昭和二十年 八月七日 坂本紘一 弟妹
三人で、そんな話をしていると、病室の扉が叩かれ、陶冶が入って来た。
「ちょっと邪魔するよ」
陶冶は、籠目模様の浴衣の袖を捲りながら、紘一に近付いて来た。
「紘、身体は大丈夫か?術を使い過ぎて疲れていないか?」
「はい。一晩寝たら、大体の事は大丈夫です」
陶冶は、少し浮かない顔をして、そうか、と言った。
辰顕が、陶冶に、どうぞ、と言ったので、陶冶は、辰顕に礼を言って、辰顕の隣に腰掛けた。
「如何なさいましたか?治さん」
綜一が問うと、陶冶が、其れがさ、と言った。
「俺、あんなに薫に無理をさせていたとは思わなくて。俺、薫程は術が上手いわけじゃ無いから。下手な心算も無いけど、上手く集中出来ない時が有って、出来にバラつきが有る。其の点、薫は、そういう事が無い。だから、もし、俺が出来ていない部分を薫が補ってくれていて、其れで無理をさせていたなら、申し訳なくて。あいつが昼寝している間に、何だか居辛くて、抜け出してきちまった」
そうでしたか、と綜一が言った。
双方、弟と居辛くて此処に来た、というわけである。
陶冶は俯いて、言った。
「如何して気付いてやれなかったのかな、と思ってしまって。何もしてやれなかった」
分かります、と、綜一が共感の言葉を口にした。
「ですが、どれだけ一緒に居ても、どんなに見た目が似ていても、違う人間ですから。相手の全ては分かりません。其ればかりは、致し方ない事、と、俺は思う事にしています」
「…双子仲間が言うと説得力が有るな。有難う」
陶冶は、顔を上げて、綜一に笑顔を向けた。
「そうだな、例え双子でも、違う人間だからな。実は、俺と薫は誕生日も違う。俺は大正十三年の十二月二十一日生まれだが、薫は十二月二十二日生まれなのさ。面白いだろう?」
「うちもです」
驚いた顔をして、そう言う綜一に、そうだったのか?と陶冶も目を丸くして言った。
「初産で、双子だったせいか、御産が長引いたとの事で。赤子が一人だと思って俺を産んだら、頭が、もう一つ出てきた、とかで。母の年も若いし、産婆が逃げ出す程酷い御産だったのを、うちは、弟は父親が取り上げたのだそうですよ。其れで、産んでいる間に日付が変わって、俺は昭和二年の十一月二十三日生まれなのですが、周は二十四日生まれなのです」
「ああ、そっちも、日付跨いだのかい。こりゃ、妙なところで共通点が有ったな」
驚く二人に、今度は、紘一が、え?と言ってしまった。
「綜ちゃん、うちの弟と同じ誕生日なの?宮中の新嘗祭の日?」
其の場に居た全員が、え?と言った。
綜一が、驚いた様子で言った。
「…ああ、うちの里では、同じ日に豊穣祭を行うのだが」
「ボゼ…?ああ、何か、前も聞いたな」
戸惑う紘一に、辰顕が、豊穣祭の事だよ、と教えてくれた。
綜一が続けた。
「操殿と巫女が居なくなって初めての祭祀の日で、父が巫女無しで儀式を終えてから、白い直衣姿の儘駆け付けた、という話だが。晩秋に祝言だろう、という予想も、恐らく、そういう事だ。俺は満で一つ年を取るし、里は収穫も終わって落ち着いていて、親は豊穣祭の仕事を終えている、という頃合いだな。…妙な偶然だな。御前の弟も、か」
―…何だろう、其処まで聞くと、ドンドン『他人』とは思えなくなるな。いや、綜ちゃんと彰じゃ、年も違うし、単なる偶然としか言い様が無いけど。
紘一が戸惑っていると、綜一が、陶冶に向かって、あの、と声を掛けた。
「何時か薫さんと別々に過ごす様になる、と考えた事は有りますか?」
「何時も」
陶冶は、アッサリそう言った。
綜一は意外そうな顔をして、続く陶冶の言葉を待っていた。
「兄上が、瑛子に婿は取らないで、嫁に遣って、家は俺に継がせるって言ってくださっているのだ。ま、だからと言って、まさか、こんなに早く瑛子の相手を決めるとは思わなかったけどさ。そうなると、薫は冷や飯食いだろう?」
「えーと、此の前も誰かが言っていた様な気がするけど…冷や飯食いって?冷遇される、みたいな事だよね?」
紘一が質問すると、辰顕が説明してくれた。
