昭和二十年 八月六日 実方辰顕 扇動者
夕方、アッサリ全員軍から戻って来たので、辰顕は、却って怖かった。
俊顕、顕彦、栄、綜が、ゾロゾロと庭にやって来て、其の儘母屋に入っていった。
―今日は帰って来られないかも、って、聞いていたけど、こんなに早く?
未だ夕餉も始まっていないのだった。
そして、清水の双子までもが上座敷に呼び出された。
上座敷に御茶を持って来た初が、神妙な顔をして、言った。
「小さい子達を集めて、囲炉裏端で、先に軽く夕餉を食べさせます。御話の邪魔になりません様に致しますから」
俊顕は、いや、と言った。
「済まないが、ハナも居てくれないかな。出来たら安幾ちゃんも呼んできてほしい」
「はい」
初は、何かを悟ったらしく、正座して、丁寧に一礼すると、上座敷を出て行った。
全員押し黙って、一言も口を利かない。
座敷の空気の重い事といったら無かった。
寝間着から百姓袴に着替えたらしい安幾が、初に付き添われて、青白い顔をして、やって来た。
座る順番は、紘達が来た日の様に、正式な座り方だった。
貴顕達が居らず、代わりに、軍服姿の清水の双子が座っているくらいのものだったが、此れから大事な話が有る、という状況は、其れだけでも充分伝わってくる。
稍あって、上座に居る俊顕が、口を開いた。
「実験は中止になった」
やはり、そうか、と辰顕は思った。
俊顕は続ける。
「再開の目処は立っていない。一応、実験を遣っていたところは一度解散、という事になった。病院に居る兵も、移動させる、との事だ。…何処に、というのは聞いていないが。俺と栄は、軍医として、陸軍病院の方に行く事になるだろう。幸いにして焼けなかったらしい」
解散、と陶冶が復唱した。
そうだ、と俊顕が言った。
「君達も繁雪さんの家に戻っても良いかもしれない。念の為、未だ暫く隠れていた方が良いとは思うが、正式には解散になったのだから、君達に何か遣らせようにも、実験する場所が既に無いからな」
そうですね、と、陶冶の向かいに居た薫陶が言った。
「個人的に気になっているのです。十五日に、一体何が起きるのか。御託宣が当たるのか。未だ紘達と一緒に居たいし、俺は、十六日まで此処に匿って頂いても宜しいでしょうか?」
俺も、と陶冶が言った。
栄が、勿論、と言って頷いた。
「此れから、軍医は忙しくなると思う。帰れない日が続くだろう。男手が二人残ってくれるなら助かるよ」
俺は如何するかな、と顕彦が腕組みをして言った。
「解散及び職務続行の通達だったが、里関係の郵便を確認するくらいしか、もう遣る事が無いよな。最近じゃ其れも少ないし。実験中止となると、俺こそ宙ぶらりんだわ」
「今まで通りで良いのではないでしょうか。俺としては、此の家になるべく居てくださると助かりますけど。小さい子供や、妊婦も居る事ですから」
栄の言葉に、そうだねぇ、と言って、顕彦は溜息をついた。
誠吉と紘が、何かに気付いた顔をした。
辰顕は、其れが気になって、二人の目線の先を追った。
俊顕が、渋い顔をして腕組みをしている。
誠吉が俊顕に尋ねた。
「何か未だ有るのか?」
俊顕が、深呼吸を一つして、答えた。
「どうもなぁ、今日荻平さんから聞いたのだが、此の戦争、勝てる、勝てる、と占い紛いの、御託宣みたいな事をして、軍の上の方に擦り寄っていた奴が里に居るらしい。誰の事なのか、よく分からんがなぁ」
俊顕の口調は、珍しく苛立たしげだった。
俊顕は続ける。
「どうも、病院を建てるという話を引っ張って来たのも、其処が関係している様だなぁ。さぁ、そうなると、如何なる?」
誰も答えられなかったが、誠吉が軽く、そりゃあ、と言った。
「もし負けたら、責任取って殺されるだろうなぁ、其の人は」
そうですね、と紘も言った。
俊顕以外の全員が、驚いて、誠吉と紘を見た。
