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山行かば 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第二章 昭和二十年 八月
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昭和二十年 八月四日 瀬原周二 初の真実

 夕方からは小雨が降って、涼しかった。


 手合わせは、明日の夕方、晴れていたら行う事になった。


 今夜、食事の後、俊顕と、初や安幾も交えて、十六日に発つ(むね)を話す事になった。

 小さい子達が寝てから、という事になったので、夕餉の後は、呼ばれるまで、周二達は病室に控えている事になった。


 銘々、浴衣に着替えて、病室で、ゆっくりしていた。


 ついでなので、周二は、今朝洗って干しておいた、借りた浴衣が乾いたので、辰顕に浴衣を返した。


 呼ばれるまで待機中、という事以外は、普段と、そう変わらない夜だった。


 開いている窓から、サワサワと小雨の降る音がして、静かだった。


 周二は、急だな、と思った。


―何年も、ずっと不安で、心の中に抱えていたけれど、何も状況が変えられなかった事が、いとも簡単に話が進む。誠吉さんと紘の力なのかな?


 しかし、今夜、初に、此処を去る事を話さねばならない、という事を考えると、周二は胸に鈍い痛みを覚えるのだった。


 大好きなのである。


 他人の周二が、こう思い込んでは迷惑かもしれないが、周二には、初は、母にも等しい人なのである。勿論、一緒に寝たり、風呂に入れてもらったり、という様な世話は一度もしてもらった事は無いが、周二にとっては、初は、一番母に近い存在なのだった。


―でも、だからこそ、離れるべき存在だろうな。


 今度、十一月に十八にもなろうというのに、何時(いつ)までも母親の存在を求めているわけにはいかない。

 仮に本当の親だとしても、余程の事が無い限り、周二より先に寿命が来て、避けられない別れが来てしまう存在なのだった。

 そんな、大事な初との別れは、嫌だ、と言うよりは、自分の体と癒着している、血の通っている暖かな何かが、無理矢理引き千切られる様な痛みだった。


 安幾に別れを告げるのも(つら)い。

 おやつ係の安幾ちゃんは、何時(いつ)しか妻となり、母となった。

 周二には姉など居ないし、居ても、おやつなど作ってくれたか分からないが、例えるなら、安幾は、やはり、姉の様な存在、という気がするのだ。

 其の安幾が産む筈の子を、周二は、もう見る事が出来ないのだ。


―寂しい。


 口の中から肺の近くにまで、ベッタリと悲しみが張り付いてくる様な(つら)さがある。

 其の(つら)さは、(こら)えれば(こら)える程、涙として溢れてくるもの、という気がした。


―言いたくないな。


 でも、初や安幾に断りもなく此処を発つ事もまた、周二を苦しめるであろう事は、直感として感じ取っていた。


 変化というものは常に恐ろしいものである。変化の先に、どれ程楽しい事が待っているのだとしても、変化には、往々にして痛みが伴うのだ。其の痛みを恐れるあまり、(つら)い現状を絶えてしまう事も有る程、其れは、未知で、恐ろしいものなのだ。変化は、良い事ばかりでも、悪い事ばかりでも無い。


―別れって、何方なのかな。()(こっ)()(こっ)