「あのね、此の場合、家を継がない男子の事。遺産として土地屋敷を分けてもらえて、分家してもらえて、自分の家を持てれば、分家を継いだ、という事になって、其れには当たらないけど、例えば、長男が家を継いだら、次男以下の、其の他の男子は居候扱い、って事。特に三男以下は、長男に御情けで家に置いてもらっている様な存在で、長男の言う事は何でも聞く。土地屋敷の財産無しでは暮らせない程収入が無ければ…あとは、親が反対すれば、最悪所帯も持てないし、良くて労働力」
―良くて労働力。…悪いと、あんまり良い言い方にならなさそう。
大体は長男が家を継ぐ、という事は理解出来る紘一だったが、上方限、下方限という違いだけではなく、上方限の中ですら、やはり上下関係が厳しい様で、次男以下は居候だから長男に服従、という様な事までは、何となく理解するのが難しかった。
冷遇という認識に於いては相違が無さそうである。
冷や飯食いにも意味が在るのさ、と陶冶が説明してくれた。
「うちは七人兄弟でね。だから、俺と薫は今、冷や飯食い、というわけだ。兄上、繁雪兄は次男。上に、兄が三人と姉が二人いて、俺が四男、薫が五男。繁雪兄までは分家してもらえたけど、三男以下は、うちでは冷や飯食いだったわけだ。でも、そうしないといけないのさ。姉二人は嫁いだけど、男五人で親の土地を分割相続する、なんて事、続けてみろ。残るものも残らない。何時か、土地の大きさが微塵切りの野菜くらいになっちまう」
「成程、其れは確かに」
紘一が、そう言うと、な、意味が在るのさ、と陶冶は、もう一度言った。
「だから繁雪兄は、既に分家してもらっていたのに、瑛子の母親が亡くなった頃、自分の御金で坂元分家の土地屋敷を買って、分家した方の家は、三男の兄に譲ってくれたのさ。そして、うちの両親が亡くなってから、俺と薫を、自分の家に引き取って育ててくれた。俺達、両親が亡くなってからは、暫く、長兄の家族と同居していたのだけど、其処は子沢山で、肩身が狭くて。引き取ってもらえて、坂元分家の屋敷に住まわせてもらえて、嬉しかったな。ほら、中二階を俺の個室にもらえてさ。薫は下座敷で寝て。広々として、夢みたいだった。瑛子も懐いてくれて」
陶冶が本当に、繁雪が買ったのだという坂元分家の家を気に入っている事が、今では紘一にも、よく分かった。
「其れは、立派な御方ですね」
綜一が、ポツリと呟いた。
其の、繁雪への嫉妬が鳴りを潜めた様子を見て、紘一は少し嬉しかった。
綜一には抑、安幾の事が無ければ、特に繁雪が何をしようと関係が無い筈で、そう気にもならない筈なのだ。
理屈と膏薬は何処へでも付く。
悪い理由を付けようと思えば、幾らでも其れは可能で、嫉妬から来る先入観で物事を見ると、本質を捉えられないかもしれないのだ。
安幾に求婚しようとしていた過去や、繁雪の容姿の良さ等への嫉妬からの疑いを起こさず、行動のみを客観的に見れば、繁雪は、単なる親切な人だと言えよう。
陶冶は、綜一の言葉に、嬉しそうに、えへへ、と言った。
「もう一人の親みたいでさ。十八は違うから、親子くらいには年が上だし。兎に角、そうして、兄上が頑張ってくれたし、俺達の処遇に気を遣ってくれたから、俺も行く行くは、あの家を継げる。ただ、其の暁には、うちの兄弟は、薫だけが冷や飯食いになる。俺は、其れは嫌なのさ。不公平だと思って。俺の方が先に生まれた兄と言っても、実は、十分も変わらない。昔は、双子の、後に生まれた方を上、としていた、という噂も有るし」
綜一は、神妙な顔をして、陶冶の話を聞いていた。
陶冶は、ハッキリと言った。
「だから、家を貰えたら、金とか、他の物は、相続しても薫や瑛子に渡してやりたい。例えば、兄上に何かあったら、瑛子の事も、嫁入りくらいまでは見てやりたいし、兄上が瑛子に残してやりたい分もあるだろうし。薫も、そうしてやれば、自分で家を買うなり所帯を持つなり出来る。其の為に、俺は俺で稼いでおきたい。だから、もう、長い事、俺は何時も、何時か薫と離れる事を考えて動いているわけだ。其れに、此れからは時代も変わるかもしれん。土地屋敷に頼らずに、収入が得られる様になれば、冷や飯食いでも、所帯が持てる様になる筈だ。今の里の動向だって、俺達みたいな冷や飯食いでも嫁さんが欲しいから、上方限でも『水配』に参加する奴が増えているって話だと思う。長が決めてくれれば、何とかなるって事だろう。薫が、もし誰かと所帯を持ちたいと思う日が来たら、準備万端送り出せる様にしておきたい」
