昭和二十年 八月三日 瀬原周二 物理的排除
周二は涙が止まらなかった。
兎に角、皆で紘を病室に移して、病室の、紘の寝台に寝かせ、浴衣に着替えさせたり、化粧を、出来るだけでも落としてやったりした。
清水の双子と周二は、大人達に着替える様に勧められたので、浴衣に着替えた。
他の皆は、机と椅子を持ち寄って、初が御重に入れて持たせてくれた御馳走を食べていたが、周二は、怖くて、悲しくて、食べ物が喉を通らなかった。
周二は、椅子を持って来て、紘の傍らに座ると、紘の手を握って、ずっと泣いていた。
―怖い。如何して今日、行き成り伯父さんは来たの。俺が隠れているのが見付かっちゃったかな。怖い。如何しよう。紘も、また、巫女さんみたいになっちゃったのかな。十五日、十六日に、何が起きるの?六日は、また空襲なの?分からない。分からない。
周二が、そうやって泣いていると、一通り食事を終えた、糺の浴衣を着た誠吉が、椅子を持って来て、周二の隣に座り、周二の手に、そっと手を置いて、優しい声で言った。
「大丈夫だよ。怖い小父さんが何とかしてくれるから。周も食べなさい」
顕彦と栄が、其れを聞いて吹き出した。
ちょっと誠吉さん、と顕彦は言った。
「怖い小父さんって、そりゃ、うちの父の事ですか?」
「ああ、凄く怖いよなぁ」
誠吉は、おっとりと、そう言うと、顕彦の顔を見て腕組みをし、うんうん、と頷いた。
顕彦は、ゲラゲラ笑って、言った。
「そりゃ、凄く怖いですけど。もう少し言い方有りません?」
「そうか。齢七十でいらっしゃるし、怖い御爺さんの方が良かったかな?」
「うーん、年齢の話じゃ無いのですがね」
顕彦は頑張って笑うのを止めようとしている様子だったが、失敗していた。
栄も耐えきれなくなったらしく、遂にクスクスと笑い始めた。
顕彦が、笑いながら誠吉に問うた。
「其れにしても、もし誠吉さん達が見付かっていて、此処にも吉野本家当主が来たら、如何します?笑い事じゃ無いですけど」
周二は、其の言葉に、ビクリと身を震わせた。
誠吉は、そりゃあ、と言った。
「物理的排除かなぁ。紘が勝てるなら、多分俺でも勝てるな。数を連れて来られると面倒だが、一対一なら、いける」
周二は思わず、え?と言った。
清水の双子も、ポカン、として誠吉を見ている。
顕彦と栄はケラケラ笑った。
こりゃ良いや、と顕彦は言った。
「腕っ節で解決ですか。話が早い。倒して、其の隙に逃げる、と」
「其れ、俺もやってみたいです。確かに、ちぃ兄は勝てますね」
栄は、そう言って、尚も笑った。
「三人までだったら、棒が有ればいけるかな。あまり荒事は好まないが」
誠吉が、おっとりした様子で、穏やかに微笑みながら、そう言うのを、周二は、信じられない気持ちで見ていた。
「荒事は好まないのに、棒で人を倒すって発想がサッと出てくるの、何なのですか?」
顕彦は、そう言って、咳き込みながら笑った。
誠吉は、ニッコリ微笑んで続けた。
「ああ、先ず不意打ちで、一回振り下ろして、一人な?其れから」
「いや、棒の使い方の話じゃ無いのですがね」
顕彦は、そう言いながら、笑い過ぎて既に泣いていた。
誠吉は、顕彦や栄が笑うのを、特に意に介した様子も無く、穏やかな微笑みを湛えて、言った。
「其れにしても、なかなか良い当て身だったなぁ、紘。術と巫女舞は、教えたのは失敗だったかと悩んだ事も有るが、体術は、護身用には良かったな」
誠吉は、そう言うと、眠る紘を見て、微笑んだ。
顕彦が、もう止めてください、御腹痛い、と言って笑った。
