじゃないよ…誰かに聞かれたら」
庭では、逸枝が了の相手をしているのが遠目に見えた。
炊事場にも、恐らく初が居る。
家族に聞かれても良くない話だが、万が一家族以外が潜んでいて、坂元本家の娘が隠れ里を離反する様な事を言ったのを知られる危険を思うと、紘一は思わず、少し小声で窘めた。
しかし、成子は、更に抑えた声になっただけで、言うのを止めなかった。
「大人になったら、此処を出たいの。私は此処が怖い。得体が知れないって思うわ」
紘一は、再び作業を始めた。
そろそろ脱穀作業も終わりである。
「俺にしてみたら、此処は桃源郷みたいな場所だけど。外は黒焦げだよ。こんな、綺麗じゃない。食べ物だって、御米も、十粒入っているのか、と思うくらいの雑炊で」
「でも、帰るのでしょう?」
成子は、ほんの少し怒った様に、そう言った。
紘一はドキリとし、驚いて、成子の方を見た。
成子は、抑えた声だが、ハッキリと言った。
「知っているわ。最近御母さんがコッソリ、泣きながら食べ物を小分けにして保存しているもの。紘兄ちゃん達に持たせる心算なのね。紘兄ちゃんが怪我をしてから一ヶ月は此処に居るって御話だったけれど、きっと、もっと短いわね。…桃源郷だと言うのなら、ずっと住んでも良さそうなものでしょう?此処に居たいのならね。桃源郷ではない外に態々帰る人が、此処に残る私に、此処は良い所だって言ったって駄目よ。私は此処が怖いの。私には桃源郷じゃない。何時も暮らしている普通の場所で、そして怖い場所なの」
―やられた。何か、出し抜かれたっていうか、負けた気分。其処まで察しているなんて。
紘一は、何だか、よく分からないが、してやられた、という気持ちになり、胸に僅かに痛みを覚えた。
小さな引っ掻き傷を付けられた様な痛みと悲しみが、僅かにピリッと胸に走った。
そんな傷を他人に付けられた事は、此れまで一度も無かった紘一である。
「ごめん、成ちゃん。そんな心算で桃源郷だと言ったわけじゃないよ。此処が俺にとっての非日常の場所である事は認めるけど。俺は此処も、此処の皆も本当に好きだから」
温い粥の中の香辛料の如き従妹、成子は、怒りは感じられないが、しかし鮮烈な印象の、強い目をして、静かな声で言った。
「私だって皆が好きよ。両親も大好き。逸ちゃんも、了も、貴ちゃんも、伯父さん叔母さん達も皆、大好きよ。でも、私は此処が怖いの。他所と違う気がするの。其れこそ、此処に居ると、理由も無く不安になるのよ」
成子は、そう言って、スッと姿勢良く立ち上がった。
「此処を桃源郷みたいって、褒めてくれたのは嬉しいわ。誠吉伯父様も紘兄ちゃんも好きよ。外が今大変なのも、知らないわけでは無いわ。でも、私は此処が怖いの。其れは実は、戦争とは関係が無い事なのよ。何時か何か起こりそうで、怖い。理不尽な事で何かを失いそうな気がするの。其れは、誰に何を聞いても、私が安心出来ない事なの」
またね、と言って、成子は踵を返した。
「また、御飯の時にね。そろそろ御母さんの御手伝いに行かなくちゃ。其れと、今話した事は内緒にしてね」
紘一が、好きだと言われたのに別れを突き付けられた様な、妙な気分で居ると、成子が去るのと、ほぼ同時に、貴顕を連れた、国民服姿の辰顕が、汗だくで戻って来て、井戸の方に向かって水を飲んだ後、紘一に向かって手を振り、上座敷の縁側まで歩み寄って来た。
「お帰り、辰ちゃん」
「ただいま。いやぁ、参ったよ。貴が、うっかり、ひよこちゃん、逃がしちゃって。捕まえるまで大変だった」
国民服姿の貴顕も、ただいまー、と言って、紘一に手を振りながら、母屋の中に駆け込んで行った。
逸枝と了が、キャーキャー言いながら笑って、貴顕の後を追った。
「おーおー、帰って来るなり賑やかだね。実方の分家に誘われて、一日遅れだけど、御精霊さん、遣ってきちゃったよ。だから、川は涼しかったけど、今日は風が弱いから、往復は暑かったなぁ。でも縁側は流石に涼しいね。俺も着替えようかな、軽く行水でもして」
辰顕は、そう言って、伸びを一つした。
「俺、今脱穀終えたから、風呂焚きの用意をするよ」
紘一の提案に、辰顕は、助かるよ、と言って微笑んだ。
初が、肥取りの子達が可哀相だから、今日は行水だけではなく、風呂を沸かそうと言っていたのだった。
紘一は、炊事場の土間に在る唐箕に、脱穀の済んだ米をかけた。そうして殻と米とを選別し、茣蓙の上に落とした籾殻だけを堆肥小屋に持っていった後、陶製の漏斗で米だけ瓶に戻して、初に米を渡しに行った。
其れから、風呂焚きの用意で俄かに忙しくなった紘一は、胸に付けられた引っ掻き傷の様な痛みの事を忘れ、其れきり思い出さなかった。