「立派です」
綜一は、感心した様に、そう言うと、ほう、と溜息をついた。
紘一も感心した。
―治さんって、やっぱり俺より、ずっと大人だ。其れに、凄く弟思いだ。繁雪さんも。
自分は其処まで弟の事を考えてやれているだろうか、と、紘一は少し恥かしい気持ちになった。
辰顕も、恥じ入る様に言った。
「うちは、俺以外は妹が二人だから、そんな事考えた事も無かったもので、何だか恥ずかしいです。良い御兄さんですね、治さんは」
図らずも、此の場に居るのは、陶冶以外全員長男であった。
三人共、陶冶の考え方には、何か自己を省みてしまう立派さを感じた様である。
―成程…傍に居ると自身の卑しさが恥ずかしくなる、か。やっぱり清水の人は、こういう立派な考え方の人が多いって事なのかも。
しかし、尊敬の眼差しを向ける紘一の気持ちを他所に、陶冶は、何時もの様に明るく言った。
「あ、辰。妹さん達、美人になったかい?お景さんも綺麗だからなぁ」
紘一は、思わず、クスッと笑ってしまった。
―如何にも美人が好きらしいけど、そういうところも、何だか陶冶さんらしい気がして、嫌な感じはしないよな。寧ろ面白い。中身の立派さとは少し矛盾が有る気もするのに、変な感じもしない。開けっ広げで、明るくて、清々しいって思ってしまう。そういうのも、人柄っていうか、人徳なのかな。…十分違いくらいの生まれで、下手したら薫さんの方が御兄さんだったかも、っていうのも、何だか分かる気がする。
「あ、そう言えば、治さんと辰ちゃんは、親戚なの?」
紘一の問いに、陶冶と辰顕は、うーん、と唸った。
「親戚は親戚ですよね。俺の母方の。遠縁ですけど」
辰顕が、そう言うと、ああ、と陶冶は言った。
「俺の父が、前の清水本家当主の従弟だったから。其れで、辰は、前の清水本家当主の外孫だろ?えーと、お景さんと俺が又従姉弟同士だから、辰は、俺の又従姉の子だな」
紘一は、そんなに遠縁だったとは、と思い、正直に、遠いですね、と言った。
そうだな、と陶冶は言った。
「最近まで御互い、殆ど喋った事が無かったくらいだしなぁ。でも親戚の集まりの時は会っていたよ。な、一緒に伊達巻き食べたよな?辰。確か。綜達も居たよな?子供が沢山居たから、どれが誰だか、うろ覚えだけど。懐かしい」
辰顕が嬉しそうに、ああ、と言った。
「丁度、其の話を先刻紘にしていたところだったのです。伊達巻きの話」
陶冶と辰顕が、微笑み合ってから綜一の方を見ると、綜一も微笑んで、言った。
「懐かしいですね」
そうだなぁ、と、陶冶は、少し寂しそうに言った。
「うちの両親が生きている頃は、周りに配るとまではいかなくても、実家で、あの伊達巻きを作っていたものだよ。大きいの。嬉しかったな。もう、何処の家も、あんな贅沢な事は出来ないだろうな」
そうですね、と、辰顕も、しみじみとした様子で言った。
「此れから如何なるか分かりませんけど、暫くは、他所に配れる量の伊達巻きなんて、何処も作れないでしょうね。御金だけ有っても物が無いし、前の様に出来る様になるまで、どのくらいかかるか。其れに、前の様に戻れるか如何か。此の戦争の前と後では、色々な事が変わってしまう気がして」
「そうだよな。勝って賠償金獲得、って話も、金が何時此方にまで回ってくるか、という話だし。実のところ、戦争が終わったら、何の仕事を生業にしていけば良いのかも、よく分からないからな。祈祷師遣ったって、前みたいに金が集められるか如何か。いや、俺は、薫や瑛子の為にも、何かは仕事をやって、金を貯めたい。だけど、暫くは畑の手伝いくらいかねぇ。食うにはギリギリ困らないだろうけど、現金収入となると」
