昭和二十年 八月七日 実方辰顕 可分
浴衣姿の辰顕が、午後、病室で、自分の寝台に腰掛けながら、同じく浴衣姿の紘と向かい合い、一緒に独逸語の話をしていると、珍しく、夜でも無いのに綜がやって来た。
紘が、綜に声を掛けた。
「綜ちゃん」
「邪魔か」
ううん、と言って、紘は、自分の座っている寝台を示した。
綜は、紘に礼を言うと、紘の隣に腰掛けた。
替えたての白い掛布が、カサリと乾燥した音を立てた。
辰顕は何時も、其れを何と無く、清潔な音と感じる。
そして、紘は火熨斗を掛けるのが案外上手い。
今日の掛布は、辰顕が紘と一緒に火熨斗を掛けた物である。
そんな小さな事が、もう日常になっていて、そろそろ此の日々が終わる事が、辰顕には信じられないでいる。
窓を開けていると、風が少し強く、今日は比較的涼しく感じた。
綜の灰色の浴衣が風で少し揺れる。
「何と無く今、仮眠室に居るのが悪くて。此処に暫く居させてくれないか。…周が、荷造りをしている」
「ああ」
紘が、納得した様に、相槌を打った。
確かに、と辰顕は思った。
―急に軍に行かなくて良くなったから、手持ち無沙汰だろうしね。時間が出来たからって瑠璃さんに会いに行くわけにはいかないし、何時も一緒に居た弟と一緒に居辛いとなれば、俺の立場でも、此処に来るだろうな。
紘が、そう言えば、と言った。
「昨日、治さんと薫さんが、ちょっと実験の話をしていたけど、結局周ちゃんって、里が正式に従軍していない事も、実験の内容も、詳しくは知らないよね?」
そうだと思う、と綜は言った。
「いや、まぁ、其の、里が正式に従軍していないという話も、俺が言っているだけだし、あいつが色々知る前に、実験自体中止になってしまったが。…ただ、やはり、と思う事が有る。先生は、解散及び職務続行の通達を受けた、と言っていらした。実際、軍医二人と郵便兵は職務を続行しているが…普通は、そうしたものでは無いのか?違う場所で従軍するわけだ。其れが、解散後仕事が無いとなると、復員と変わらない気がする。此の時期に、そんな事が有るだろうか?やはり、中止になった事で、逆に、従軍していたとしても、先生達だけだったのではないか、という疑念が強くなっただけなのだが…」
―綜ちゃんも、そう思うよね。…そろそろ、他にも気付く人が出てきそう。
分からんものだな、と綜は言った。
「周が実験をしなくて済む事を、羨ましく思った事も有るが、反面、あいつには、何も汚い事は教えたくない様な気もして。我ながら矛盾していると思うが」
綜は、遠い目をして、窓の方を見た。
何故か、涼風に攫われてしまうのではないか、と思うくらい、辰顕の目には、綜が再び儚く見えた。
窓からの陽光を受けて、淡く色を変える綜の瞳を見て、辰顕は、何と無く、微笑みながら消えたアン・シャーリーの幻影を思い出した。
体術も強く、逞しい部類に入る幼馴染だというのに、時に、此れ程までに儚く見えるのは、単に優れた容貌のせいなのか。
其れとも、双子の片割れとの別れが、ただ寂しさで、目の前の人間を満たすからなのか。
辰顕には判断が付かず、ただ、何と無く不穏な、落ち着かないものを感じた。
綜は続ける。其の内容は常より素直で正直だった。
「如何も、外界と殆ど三年隔離されていたせいで、年の近い人間と集団で過ごす機会を与えられなかった為か、年齢の割に言動が幼し、と感じる弟なのだが、違ったのだろうな。此処を出る事を一人で決められるくらいには大人だった、というわけだ。もう本当に、俺が口出しする事は無いな。あいつは俺と同じ十七で、所帯だって持てる年なのだから。俺の方が勝手に、あいつを子供にしておきたかったのだろうか。あいつには、俺が居ないと、と、心の何処かで思っておきたかったのかな」
「何か、親みたいな事言っているね、綜ちゃん」
紘が、静かに、そう言った。
成程、と綜は言った。
「親か。そうかもしれん。守ってくれる親や大人が居るのと同じくらい、守る者が居る、というのは、安心する事だったのかもしれない。そうやって、守って、守られて、御互いに足りないものを補完し合っていたのかもしれない。でも、もう大丈夫だろう。あいつは、もう大人だ。俺が居なくても大丈夫だ。第一、秋には所帯を持つ身で、何時までも弟と一緒に居られるものでも無い」
「周ちゃんも似た様な事、言っていたよ」
紘が、少し寂しそうに、そう言った。
そうか、と綜が言った。
「…相手から勝手に、あいつは俺が居なくても大丈夫、と決め付けられると、少し気に入らないものなのだな。自分の方は言っておいて何だが」
辰顕と紘が、声を揃えて笑うと、綜も少し笑って、言った。
「大丈夫なのだろうな。離れた事が無いだけだ。元々、俺達は別の人間なのだから」
※わらべろし 幼い。童らしいの転訛。子供らしい、子供っぽい、の意。