良い当て身って、と言って、栄は、泣くまで笑った。
顕彦は、笑い過ぎて出た涙を拭いながら、いやぁ、と言った。
「確かに、十二単の様な衣装を着た人間が、軍服姿の人間の土手腹に一撃食らわすなんて絵は、もう一生見られないでしょうけどね。しかし、幾ら似ているからって、よく考えりゃ分かりそうなものでしょうにね。紘、お富さんどころか、保親殿より背が高いでしょう。流石に、そんな背の高い巫女さん、今まで居なかった筈ですが。あんな長い衣装でなかったら、女物じゃ、袖も何もかも寸足らずだったでしょうよ。暗くて良く見えなかったなら、尚更身長で、男だとは思わなかったのでしょうかね?」
栄も、涙を拭いながら言った。
「お富さんだって、精々五尺ってところでしょうにね」
誠吉は、懐かしそうに微笑んで、言った。
「本人は気にしていたが、二十歳くらいまでは背が伸びて、五尺二寸くらいだったよ。其れでも、やはり、身長で気付きそうなものだよな。あの衣装だから、というのは有るだろうが、思い込みは怖いな。保親殿は、五尺四寸くらいかね」
周二は、泣き止んで、へぇ、と思った。
里の男の平均が、五尺四寸くらいなのである。
紘の母という人は、女性にしては随分長身だったらしい。
安幾も、五尺近いとは思うが、仲は五尺一寸くらいで、里の女性としては長身である。小柄な景や初は、四尺八寸というところだろうか。
―じぃじも、誠吉さんも、栄さんも、六尺は有るものね。確かに強そう。
「俺も勝てますかね」
周二は、紘の手を握っていない方の手で涙を拭い、誠吉に向かって、ポツリと言った。
誠吉は、勿論、と言った。
「勝てるだろう。体を見れば分かるよ。綜も周も強いな。清水さんのところの双子も。今度、体術、見てやろうか」
急に誠吉に声を掛けられて、一瞬驚いた様子だったが、陶冶は、嬉しそうに、はい、と言った。
薫陶も、微笑んで、御願いします、と言った。
「俺…伯父さんって、怖くて、嫌いで。でも、今なら勝てるのかな」
周二の言葉に、誠吉は、そりゃそうだよ、と、明るく請け負ってくれた。
「最後に何時会ったかは知らんが、其の時より、周は大人になったのさ。本当は、もう、自分の方が強いって思えば良い。何も本当に、力比べなんかしなくてもね。相手は老いてきている五尺四寸の人で、周は十七の、五尺七寸だよ。多分あの人は、あの体付きでは、大して強くないよ。客観的に考えて御覧。周の方が強いよ」
そうか、と周二は思った。
― 三年幽閉されていた様なものだけれど、別に時間も三年止まったわけじゃないものね。勝手に一人だけ時間の流れに取り残された気で居たけど、背は伸びたし、俺、前より大人なのか。
如何しても本気で嫌だったら、伯父に立ち向かえるだけの力が、自分には既に存在するらしかった。
周二は、誠吉の指摘で、伯父への恐怖心が和らいだ。
―伯父さんから逃げるだけなら、もう、一人でも出来るのかも。
周二は、何だか、フッと力が抜けて、身体が暖かくなるのを感じた。
さぁ、と誠吉は、優しく言った。
「周も食べなさい。皆で食べられなかったのは残念だが、とても美味しい御馳走だよ」
「はい」
周二が、そっと紘の手を離して、椅子から立ち上がると、誠吉が、自分の座って居た椅子と、周二の座っていた椅子を、食べ物の置いてある机の所まで持って来てくれた。
周二が礼を言うと、誠吉は優しい笑みを向けてくれた。
きっと、周二が安心する様に、御馳走という郷土の言葉を、態々使ってくれたのだ、と思われた。