陶冶の話を聞きながら、紘一は、怖いな、と思った。
―実験中止となると、此れ以上軍からも御金も物資も引き出せないよね。実験をしなくて良くなった事は、喜ばしい事でもあるけど、裏を返せば、突然里が失業者で溢れ返った状態とも言えるわけで。…其れでも、未だ『中止』という形だから、軍に里ごと消されなかっただけマシだけど。単に其れを保留にされているだけ、という可能性も有るし、今に何か、起きそうな気がして。…いや、でも、俺に何が出来る筈も無いし。
そして、紘一には、今に、日本中が此の様な、突然の失業者で溢れた状態になるのではないかと思われるのである。
―全く他人事じゃない。新三伯父さんの会社だって、戦争をしている間は、軍需の仕事も有るだろうけど。
其れでも、かなりの数の男手を兵隊に取られたのである。そして兵が、いざ戻ってみれば、住処も何も黒焦げで、仕事も無い。物資も食料も無い。
―確かに、此処は空襲に遭わなかっただけ外より良い。でも俺は、里は外より、一足先に、そうなってしまった様に感じる。畑の御蔭で糊口が凌げる半農の里で、食料供出も無かったみたいだから、余程不作に陥らなければ、此れからも何とかなるのだとしても。
実は、勝てば済む話、という段階を越えている、と紘一は感じている。
勝って賠償金を取れようが、負けようが、此の被害状況である。
此れだけ市街地が焼かれたのを、如何にして復旧するか、と考えると、絶対に、其れは一朝一夕では成し得ない、と紘一は考えている。
紘一は、もう、ずっと其れが気になっている。
住む場所一つ元に戻せない状況で、兵役も軍需も失って、仕事も、仕事をする建物も失って、其れでも賠償金さえ入れば、とは、如何しても紘一は楽観出来ない。
―そう、そして。勝たなかったら、如何なるか、って事だ。今の同盟国の独逸が、前の大戦で敗戦国になった時、求められた賠償金額は如何だった?そんなの支払えるのかな?
紘一が、そんな事を考えていると、話題は辰顕の妹二人の結婚相手の話に移っていた。
「妹達は、未だそんな事は考えていないと思いますよ。三人年子で、上は十五、下は十四ですが。特に下の妹は未だ」
陶冶は、へぇ、そう言えば年子三人だったか、と言った。
―…辰ちゃん、静さんの想い人を知らないよね?綜ちゃんも多分知らない、となると…俺だけ、うっかり知ってしまったから、何だか静さんに悪いなぁ。
紘一は、少し冷や冷やしながら話を聞いていた。
陶冶は、成程ね、と言った。
「里では十五、十六で適齢だが、外で育つと、そうかもしれないな。里の外で女学校まで出ちまうと、里の男じゃ相手にならんかもしれないし」
「実は上の妹は、和文の活字文章作成機械職人を目指しているとかで。女学校を出たら、そういう学校に行きたい、とか、最近急に言い出したそうで」
辰顕が、そう言うと、おや、と陶冶が言った。
「職業婦人の花形じゃないかね。良いところの娘さんだろうに、珍しい」
東京では周囲に割と職業婦人が居たので、珍しいとまでは思わない紘一だったが、確かに、大体は女学校を出たら嫁に行く者が多い此の時代に、そう多くは無い話だ、とは紘一も思った。
其れが、と辰顕は言った。
「…実は、此の前の巫女舞の時の集まり、妹二人が来なかったのですが。本当は祖父が、妹二人にも楽器を弾かせる予定だったらしいのが、何でも、上の妹が部屋に籠りがちになったとかで、来なくて。其れで、紘と一緒に舞う予定だった叔母が鼓を打つ事になったのです。オマケに上の妹の静が、誰とも結婚しない、なんて言い出して、父も困っているらしいのです。戦争が終わったら、気が済むまで、何年か、何処かで秘書でもさせて、薹立つ前に辞めさせて、相手を見付けて結婚させようと思っている様ですよ。全く急に、我儘な事で」
妹に、薹立つとか言ってやるなよ、と、陶冶が何やら気の毒そうに言ったので、紘一は、何の事だろう、と思った。
まぁなぁ、と、陶冶は、続けて言った。
