昭和二十年 七月二十六日 坂本紘一 上座敷での会話
食事が終わると、子供達は三々五々散って遊び、初と安幾は膳を下げ、大人達と、辰顕と双子は、洋灯が燈された上座敷に残った。
空襲の標的になる事罷りならぬ、と、灯火管制の厳しい折だが、此処には元々電気は通っておらず、こうして毎夜、洋灯の細い灯りで暮らしているのだと言う。
―そうか、一つは、電灯の周りを黒い布で覆わなくて良いから、少し気分が明るくなる気がするのかな?懐かしくて落ち着く感じがする。
紘一も、何と無く、其の儘、上座敷に残った。
「此れ、どうぞ」
顕彦が『家庭用配給 麦酒』と書かれた瓶を静吉に渡した。
「え?こりゃ、配給のだろう?大事に取っておけよ。俺は飲まないから」
恐縮した静吉の言葉に、顕彦は、ええっ、と言った。
「誠吉さんが飲まないなんて。やっぱり信じられませんよ」
俊顕が笑った。
「焼酎は切らしているものでな。濁酒でも作ろうにも、米が勿体無いって、景に怒られるし」
まぁ、麦酒にしとけよ、と、俊顕が言うと、静吉も笑って、首を振った。
「否、本当に、いいのだ。…濁酒って、御前。密造酒か?」
俊顕と静吉が、そう言いながら笑い合うのを見て、顕彦も笑って、瓶を引っ込めた。
―父さん、飲めば良いのに、折角だから。今度何時飲めるか分からないのに。
紘一は、そう思うと悲しかったが、口を出す気は無かった。
食いしん坊で大酒飲みだった父は、もう居ない。
何でも子供三人に回してくれて、道中食べ物を手に入れる為に、新三から貰った大切な時計まで手放して、紘一を守ってくれたのだ。紘一が悲しいのは、其れだけではないが。
顕彦の記憶の中にも、きっと、若い頃の、食いしん坊で大酒飲みの静吉が居る。
瓶を引っ込めた時、一瞬見せた、顕彦の寂しそうな顔に、紘一は、大いに共感した。
栄五も、寂しそうに笑って、其れでは本題に入りましょう、と言った。
「明日、午前中に、父の遺骨を納骨しましょう。十時くらいに集まって、御昼前には御墓に入れられると良いですね。いらしてくださって、本当に良かった。初盆までに御見えにならなかったら、其の時納骨しようか、という話になっていたのです」
「そうか。其れでは、納骨が済んだら西鹿児島駅に向かうよ。東京に残してきた子供達も心配だから」
静吉が、そう言うと、御茶を持って来た初が、まぁ、と言った。
「御早い御発ちです事。せめて明日の御昼くらいは、どうぞ一緒に御召し上がりになってから御発ちになってくださいまし」
栄五も、初に賛同した。
「そうですよ、ちぃ兄。久しぶりに、こうして会えたのだから」
静吉は、紘一の顔を見た。
紘一は頷いた。
静吉は、其れでは、と言った。
「御言葉に甘えて、午後に此処を発つ事にしよう」
栄五も初も、嬉しそうに微笑んだ。
「有難う、栄。えーと、ハナさん?」
礼を言ってから静吉は、何でハナ?と、ボソリと呟いた。
其れを受けて、初は、あらぁ、と言って笑った。
「長女だからです」
「え?」
静吉の目が点になった。
栄五と俊顕、顕彦が、グッと笑いを堪えるのが、紘一には分かった。
双子と辰顕は、キョトン、として、静吉と初の様子を見ていた。
「えーと、長女だと、何故?」
「初端に生まれた女の子だから、ハナと呼ばれています」
其れは答えになっているのかな、と紘一は思ったが、口が挟めない。
「でも、本名は初さんなのですよね?」
「そうです」
「はぁ」
静吉が目をパチクリさせた。
其の場合の受け答えは、はぁ、で良いのだろうか、と紘一は思ったが、初は、特に気にした様子も無ければ、特に説明を付け加えるでもなく、ニコニコしている。
栄五は笑いを堪え過ぎて真っ赤になっている。
此れは凄い、と紘一は思った。
御互い、おっとりした感じで、話が全く進まない。
其れでは、と言って、おっとりと笑うと、初は、御盆を持って去ってしまった。
―其れでは、って、話を切り上げちゃうの?