誠吉は、皆の視線に気付くと、いやぁ、と、おっとりと、当然の事の様に言った。
「元々そういうものなのだよ、巫覡等の行う御託宣とは。戦などというものの結果は大体、勝つか負けるかの二択しかない。そうかと言って、当たっていても、負ける、なんて言う様な、士気を下げる事を言う奴は相手にされない。誰も態々、そんな話を聞きたくないからだ。勝つ、と言って鼓舞し続ける奴でないといけない。勝っているうちは良い。負けたら、そりゃ、御前が勝つと言ったではないか、と、責任を問われる。如何やって責任を取るって、昔は大体、処刑か自決だよ」
俊顕も、そうだな、と言った。
「本来は其のくらいの覚悟で遣らんといかん事だ。さ、誰が遣ったか。もし負けたら誰が責任を取るか」
「責任を如何取るか」
誠吉が、そう言うと、顕彦が頭を抱えて言った。
「勝てば、そりゃ、良いですけどねぇ。実験中止、再開の目処立たず、此の九州の端っこですら、市街地が焼け野原。そろそろ、信じない人が出て来ても仕方ないですね」
「長も今日、俺と一緒に御知りになった様だしな。長が、其れを遣っていないのは確実なのだ。病院の話を引っ張ってきた奴と言えば」
俊顕は其処で言葉を切った。
―八次さんか。…成程ね、軍を懐柔する為に、そんな事で箔を付けたわけだ。
まぁいい、と俊顕は言った。
「勝てば済む話だというのを前提として言うが、不味いのは実験中止だよな。責任を取らされる確率向上、と言うと妙だが、今、焦っている奴等が居ると俺は思う。一人とは限らん。他にも軍に近寄って甘い汁を吸えた奴も居る可能性は有るだろう。もし、そいつ等が責任を取らなければならなくなった時、果たして自分で責任を取れるのか?とも疑問に思っている」
其の通りですね、と栄は言った。
「そんな遣り方だったら、負けるという事を考慮して上に掛け合ってはいないでしょう。もし負けた時の責任の取り方まで考えてはいない。…確かに、詰めが甘い、というか、何処か、其の場凌ぎの間に合わせの様な金の引き出し方ですね。確かに、長は、其の様な知恵の足りない事はなさらないでしょう。…まぁ、勝てば良いわけですが、其れは置いておくとして、誰が如何やって責任を取るか、ですよね」
あ、と言って、紘が青くなった。
誠吉が苦笑いして、紘を見た。
俊顕が、紘を見て、おや、と言った。
「紘、もう思った事を言っても良いぞ」
紘は首を振った。
「誠吉が言っても良いぞ」
誠吉は、俊顕の言葉に、困った様に笑うと、首を振って言った。
「勝てば済むのだろう?」
繰り返される程に、何故か実現される確率が減っていく様に思える、不思議な言葉だ、と辰顕は思った。何と無く、此の場に居る大人の誰も、日本の勝利を信じていないのではないか、という気がした。
あの、と紘が言った。
「もし宜しければ、ですが、吉野本家当主、もしくは八次さんの為人を伺っても?」
俊顕は、ふむ、と言って、右手で鼻を擦った。
「八次さんは忠義者だよ。一応、里全体の事は考えてくれている様だな。長には、本当に能く尽くしている。吉野本家当主保親殿は、何と言うか。油断ならない小物だな」
―表現は酷いけど、一言で言うと大体そんな感じだな。
辰顕は父の言葉に納得した。
俊顕は、保親評を続けた。
「同じ嘘を繰り返し伝えてくる。坂元本家の糺殿が反戦主義である、とかな。適当な、でっち上げだよ。糺殿は里の軍事協力に異を唱えただけだ。曲解だよ。第一、息子の栄は軍医だしな。陸軍衛生少尉の息子家族と仲良く同居っていうのは、反戦主義としては矛盾が無いかね?ちょっと考えれば分かりそうなものだが。しかし、嘘も百回繰り返すと、信じる者が出る。そうして、一部の人に、坂元本家、という共通の敵を作り出して、団結させる。さも、坂元本家が金持ちであり、其れを衒らかしているかの様に言う」