 こんなに大事な存在と離れなければならない、と思うのか、そんなに離れ難い存在が出来て幸福だった、と思うのか。


 一つだけハッキリしている事は、ただ、周二が皆との別れに涙するであろう、という事だけだった。




「何だか、急だよなぁ」


 浴衣姿の陶冶が、周二の寝台に一緒に座って、溜息をついて、言った。


「こんなに急な御別れになるとは思わなかった。本だって、()だ途中だろ?()だ先が有るじゃないか」


「ああ、其れじゃ、あと十日くらいを目安にして、一日に決まった章の数だけ進めるのは如何(いかが)ですか?駆け足ですが、最後までは通せますよ」

 紘が、自分の寝台に腰掛けながら、本をパラパラ捲った。


 紘の寝台に座った綜一が、興味深げに、本を覗き込んだ。


 そうするか、と、紘に答える陶冶の声は、少し寂しそうだった。

 清水の双子こそ、もう、戦争が終わるまで此処を出られない、という気がする。


 ねぇ、と周二は声を掛けた。

「治ちゃんと薫ちゃんは、此れから如何(どう)するの?」


 陶冶は、ゆっくりと首を振った。

「此の(まま)俺は、家に戻れるまで、何年でも此処に居る」


 皆、ハッとした顔をして、陶冶を見た。


「何年かかっても家に帰りたい。少しでも家の近くに居たい。迷惑にならない様に、此れからも、なるべく此処で働かせてもらう心算(つもり)だ」


 陶冶は、そう言って、辰顕の寝台に座る薫陶の方を見て、続けた。

「薫、御前は逃げても良いからな。今なら、周と一緒に外に行ける」


 薫陶は首を振って、ハッキリと言った。

「俺は里に帰りたい。里の、上方限(カミホーギリ)で育ったから。あそこ以外で暮らしていける気はしないし、あそこ以外に住みたい所は無い」


 そうか、と陶冶は言った。

「俺達、そうやって暮らしてきたからな。何を遣ってでも帰ろう。帰れるよ、きっと。こんなに近いのだから」


 周二は、父の事を考えた。


 此の三年、一度も会っていない。


―此の(まま)父上に会わずに、此処を出て良いのかな?何の挨拶も無しに。


 自問しても答えが出ない。

 しかし一方で、出ていける、と周二は思う。

 初や綜一を置いて行けるなら、父の事とて、置いて行ける。

 其処に挨拶の有無は関係無い気がする。


―御金を貰えただけで充分。だって、貰えるなんて、思ってもみなかったのに。


 何時(いつ)だって、父が自分にしてくれる事は、父の精一杯なのだ、と周二は思う事にしている。


 父は、皆の(おさ)なのだ。


 双子の父、というだけでは語り尽くせない人なのだった。

 里の者に分けた、残りの愛情を、きっと周二達にも分けてくれているのだ。


 家に帰りたい、と清水の双子が言うのなら、其れが叶います様に、と、周二は心の中で祈った。


 周二は帰れない。


 だからそうして、相手の幸運を祈る事が、周二の精一杯だった。


 扉が三度叩かれて、栄が、病室に、やって来た。皆、立ち上がり、ゾロゾロと栄について、病室を出て、母屋に向かった。




 小さな子供以外の、坂元本家に滞在する一同が、俊顕まで加えて揃った上座敷で、一連の話を聞くと、安幾は、倒れそうな顔をした。


 顕彦が、そっと安幾を支えた。

 安幾は、顔を両手で覆い、シクシクと泣いた。


(こたえ)えるなぁ。


 周二は、俯いて、安幾の啜り泣きを聞いていた。

 既に胃が痛かった。

 安幾の細い体が悲しみに沈んでいる。

 周二は、こんなに、此の、姉とも慕う人を、自分の事で泣かす日が来るとは思わなかった。


 周二は、静まり返った上座敷に響く泣き声に、耳を塞ぎたい様な気持ちになった。


 でも、静かだな、と周二は思った。


 誰も一言も発しないのだ。


 (やや)あって、俊顕が、ハナ?と言った。

 栄も、ハナさん?と言った。


 周二は、不審に思い、そっと、初の顔を見た。


 顔を上げると、怒りと悲しみに、目をギラギラ輝かせて自分を見る、初の顔が有った。


 此れまで周二が見た事も無い表情だった。


 初は憤っていた。恐らく、周二に。