「どの家も何かしら大変な事は在るよな。仮に相手が既に決まっていても、上手くいくとは限らないし。うちの瑛子も如何育つかは分からんからなぁ。嫁に行かないとか言い出さんとも限らんよな。しかし、こう空襲が有っちゃ、気も塞ぐだろうよ。若い娘さんが籠りがち、というのは不憫な事だな」
成程、其れで自分は一人で巫女舞を舞う事になったのか、と紘一は納得した。
其の辺りの事情が詳らかにされなかったのは、如何やら、静が綜一の結婚話に傷付いたから祝いの席に現れなかった、という経緯を、大人達が隠すためだったのであろう。
―静さん、好きな人と一緒になれないなら、誰とも一緒になりたくない、なんて思ったのでは無いと良いけど。…俺は、誰かを好き、という気持ちは未だ分からないけど、好きな人が居るからって上手くいくとは限らないと思うと、何だか気の毒だな。
下の妹はねぇ、と、辰顕は、溜息交じりで言った。
「冴の方は、おっとり構えていて、洋裁学校にでも行こうかしら、和裁も良いわね、と」
あー、花嫁修業か、と、陶冶は納得した様に言った。
ほう、と綜一も言った。
「姉妹でも違うものだな」
其の言葉を聞きながら複雑な気分になった紘一を他所に、辰顕は苦笑いして続けた。
「是非とも料理の方に力を入れてほしいものですがね」
陶冶も苦笑いして、下手なのかい?と聞いた。
うーん、と辰顕は言った。
「冴の方は、下手って程でも無いですが。静も冴も、自分で作らなくても困らない環境ですからねぇ。結局手伝い程度で。一人で家を回せない様なら、下働きの居る家にでも嫁がないと自分が生活するのに困るのに、冴は兎も角、静には其の気は無さそうだし。花嫁修業より、和文入力に使う文字列を暗記しているのですから。親が嫁ぎ先を考えるでしょうから、貰い手が無いとまでは言いませんけど」
「辰、妹には手厳しいねぇ、先刻から」
陶冶が意外そうに言った。
いえね、と、辰顕は自嘲気味に笑った。
「妹の方も結構俺に容赦の無い事を言うもので、こっちも辛口になってしまうのです。いや、妹が可愛くないとか、薄情な事は言いませんけど。両親には兎も角、俺には平気で我儘言って来ますからね」
―でも辰ちゃん、そう言いながら、結局我儘聞いてあげていそう。辰ちゃんには我儘言い易いって、何だか分かるもの。
紘一は、少し微笑ましく思いながら、自分の妹の事を思い出した。
―由里、如何しているかな。
暇さえ有れば音楽の事ばかり考えている小さな妹は、哀れなくらい痩せている。
虚弱な妹は、食べ物を何とか掻き集めて与えても、太ってくれないのだ。
加えて、慢性的な栄養失調なのであろう。
日々の食事と言えば家庭菜園の野菜が殆どで、毎日肉や魚を与えられる筈も無いから、何かを与えても其の場凌ぎ、という気がするのだ。
四歳下の由里は、満二歳で富に先立たれた為に、母親の事も覚えていない。
其の様な、花嫁姿など未だ想像もつかない程、稚い妹は、洋琴の弾けない日は、紙に描いた鍵盤の上で指を動かしている。
家の彼方此方で其れをしている、おかっぱ頭の由里の姿が浮かび、紘一は、儚い気持ちになった。
―花嫁修業に勤しんで、家事の一切が得意で、親の言う通りに進路を決める様な妹でなくても良いから、生きて無事で会いたい。其れで、何時か俺が、自分で御金を稼げる様になったら、好きなだけ音楽をさせてあげたい。あんなに小さいのに、母さんの顔も、前の、良い時代の事も知らないなんて…。そんなの、あんまりじゃないか。
此れ以上の窮状が、見るからに栄養不足の妹に優しくない事は、其れ程深く考え込まなくても分かる紘一だった。
東京に残してきた家族の事を思い出さない日は無い。
此処が、どれ程楽しくても、家族の事は気に掛かる。
紘一は、ふと、爆風除けの紙の貼られた窓の隙間から、外を見た。
―八月六日、九日、十五日。此処の外は、如何なっているのかな。
因みに、ドイツが第一次世界大戦の賠償金を完済したのは、第一次世界大戦終結から92年後の、2010年10月3日です。
※薹立つ 薹が立つ。若い年頃を過ぎるという意味の方言。育ち過ぎて食べ頃を逃した、蕗の薹等の草木の実や芽に対しても言う。