「其れって、うちの伯父の方こそ、という話ですよね。自分が金持ちだ、という自慢を、毎回やってきます」
綜が、呆れた様子で言った。
普段は、双子の気持ちを慮ってか、保親の為人については殆ど語らない俊顕も、今日は双子に配慮する気力も無いらしく、疲れた様に保親評を続けた。
「そうだな。…まぁ、御自身が、そうだから、相手も、そうなのだろう、という思考に至るのか。将又、自分の行為の擦り付けかねぇ。そして、坂元本家が悪い、反戦主義だという大きな嘘を、バンッ、とつく。次に、聞いている者に、考える時間を与えない程、小さい嘘をつき続ける。そして、賢いものは自分の味方になってくれないと知っているのか、感情的に騒ぎ立てる人間を選んで仲間にしていく。金の無い人間に金を撒く様な事をして、そういう、弱いところにも付け込む」
扇動者ですね、と紘が言った。
そうだな、と顕彦が紘に同意した。
辰顕も、そうだよな、と思った。
―本人の頭は、そう回る感じではないけど、坂元本家を追い詰める事については成功している、っていうのは、他人を大勢扇動するのが上手いって事だ。こうなると、吉野本家当主保親、という人自体には、其れ程の実体は無い、という感じがするな。火を煽るのが上手いだけの人。深く考えて其れをやっているか否かも定かではない。火消しはしない。綜ちゃんも言っていた。悪気は無いのかもしれないって。毎回最初は、此処までの事になると思って動いてはいないのかもしれない。…だから、自分の尻拭いは出来ない?…煽るだけ煽って、自分には制御不能になる?
辰顕は、何だか嫌な予感がしたが、黙って、続く俊顕の話を聞いていた。
「大体、坂元の人達は、見た目が良いのも良くなかったな。幼い成子達ですら、あの通りの容姿だし。元々妬まれやすい。そういう人間が虐げられているのを見て喜ぶ下衆も存在する。美しい者が不当に其の立場を得ていて、其れを排除するのが正しい事だと人間を酔わせるならば、排斥という行為を正義の名の元に行う人間には、其れが、勧善懲悪の総天然色映画並みに刺激的なのさ。そうなると、そういう状態に陥った人間は、自分に都合の良い情報しか信じなくなる。幾ら坂元本家が、慈善で高価な着物を下方限に放出した、とか、病院で里に尽くしてくれている、と言っても聞き入れやしない。自分も坂元本家の恩恵に浴しているとは思わないらしい。衒らかされている、と取る」
そう言い終えた俊顕が、辛そうに溜息をついた。
誰も、一言も口を利かない。
稍あって、再び俊顕が口を開いた。
「上方限の、まともな家は殆ど、そんな話を信じちゃいない。病院経営の意味も当然理解しているし、坂元本家の善意に感謝しこそすれ、排斥などという、民度の低い行為に加担したりはしない。だが、失礼ながら『水配』に参加する層と、扇動され易い層が重なりがち、というのが現状で、戸数としては、吉野本家当主を信じる家が、信じていない家より多いわけだ」
綜と周の表情が曇った。
失礼ながら、と前置きされるだけの事は有る、紘に説明する為にされている話にしても酷な内容だった。
そして其れが現実だ、というのも酷である。
―…吉野本家当主の話を信じる様な人間なら、金に釣られ易くて民度が低い人間性だし、下方限の瀬原衆と吉野分家は、そんな家ばかり、と言っている様なものだよね。
伯父が吉野本家当主で、『水配』に参加しているが、糺を敬愛していた双子は、立場も気分も複雑であろう事は想像に難くなかった。
顕彦が、いや、と言った。
「こんな事は、此の御時世、きっと、世界中の色んな場所で行われている。扇動者なんて、何も、此の里だけに存在するわけじゃない」
顕彦が、双子を庇う様に発した其の言葉に、誠吉が静かな声で、但し、と言い添えた。
「扇動者が責任を取るとは限らない」