成子も、以降は、普段通りの態度を取って来たから、其れを思い出す機会も訪れなかったのである。
しかし、心の何処かには、其れから長い間、其の引っかき傷と、白地に鉄線柄の浴衣の影が残っていたのだが、残念ながら、相手が幼かった事も有って、紘一が其の事の意味に気付く事は遂に無かった。
そして、成子に関する事は、以降起こる事の数々が強烈過ぎて、単に利発な従妹、という記憶しか、紘一の頭の中には残らなかった。
夕餉の前に、清水の双子も一緒に、綜一や周二、辰顕と紘一とで、若け衆が先に入浴する事になった。
ワイワイと、流れ作業の様に交代していくので殆ど行水と変わらない気はしたが、体を念入りに洗ってから浸かる湯船は、やはり良いものだ、と紘一は感じた。
―東京じゃ、何処かの銭湯、水が頻繁に替えられなくて酷い事になっているって聞いたな。水道管だって壊れるものね、あんな爆撃じゃ。其れでも、暖かい御湯が嬉しくて、隙間なく人が湯船に浸かるって。渋谷の実家だって家に御風呂が有るし、上方限は家に内風呂が在るって聞いたし、そういう事だけでも贅沢だけど、こういう時、此処は、やっぱり外とは違う、良い場所って思うな。家族を置いて此処に来て、悪いと思うくらい。
紘一は、昼間の、小さな、守るべき従妹達の事を思い出した。
皮肉にも、紘一にとっての桃源郷で育つ成子は、此の場所に違和感を持って暮らしているのだと言う。
旧態依然とした身分差別や軍関連の不穏な動きの存在を知っている紘一は、此処とて完璧な場所では無いとは思う。
しかし、成子の話は、此処に来て初めて自分に違和感を覚えなかった紘一とは、真逆だ、と思った。
―違うか。同じものに真逆の反応を示すって事は、ある意味似ているよね。其れを見る角度が違うだけ。何方も、此の場所に無関心でないという点では同じだ。
また、此処の人々が好きだという点でも、紘一と成子は同じなのだろう。
そして、紘一と成子に真逆の事が他にも存在するなら、一つは、其れは立場と性別である。
予科練にも参加出来る様な年で、殆ど大人と変わらない扱いを受けている男子の自分と、十歳の女児の成子は、様々な、互いに対立する属性を持っているのだろう。
だから、何方も、其の感じるところは恐らく間違いではなく、両方の見方が必要なのだ。
山に当たる太陽の光で、日向と日影が出来る様に。
そして、影という言葉には、光の存在が内包されている様に。
入浴を済ませた紘一は、此の場所に住む、親の庇護が未だ必要な、自分の力で身を守る術、例えば護身用に体術も教え込まれていない、自身の力では未だ此の場所を出る事が出来ない、自分とは異なる性別である存在の立場で考えながら、浴衣に着替えた。
―抑、女の子には、体術も、苗の神教の術も教えないものね。苗の神教と他の宗教との違いが分からない、と言い出すのは自然な事かもしれない。俺から見ても、術や巫女舞以外で此れと言って目立った特徴の有る教義は無いし。…俺が知らないだけかもしれないけど。そして、あんな小さな子供達には言っていないかもしれないけど、人体実験の話も在るものね。あの賢さだもの、きっと騙せない部類の人間には違いなくて、其れでも、其の幼さ故に、確たる情報を持たないのなら、あの子が此処を薄気味悪いと思っても当然だ。
「明日は九日だね」
疾うに着替えを終えた紘一の隣で、浴衣に着替えていた周二が、手拭いで頭を拭きながら、そう言った。
そうだね、と紘一は答えた。互いに、明日は何が有るのだろう、と思っている事が察せられたが、互いに其れは口にしなかった。
夕餉の為に、若け衆で揃って母屋に戻る途中で、紘一が空を見上げると、スッと細い、針の様な月が、薄っすら夕焼け空に浮かんでいた。
日没前に沈んでしまう、儚い月である。
紘一には、理屈としては昼間の月の存在も理解しているのに、如何しても、月は夜、という先入観が有る為、夜空ではなく、未だ昼の明るさを残した空に月が在る様子は、其処だけ空に、誤って付けた切れ目が入っている様に思え、見ていると、日常という時間に不意に入ってしまった傷を見付けた様な、不安な気持ちになった。
―ああ、違和感って、昼間の月に似ている。
明日は九日である。
不安な時間と、そして、十六日という別れの時間が近付いていた。
―俺には桃源郷の様な所だけど。後八日か。
親しくなった人達との別れの辛さと、此れから何が起こるのか、という不安が、紘一にとっての桃源郷を中心に、クルクル回る様に思えた。
※兵児帯 薩摩藩の言葉で、兵児とは青年男子の意。薩摩兵児が普段締めていた、しごき帯、という意味の名だが、明治維新以降各地に広まり、次第に、男物だけではなく、子供が浴衣を着る時等の普段着に使用される様になった。




