昭和二十年 八月七日 坂本紘一 清水家の思い出
紘一は、ところで、と言った。
「清水本家当主って、如何いう人なの?」
辰顕は、自分の寝台に腰掛けた儘、独逸語の本を、寝台の傍らに在る棚の上に置きながら、紘一の顔を見て、言った。
「ああ、そうだね。紘は結局、長と清水本家当主以外の、里の本家当主には会ったのか」
「実のところ、吉野本家当主の事は全く思い出せないけど、そうなるね。長は、瀬原本家当主だしね」
紘一の言葉に、綜一が、覚えていない方が良いと思うが、と言った。
「しかし、良い当て身だったぞ」
綜一は、表情は笑って居なかったが、何時になく、嬉しそうに言った。
余程伯父の事が嫌いらしい、と、紘一が再認識するくらいの明るい声だった。
「無意識で他人を攻撃した事は、褒められた事じゃ無いかなって思っているのだけれど」
紘一が、少し恥じ入って、そう言うと、正当防衛だ、と綜一は言った。
「気にするな、紘。相手の方が先に御前に無礼を働いたのだ。実際は、御前だったから攻撃して防衛出来ただけ、とは思わないか?相手は御前の事を娘さんだと思っていて、行き成り腕を引っ掴んだのだろう?本当に、御前くらいの年の娘さんが同じ事をされていたら、恐ろしくて反撃も出来ないと思うぞ。そうなると、相手は痴漢と変わらん」
「伯父さんの事、押し入り強盗みたいって、綜ちゃん言っていたのに、今日は痴漢みたいって言っている。どっちが、より悪いのかな」
辰顕が、そう言ってクスリと笑った。
紘一も、少し笑った。
笑えないぞ、と言う綜一の声も、そう言いながら笑っていた。
「何度でも言う。他人の家に勝手に入って物を出せと恫喝したら押し入り強盗だし、娘さんに、紘にしたのと同じ事をしたら痴漢だ。うちは其れが伯父なのだぞ。いかんな、また、呼吸をする様に悪口を言ってしまった。すまない。兎に角、当て身は、俺個人としてはスカッとした」
其処まで言ってから、綜一は、ハッとした顔をした。
「ああ、すまん、紘。俺が口を挟んでしまって、うちの伯父の話ばかりしてしまった。清水本家当主の話だったな」
「あ、そうそう。辰ちゃんの伯父さんだっけ?」
話が元に戻って良かった、と紘一は思った。
辰顕が説明してくれた。
「そう、うちの母の兄。俺の母方の伯父。あと、うちの叔母の、お仲おばちゃんが嫁いでいるよ」
「ああ、あの、五人子供が居る、俊顕さん達の妹さんか、衣装を持って来てくれた」
何と無く富を思い出す、スラリとした人だったのを、紘一は思い出した。
辰顕は、そうそう、其の人の旦那さん、と言った。
「穏やかな人だよ。上品で器の大きい人だと俺は思っている」
綜一が、良いなぁ、と言ったので、辰顕が苦笑いした。
綜一の伯父評と真逆なので、無理も無い。
「そうだねぇ、あとは、兎に角、御金持ちだよね」
辰顕の言葉に、綜一も頷いた。
「何年か前までは、清水殿の伊達巻、という名物料理が在ったぞ。先生の好物だ」
「え?家に名物料理が在るの?えっと、ダテマッ?」
―如何いう事?上野名物とか浅草名物みたいな話?
何だか途方も無い話だ、と思い、紘一は眼を瞬かせた。
辰顕が懐かしそうに言った。
「伊達巻き。行事の時に配ったり、来客に出したりする料理。大きな伊達巻きの事でね、母の実家に行くと、昔は絶対出してもらっていたの」
「俺達も、清水本家の伯父や伯母が生きていた頃も、其の後も、辰と清水本家に行って、貰っていたのだ。清水殿の伊達巻と言えば、子供も大好きだからな」
綜一が、珍しく、穏やかに微笑んで、懐かしそうに、そう言った。良い思い出である事を、紘一は察した。
「靹寿さんと絹さんだっけ。大好きだった?」
綜一も辰顕も、静かに微笑んで、頷いた。
「前の清水本家当主だった靹寿殿は、鄙には稀な、実に軽妙洒脱な人だった。今の清水本家当主の兄だが、弟の千寿殿より、失礼ながら随分男前だった」
大分失礼な発言だったと見えて、辰顕が笑いを堪えているのが、紘一には分かった。
―でも、本当に大好きだったって、分かるな。綜ちゃんが優しい顔をしているもの。
「洒落た見掛けだったが、意外にも子供好きの愛妻家で、人が好いというか。…ああいう人は長生きせんのだな。伯母の絹という人も、綺麗な人で、似合いの夫婦だったが、やはり短命だった。誠吉さんも仰っていたが、顔の下半分の雰囲気は、少し周に似ていたかな。流石甥、と言うべきか。絵に描いた様な佳人薄命で、子供が生まれる前に亡くなってしまった。さぞや無念であった事だろう」
