昭和二十年 八月五日 実方辰顕 会えない時間
「綜ちゃん、瑠璃さんに会いたくなったりする?」
紘が、小さな声で、自分と同じ寝台に腰掛ける綜に尋ねた。
夕餉と行水の後で、綜と周、辰顕と紘の四人で病室に居るが、未だ清水の双子は来ていない。
辰顕は、自分の寝台の上に居て、おや、と思い、綜の表情に注目した。
綜は、うーん、と言った。
「実は、そういう期待が自分にも有ってだな。そういう甘い話になるものだと思っていた。暫く会えないのだからな?」
え、如何いう事?と紘が言った。
其れがなぁ、と言って、綜は、稍俯き加減になった。
「八月の三日に一緒になる事が決まったのだが、其の晩は吉野の伯父の事が嫌過ぎて、殆ど其方に気が回らなくて。八月四日の昨日は、此処で、あの儘寝入ってしまっていただろう?」
―其の上、昨日は、ハナ子おばちゃんと周ちゃんと抱き合って号泣していたけど、其の辺りを省いて話すのが、実に綜ちゃんらしいよね。
辰顕達は、黙って聞いて、綜の話が着地するのを待っていたが、結論としては、其れは聞く者を困惑させる内容だった。
「今日、八月五日は、手合わせで…其の…殆ど相手の事を思い出さなかった」
紘が、困った様に、小さな声で、うーん、と言った。
綜も、うーん、と言った。
「いや、そうなのだ。其れを認めると、何だか自分が冷たい人間の様な気がしてな。だから、そんな事は無いと言いたいわけだ。会いたいとか寂しいとかいった、甘い話を自分でも期待していた、というのは、そういうわけでな」
如何した事か、綜が言葉を尽くせば尽くす程、甘さが控えめな話になっていく。
―いや、もう既に、しょっぱい話ですらあるな。
周が、困惑しきった顔で、小さく、えー、と言った。
いかんなぁ、と、俯き加減の儘、綜は言った。
「別れの涙とか、伯父への苛立ちの感情の方が強くて。甘い気持ちになる余裕が無いのだろうな」
其れは分かる、と紘が言った。
辰顕も、そういう事か、と思った。
しかし、綜は、珍しく言い訳がましく、自信無さげに続けた。
「だからその、明日が空襲かも、と思うと、其方を心配になって。その、相手方の事は、今問われるまで、その…。いかんなぁ…」
「…甘い話向いていないかもよ、兄上」
周が、気の毒そうに、そう言った。
―いや、綜ちゃん、アッコおばちゃんについては、あれだけ情熱的に語っていたよね?
あまり長く瑠璃に合わないのは良くないかも、と辰顕は思った。
ある程度熱に浮かされた状態を保つには、瑠璃という、生身の若い女性が持つ威力が必要なのだろう。
会えないからこそ会いたくなる、という段階まで気持ちが育っていないなら尚更、という気がした。
「その、前と何か変わった?」
女性と体の関係を持ってみて如何だったか、という含みの有る言葉を、紘がサラッと口にしたので、辰顕は瞠目した。
周も、驚いた顔をして紘を見た。
其れが、と綜が言った。
「何も変わらなかった」
周が、う、と言って眉根を寄せた。
辰顕も、聞かなきゃ良かった、と思った。
夢が無い。
「人間として何か変わったという事も、見た目が変わったという事も無い。何かが、もう少し変わるかと思っていなかったわけでも無かったのだが…」
言い難そうに続けた綜に、紘は軽く、そっかぁ、と言った。
―此の、紘の淡々とした感じ、未だ慣れないから、何度でも吃驚しちゃうな。其れにしても、何だか、また凄い話を聞いたものだな。
周が、もう一度、甘い話向いていないかもよ、と言った。
そんな話をしていると、清水の双子が来た。
読書会の始まりである。
好子が月子と一緒に、槍谷清子の上に飛び乗ってしまったり、好子が緑家に来て一年が経過したり、新しい牧師夫婦、小岩夫妻が赴任してきたり、好子が御菓子作りに失敗して、塗り薬を混ぜてしまったり。
皆、泣いたり笑ったりした。
綜ですら、好子が塗り薬と香料を間違えた話には笑ってしまっていた。
今夜も楽しく終われた、と辰顕は思った。