 そんな感情を、初から向けられた事が無い周二は、酷く狼狽えた。


 初は、憤っている。恐らく、周二が自分から離れて行ってしまう事に。


 初は、ボロボロと涙を溢すと、上座敷から駆けて行って、そっと襖を閉めてしまった。


 安幾が、顔を上げて、驚いた顔で、襖の方を見た。


 上座敷は、再び静寂に包まれた。


―嘘だ。


 周二は、今見たものが信じられなかった。


―あんな優しい人が、こんな拗ねた様な事をする筈が無い。でも、如何(どう)して?御別れが言いたいだけなのに。御別れも言わないで離れるなんて、耐えられないのに。


 周二は、吐き気がする程狼狽えた。


 栄が涙して、言った。

「こんな話をすると驚くかもしれないけど。ハナさんはね、(しばら)く、綜と周の為に生きていたのだよ」


 俊顕と顕彦が、ハッとして、栄の方を見た。


 綜一も、唯々、驚いた顔をしている。


 黙って話を聞いている、誠吉と紘の大きな目に、洋灯(ランプ)の光が、ほんのりと映るのが見えた。


「ハナさんは、綜と周の御母さんの、お(ちか)さんの事が大好きだったから」

「…懇意だったとは聞いていますが」

 綜一が、栄の言葉の意図を読みかねた様子で、そう言った。


 栄は、(つら)そうに続けた。

「お周さんが亡くなった時、ハナさんは、お周さんの後を追おうとしていたのさ」


 嘘だろ、と顕彦が言った。


 しかし、顕彦は、何か思い当たった様な顔をして、言った。

「いや、でも、あの頃から変わったよ。もっと子供らしい、悪戯っぽい奴だった。前の(いっ)ちゃんみたいな。年頃になったせいで大人しくなったのだと思っていたが」


 俊顕は涙して、言った。

「知らなかった。あいつが、お(ちか)さんが亡くなった喪失感に苦しんでいたのは知っていたが。そんなに思い詰めていたとは知らなかった。俺は妹の何を見ていたのだろう」


 顕彦も涙した。

「俺も気付かなかった。妹は何時(いつ)も、おっとりしていて、明るくて。でも、ハナちゃんにとっては、死にたいくらい(つら)い事だったのか」


 安幾も、其れを聞いて、更に泣いた。


 栄は、涙を拭いながら、言った。

「巫女というのは孤独だ。修業で失うものも多く有る。お(よし)さんと、お(ちか)さんは、ハナさんと年が近かった。其れが、お(よし)さんは居なくなってしまって、お(ちか)さんは亡くなってしまったのだから…。ハナさんが、どんな気持ちだったか。娘時代は、唯々、虚しかったと言っていたよ」


 綜一が、泣きながら、信じられない、と言った。

「…あんな、綺麗で、優しい人が、そんな、虚しいだけの娘時代を過ごしたと?」


 本当だよ、と栄は言った。


「巫女というのは、当時は、(ほとん)ど外にも出してもらえない存在だった。家族以外の人前に姿を現してはいけないという決まりが有ったのさ。紘が着ていた様な、重い衣装を常に着せられて、家からは出られず、家族と巫女の仲間のみが心の支えで、修業をする。巫女仲間にも、頻繁には会えない。出歩く事自体が禁じられていた。精々、自分の家の庭まで。巫女が自分の家の持ち物の畑の辺りまで出歩いても、禁を犯している、と、酷い事を言われた。そういうものだったのさ。儀式を絶やさない為に、無理を強いられていた存在が、巫女だった。其の生活の支えの仲間が居なくなってしまった。ハナさんには、本当に(つら)い事だった。でも、ハナさんは思い留まってくれた。自分の家族と、其れに、綜と周が居たから」


 周二は、泣く事すら出来ずに、ジッと話に耳を傾けていた。


―そんな…家から出られなかったなんて。畑にさえ行かせてもらえなかったなんて。幽閉されている俺より、外に出られない娘時代を過ごしていた人だったなんて。其れで、友達も居なくなっちゃって…。死にたかったなんて。


 其れは、何時(いつ)も優しく、明るくて、おっとりした初の、周二の知らない過去だった。


「双子の、御節介な小母(おば)さんになるの、と言っていた。きっと元気な男の子になるから、って。だから思い留まってくれた。二人が大きくなるのを見る為に長生きすると決めたと言っていた」