綜一は、穏やかな顔で、寂しそうに、そう締め括った。
ああ、と紘一は言った。
「…周ちゃん達の御母さんの御姉さんか。其れは、綺麗な人だったろうね」
「懐かしいな。そうだね、随分昔だけど、俺も、御存命の頃の事、覚えているもの。可愛がってもらって、楽しかった。伊達巻き、よく分けっこして食べたよね、綜ちゃん達と」
辰顕が、寂しそうに微笑んで、そう言うと、綜一も、微笑んで、そうだな、と言った。
「流石の清水本家も、材料が無いと見えて、近頃は、作ったという話を聞かんな。美味しい物だが、思い出の方が多い物だから、食べられなくなったのは少し寂しいな」
「あれが思い出の味、って言うのかもね。皆に配って。本当に名物料理だったね」
紘一は、辰顕の、思い出の味、という言葉の裏の寂しさを受け取りつつも、心底驚いて、言った。
「人に配るくらい伊達巻きを作るって、凄いよね。そんなに卵が?」
「そうそう。あと、魚の擂り身と、砂糖が沢山入っているの。美味しいよ」
贅沢ぅ、と言って、紘一は、辰顕の説明に、目を丸くした。
「何か、今の言い方、周みたいだな」
綜一が、クスッと笑った。
辰顕も、移ったのかもしれないよ、と言って笑った。
そうかも、と言って、紘一も笑った。
「其れで、清水本家は、如何して、そんなに御金持ちなの?」
「よく分からない。かなりの土地持ちだとは聞いたけど、其の辺りは詳らかにされていないからなぁ」
辰顕の言葉に、綜一が、そうなのか、と言った。
「実のところ俺も、収入減が謎ではあったが。清水衆は全体的に裕福だからな」
「俺も、漏れ聞いた話だからねぇ。結構、各家で、秘密主義みたいなところ、有るでしょ?実方家の事だって、結局俺は、本家後継じゃないから、知らない事も多くて。清水家は、本家も分家も、里の外に、割と土地を持っているらしいから、其処からの収入、って事だと思う。でも、実態は俺も知らない」
「ああ、外に?其れは知らなかったな、俺も。成程、其方に収入源が有るなら、有り得そうな話だな。集落の土地だけでは限りが有る」
納得する綜一を他所に、紘一は、更に疑問を深めていた。
―まただ。里の外に親戚が居たり、里の外に土地を持っていたり。隠れ里の人達なのに、其れって、如何いう事?
「繁雪さんとかも、御金持ちなの?」
紘一の問いに、綜一と辰顕は、声を揃えて、割と、と言った。
辰顕が苦笑いして、言った。
「前に、治さんと薫さんがさ、坂元分家の土地屋敷が安かった様な言い方していたけど、信じない方が良いよ。よしおじちゃん喜んじゃって、俺から見てもホクホクだったもの」
「…ああ、そういう事。治さん達の感覚だと、安い値段に感じた、って話か」
紘一が感心していると、兎に角な、と綜一が言った。
「清水衆は教養が有るというか、上品で態度に余裕が有る人が多い。本当の金持ちとは、ああいうものなのだろう。衒らかす必要が無いのだ。豊かな事が当たり前だからな」
「そう言えば、治さんにしても、薫さんにしても、そうだね」
二人共、素直で優しく、責任を年下に押し付けようとはしない。
実験の事にしても、綜一や周二にはさせたくない、と、本心から言えるのは、酷く立派な事だと紘一は思っている。
そういう時に品性というか、人間性が出るのであろう。
そして恐らく、清水の双子は、自分達が他人より優れていて金持ちだ、などとは思っておるまい。
「そういう品の良さが鼻につく、という手合いも居る様だが…まぁ、傍に居ると自身の卑しさが恥ずかしくなる事の裏返しなのかもしれん。結核を出した家だと、一番清水本家の悪口を言っていたのは、他ならぬ吉野の伯父だ。亡くなったのは伯父の妹の絹其の人だったというのに」
綜一の言い方に、紘一は、清水本家の品の良さが鼻につく手合い、というのは吉野本家当保親なのであろう事を察した。
―成程、此れは根深い。そんな伯父さんだから、庇いたくも無いくらい嫌いなのかも。
聞き取り調査では本田殿の伊達巻というのが実在したらしいですが、資料を確認できませんでした。
お金持ちだったのに、武士身分が無くなって没落し、土地を切り売りするしかなくなった、佐藤殿の切売、
男性と逃げてしまった、テイという女性から、女性が身持ちの堅くない事をすると「どしたもんなおテイさん」と言って揶揄う、等、資料では確認出来なかった話が他にも有ります。
非常に狭い地域での、過去の言葉なのでしょう。
書き留めておく事で、少しでも残れば、と思います。
本田家も佐藤家も、薩摩藩の家老職だったそうです。




