昭和二十年 八月三日 坂本紘一 泣き上戸
紘一は、軋む身体を無理矢理起こした。
―体が重い。如何して、此処まで怠いのかな。
空腹だし、如何にかして起き上がりたい、と思うのだが、思う様に体が動かないのだ。
静吉が近寄って来てくれて、起こしてくれたので、紘一は礼を言った。
体中痛むが、特に腰が痛い。
―あ、此れ、筋肉痛?
思い返してみると、午前中は中腰で早稲を刈って、祝いの席では、五貫は有ろうかという衣装を身に付けて舞ったのである。
疲れない筈も無かった。
父に手を引かれて椅子に座ったが、太腿の裏から臀部、腰にかけてが、悲鳴を上げそうなくらい痛かった。
肩と首も重い。
やっとの事で、紘一は口を開いた。
「あの、あれから如何なりましたか?」
掻い摘んで、紘一の眠っていた間の説明を聞きながら、紘一は、つい、炊き込み御飯の握り飯を、ガツガツと頬張ってしまった。
―美味過ぎる。
味噌味に、鶏の脂が効いていて、信じられないくらい美味かった。
生の鶏肉は初めてだったが、甘い生姜醤油で食べる刺身も、信じられないくらい美味かった。
鳥内臓の煮物は、見た目は少々紘一を驚かせたが、やはり美味かった。
「良かった、紘にも食べさせられたな」
顕彦は、微笑んで、鳥内臓の煮物を御裾分けに、繁雪の家に行った話をしてくれた。
曰く、貴顕を一緒に連れて行ったところ、繁雪が喜んで、一ヶ月育てた、大人になりかけの雛をくれたのだそうである。
其れで貴顕は、すっかり繁雪に懐いて、瑛子と一緒に餌をあげて遊んで来てから戻って来たらしい。
今は、瀬原集落に在る実方本家に、大人の鶏とは別に、貴顕が籠に入れてあげて、綺麗な水と、繁雪から貰った菜っ葉を刻んだ物を入れて置いているのだという。
朝の卵取りの時に世話をして、慣れてきたら大人の鶏と一緒にする心算だそうだ。
繁雪曰く、一ヶ月育てたところ、赤い鶏冠が出てきたので、雄らしい、との事らしい。
自分の家にも雛が生まれるかもしれない、という期待から、貴顕は、其れを、ひよこちゃん、と呼んでいるそうである。
自分が化粧を施されていて辛かった時に、そんな和やかな事が有ったとは、と、少し複雑な気分になる紘一である。
しかし、如何やら、其の雄に絡めて、貴顕に色々説明をし、赤ん坊が何処から来るか、という疑問を解決させたらしいので、顕彦は凄い、と紘一は思った。
「一ヶ月も育てたら、もう、そんなに雛らしくないだろうに」
陶冶が、そう言ってクスッと笑った。
薫陶も微笑んでいる。
ひよこちゃんの話題は、皆を和やかにした。
静吉は、ほう、と感心して言った。
「其れにしても顕彦、相変わらず、見事な手腕だな」
栄五も、笑いながら静吉に同意した。
「そうですね、俺の時は牛でしたけど」
何でも、ベブというのは牛の事で、栄五の性教育は、顕彦が担当したらしい。
急な話題に驚いた周二と紘一は、食べ物が喉に痞えてしまい、大騒ぎになった。
「其れで、俺が、六日の空襲が有る、という内容と、十六日に此処を出るように、という内容を、御託宣で?」
薫陶から水を貰い、周二と紘一が落ち着いた頃、巫女舞の話になった。
清水の双子は、紘一が御託宣をした事に対して、とても驚いていた。
静吉は、ふむ、と言った。
「空襲の事は分からん。一応、次は何時か、と空襲の後聞いたら、次は六日の昼、此処は大丈夫だが、六日と九日は此処を出るな、とな。其れと、十五日の夜に、もう一度来る。十六日には此処を出ろ、と言っていた」
紘一は、信じますか?と父に問うた。
静吉は、ふーむ、と言った。
「試しに、六日の昼、準備をして、防空壕の周辺で待ってみても損は無いと思っている。十六日に此処を発つ、というのも、悪くなさそうだ、と。御前の怪我も良くなったし、今日は八月三日だろう?怪我した日から一ヶ月逗留、という話だったが、後十三日後に此処を出る、というのは、別に早過ぎもしないか、とは考えている。此処には、充分過ぎるくらい世話になったからな。八月二十七日まで逗留する必要も無かろう」
「十三日後」
紘一は、そう言って、周二の顔を見た。
周二は、小さく頷いた。
薫陶が、寂しくなるね、と言った。
「折角親しくなれたのに」
そうだなぁ、と言って、陶冶が同意した。
「其れじゃ尚更、今度、手合わせしよう。泳いだり、明るいうちに外で走ったりする様な事は出来なくても、何かは遣ろう。夜からでもさ」
手合わせ?と言って、紘一は、思わず首を傾げた。
周二が明るく言った。
「誠吉さんが見てくださるって」
「そうなんだ」
「如何した、紘、浮かない顔して」
顕彦が、心配そうに、そう言った。
紘一は、いえ、と言った。
「仕事はしたいですけど、体術は、御腹が空くから、あんまり…」
そう、体術は、無駄に御腹が空くだけ、という気がしてしまうのだ。
似た様な理由で、紘一は、喧嘩もあまり好きではない。
だが、紘一が言い終わるやいなや、周二がハッとした顔をした。
紘一が、え?と言って周二の視線の先を見ると、顕彦が泣いていた。
紘一は度肝を抜かれた。
そうだよなぁ、と言って、顕彦は、浴衣の懐から手拭いを取り出して、涙を拭った。
「俺なんかの若い頃は、大立ち回りして、喧嘩自慢、なんて奴も居たけど、今はなぁ。御腹が空いて、そういう事もしたくないかもしれないな、こんな御時世じゃ」
シクシクと泣く顕彦を見て、清水の双子が青褪めた顔をした。
紘一は、慌てて、遣ります、と言った。
「いえ、あの、今日、御馳走食べたし、遣りたいです、遣らせてください」
「…そうかい?でも、紘、無理はするなよ?」
顕彦と紘一の遣り取りを見ていた栄五が、耐えきれない、という風に笑い出した。
―本当に、子供が、ひもじい思いをしているのを知ると、顕彦さん、泣くのか。
紘一は、感心しながら、涙を拭う顕彦を見ていた。
よーし、と静吉は言った。
「明日か明後日にでも如何だ?晴れたら、庭で顕彦も一緒に遣ろう」
「え?俺、相当久しぶりですよ、手合わせなんて」
「体付きを見れば分かるって言っただろう?御前、未だ腕は鈍っていないだろう」
誠吉が、おっとりとした様子で微笑んで、そう言うと、顕彦は青くなった。
涙は止まったらしい。
顕彦は、少し怯えた様子で言った。
「誠吉さんと手合わせするのは嫌ですよ?こっちだって、体格見たら、大体勝敗分かりますからね?」
そんな事を言って、皆でワイワイ言っていると、綜一と辰顕が病室に来た。
黒っぽい浴衣姿の周二は、白装束姿の綜一に駆け寄ると、しがみ付いて泣いた。
綜一は、悲しい顔をして、弟を抱き締め返した。
黒と白の、似た姿の二人の姿が、紘一の目の前で重なった。
紘一の目には、色違いの二つの同じものが、分かち難く重なっている様に思えて、悲しかった。
十三日後には、此の二つが重なる事は、恐らく、二度と無い。