―本当に、兄上も言っていたけど、吉野の伯父さんとは違い過ぎる。紘を本当の従弟の様に思ってほしい、という事は、誠吉さんを叔父さんみたいに思っても良いって事なのかな。変なの。実の伯父さんより、血が繋がっていない筈の、会って間も無い誠吉さんの方が好きだ。
そして、やはり誠吉の姿は、糺に似ている、と周二は思った。
―如何して、こんなに良くしてくれるのかな。
こういう父親が羨ましい、と周二は本気で思った。
誠吉がしてくれている事を思い出すと、心に何か暖かいものを感じるのだ。
最近母屋に行くと、誠吉が何かしら働いている。
畑の事だったり、大工仕事だったり、子供達を行水させてやったり、囲炉裏端で、子供達の面倒を見たり。
更には、子供達と遊んでくれたり、玩具を作ってくれたりするのだ。
其れは、周二には、働き者で、よく遊んでくれる、強そうな父親の姿に見えた。
―こういう父親も、何処かには居ると思ってはいたけど、本当に居るのか。
忙しくて、偉くて、家の事は下働きに任せている父親くらいしか、殆ど記憶に無い周二だったので、紘を羨ましく感じた。
だが、如何して自分の血縁、特に伯父は、ああなのだろう、と考えるのは、周二は止めた。
初の手料理は、やはり、とても美味しくて、周二は、思い遣りの味だと感じた。
空腹感の割には箸が進まなかったが、其れでも、一口食べる度に、此れは大事な糯米、此れは大事な鶏肉、という気がした。
自分達の為に、祝いの料理を作ってくれる人達が居る、という事が、自分の根幹を支えてくれている気がする。
其の人達から深く愛されている様に、周二には思える。
周二は誰とも離れたくない。
顕彦とも、初とも、誰とも、離れたくないのだ。
周二は、また、少しだけ泣いた。
「紘にも取って置いてやりたいが、起きますかねぇ。炊き込み御飯なら、取っておいても大丈夫かな?」
顕彦が、そう言って、心配そうな目をして紘を見た。
誠吉は、軽く、いやぁ、と言った。
「鶏刺も大丈夫だろ」
誠吉の笑顔に、顕彦は慌てた様子で言った。
「いや、俺は、切って一日経った刺身を紘に食べさせるのは嫌ですよ?そういう事なら、今夜もう火を通してから、取っておいてやりましょう?」
そうか?と、誠吉は、キョトンとした様子で言った。
「日持ちを考えたら、生姜や何かと醤油に漬けておいて、朝、火を通しても良いが。しかし、折角の刺身に火を通すのは勿体無くないか?今日は涼しいし」
いやいやいや、と顕彦は首を振った。
「今、八月ですよ?盛夏に生物一晩放置して御覧なさい、死ななきゃ運が良い、くらいのもんですよ。鶏刺で腹を壊したら、身体の方が勿体無いですって。其れなら、残してやらないで全部食べてしまった方が、まだ親切ってもんです」
焦る顕彦に、誠吉が、でもなぁ、などと言うので、其の遣り取りを見て、栄と清水の双子がクスクス笑って居る。
―紘も不思議だけど、誠吉さんも不思議な人だな、本当に。
周二も笑った。
誠吉が居ると、皆が安心して笑って其処に居られる気がするのだ。
大きな木に寄り掛かっている様な安心感が有る。
誠吉と紘との出会いは、周二には幸福だったと思えてならない。
そうこうしていると、うー、と唸って、紘が起きた。
顕彦が、ホッとした様に、おお、と言った。
※喉 『喉の巣』を意味する方言。喉の奥。喉の通りが悪い時に言う。
※鶏刺 鶏肉の刺身の事。
寸尺法
※四尺八寸 約一四五センチ。
※五尺 約一五〇センチ。
※五尺一寸 約一五三センチ。
※五尺二寸 約一五七センチ。一寸は約三、三センチ。
※五尺四寸 約一六三センチ。
※五尺七寸 約一七五センチ。
※六尺 約一八〇センチ。