 有難う、と栄は言った。


「無事に生まれてくれて有難う。綜と周が居なかったら、若い娘の棺を二つ見送る事になった。俺は、二人が居てくれなかったら、ハナさんには会えなかったかもしれない」


 そんなにも、と周二は思った。


―そんなにも愛されていたとは知らなかった。そんなにも必要とされていたとは知らなかった。…生まれてくれて有難う、って。


 周二は、自分達の(せい)が、そんなに感謝された(せい)だとは知らなかった。

 初にも、栄にも、そんな風に思われていたとは、考えた事すら無かった。


 栄は、其の優しい顔に伝う涙を手拭いで拭いながら続けた。栄の六尺の浴衣姿は、顔立ちは其れ程似ていないのにも関わらず、今夜は、周二には(ただす)を思い出させた。


「でも、本当の親の手前も有って、ハナさんは、出過ぎない様に気を付けていた。遊びに来た双子が帰ると、時々泣いていたよ。今は、もう、あの人も母親だから、双子が居なくなってしまっても、死んでしまう様な事は無いだろうけど。綜と周は、ある時期、ハナさんの生きている意味其のものだったのさ。だから、許してあげて。あの人らしくない振舞いをしてしまっても。(つら)くて仕方が無いのさ。周が死んだ事にされてしまったのも、双子が里を出なければならなくなってしまったのも、ハナさんには、自分の子供を殺されたくらい(つら)い事だった。…同じ時期に、自分の四人目の子も流れてしまったしね。でも、双子を手元に置けたから、何とか耐えられた。でも、()だ、こんな、何処で焼け死ぬか分からない時に、もし、周が目の前から消えてしまう事が有ったら耐えられない、と言っていた。其れなのに、其の日が近付いて来てしまっている。其れを急に受け入れられないだけだ。賢い人だから、分かっているよ。周の為には、此処を出た方が良い、という事くらい。でも、もう少しだけ、待ってあげて。あの人に、時間をあげて」


 栄は、そう言ってから、立ち上がり、上座敷を出て行った。

 初を追うのであろう。


 綜一が、周二の傍らで、呼吸が出来ているだろうかと心配になるくらい泣きじゃくっている。

 静かに涙する兄は見ても、身も世も無く泣きじゃくる兄を、長い事、周二は見ていなかった。


 周二以外の全員、清水の双子すら、泣いている。


 周二は泣けなかった。鈍い胸の痛みが、ドンドン鋭くなっていく。


 襖が開いた。


 栄に連れられて、泣いてボロボロになった初が戻って来た。


 初は、綜一と周二の前に正座し、小さな声で、取り乱して、ごめんなさい、と言った。

 しかし、初は、やはり、ボロボロと泣きながら、綜一と周二を二人纏めて抱き締め、ひー、という嗚咽を漏らした。


 初は泣きじゃくりながら、言った。

「嫌よ、こんなの。でも、此の子達が死ぬのは、もっと嫌よ。死亡届を出して、里を追い出して。もう充分でしょう。何回殺せば気が済むの、私の」


 初は、其れ以上何も言えない様子で、綜一と周二を抱いて、只管(ひたすら)泣いていた。


 綜一は、初を抱き締め返して泣いている。


 周二も、そっと初を抱き返した。


 百姓袴(モンペ)(ひっ)()め髪だが、()()(うなじ)が美しい。

 小柄である。

 周二の中の初は、大らかで朗らかで、何時(いつ)も美しくて、穏やかだった。


 こんなに小さくて、こんなに激しく、愛情深い人だとは、周二は思わなかった。


 そして、そんな寂しい娘時代を過ごした人だとは思わなかった。


 気付けば、勝手に涙が出ていた周二は、自分の目が、壊れた蛇口になったかの様だと思った。


― 一生のうちに受け取れる愛情が決まっているのなら、此の家に居る事で、俺は、もう一生分貰っている。


 繋がっているよ、という俊顕の言葉が思い出された。


周二が相手を好きだったら、此の家では、相手も周二を大好きになってくれた。

其れは確かに、周二には、何かが繋がっている、としか思えない幸運だった。


(ただす)だけでも、顕彦だけでも、初だけでも無く、俊顕からも、栄からも、そんな愛情深い言葉を掛けてもらえるとは思わなかった。


―此の家の子だ、って。生まれてくれて有難う、って。


 周二は、例え、今日死んでしまったのだとしても、自分は世界一幸福なのだと、今夜なら思えた。

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