紘一が、初の去る方向を見て唖然としていると、遂に、栄五と俊顕と顕彦が大笑いをし始めた。
「堪らねぇや。思った通りだ。うちの妹は最高だ」
顕彦は、そう言って、自分の、胡坐を掻いている脚の膝を、自分の掌でバンバン叩いた。
俊顕が、笑い過ぎて出た涙を拭いながら、言った。
「否、うちの妹が、何と無く御前と似ているところが有るから、一度二人を会わせてみたかったのだが。こんなに長い遣り取りで、こんなに内容の無い話をするとは。思ったより相性が良いな」
―あ、やっぱり。
悪い意味で相性が良さそうだ、とは、紘一も思ったのである。
俊顕達にも、そう思われていたらしい。
綜一は表情が変わらないが、辰顕は笑いを噛み殺している様な顔をしていて、周二は、顕彦と一緒に、遠慮無く大笑いしていた。
栄五は、咳き込むまで散々笑ってから、面白い人でしょう、と静吉に言った。
静吉は、目をパチクリさせながら、そうだな、と言った。
此れだから飽きません、と栄五が、さり気無く惚気るのを聞いて、辰顕が、遂に、ブッと吹き出した。
静吉は、皆の様子を見て、おっとりと笑って言った。
「そうか、よく分からんが、栄が楽しそうで良かったよ」
ああ、確かに、静吉と初は、話す速度も同じくらいだな、と、紘一は改めて思った。
よく分からんが、と、静吉本人の疑問が解決していないところがまた、可笑しい。
好奇心は強いが詮索を然程好まない静吉と、説明の足りない初は、今後も、中身が有る様で無い会話を繰り返しそうだ、と紘一は思った。
「此処は明るいな」
静吉は、そう言って、再び、穏やかに微笑んだ。
紘一も、そう思う。洋灯の明かりしかない上座敷だが、此処に居る大人達は明るい。殺伐とした場所から抜けて、やはり、桃源郷とまではいかずとも、かなり良い所にやって来られた気がする、と、紘一は思った。
紘一は、チラリ、と、双子と辰顕の顔を盗み見た。
こうして見ると、側貌が一番美しいのは辰顕だった。鼻から唇、顎にかけての線が、ハッとする程見事だったのである。
周二は唇が美しい。唇が美しい顔、という風に、他人の顔を見た事は此れまで無かったが、兎に角、周二の整った顔の中で、敢えて一番の美点を上げるなら、唇だった。口を大きく開けて笑う、表情豊かな顔の中で、少し赤みがかった唇は、黒目勝ちな瞳と一緒に、実に魅力的に動く。
綜一は、洋灯の光を受けて輝く瞳が、信じられない程美しかった。淡い茶色の瞳は、虹彩の周りが、何故か薄っすらと緑色に見えた。
此れが榛色というものだろうか、と、ボンヤリ見詰めていたら、綜一と目が合ったので、紘一は、あ、ごめんなさい、と言った。
「もしかして、二卵性双生児なのかと思って」
よく分かったね、と言って周二が笑った。
「小さい時は、もっと似ていたの。二卵性かなって言われ始めたのは割と最近だね」
周二の言葉を聞いて、紘一は、思わず、へぇ、という感嘆の声を上げてしまった。
周囲に双子が居なかったせいもあるが、本当に珍しいと思ってしまう。
「母方の祖母が男女の双子だったらしい」
綜一が、ポツリ、と、そう言うのを聞いて、紘一は益々感心して、言った。
「そうですか。其れは確かに、二卵性双生児として遺伝しそうですね」
別に良いよ、敬語は、と言って、周二が笑った。
「辰ちゃんと同学年なら、そんなに年、変わらないじゃない」
綜一も、コクリと頷いた。
少し威厳すら感じてしまう、重厚な雰囲気の有る見掛けに寄らず、其処まで気難しい性格では無いらしい。
紘一は、有難う、と言った。




