昭和二十年 七月二十六日 坂本紘一 双子との出会い
母屋に玄関から入ると、何と弓射場が在った。
囲炉裏の横に通路が在り、細長い練習場になっているのである。
鴨居の上の長押には槍が二本飾られている。
格子状の欄間。
淡い桃色の壁。
此の色で態々塗らない筈だ、と紘一は思った。
何かの塗料が褪せたのであろうか。
―赤い塗料って?
「…え、もしかして、紅殻の跡?」
「ほう、詳しいの。昔は赤かったらしいぞ。贅沢だな」
忠顕は、ニヤッと笑って紘一の方を見た。紘一は、凄い、と呟いた。
―何、此処。もしかして、凄く良い家なのかな?
両親が、金持ちが多いという上方限の出身だと辰顕に聞いたばかりだったが、兎に角広い家である。
そして、上座敷、と言っていた意味も分かった。
座敷が幾つも在るのである。
囲炉裏端の横を通って上座敷に着くと、大人が五人、子供が四人居て、実に賑やかだった。
それじゃ、と言って、辰顕が、忠顕と一緒に、軍服姿の俊顕の隣に座った。
紘、と、静吉が声を掛けてきて、微笑んだ。
目が少し赤い。紘一が居ない時、静吉が泣いたであろう事は明白だった。紘一は、其れに気付かぬ振りをして、淡い灰色の浴衣を着た静吉の隣に正座した。
何と無く見覚えがある。多分、糺一の浴衣なのだ。鼻の奥が急にツン、として、泣きそうになったので、紘一はコッソリ、鼻から息を吸って深呼吸した。
「では、うちの家族を紹介しましょう」
栄五が、陸軍の軍服の儘、正座して上座に座っている。
紘一と目が合うと、栄五は、目を細めて微笑んでくれた。
「妻の初とはもう会ったかな。ちぃ兄、其の横に居る三人が、うちの子供達です。紘には従姉弟だね」
静吉は、栄五の紹介を聞いて、嬉しそうに目を細めて笑った。
三人の子供達は、狐に抓まれた様な顔をして、そっと此方の様子を伺っている。
多分、初と安幾の反応を見るに、紘一が最後に見た時から今に至っても、糺一と静吉が相当そっくりなのである。
つい此の前亡くなった、知っている人に酷似した人が現れ、其の亡くなった人の浴衣を着て挨拶してきたら不気味かもしれないな、と、紘一は思った。
「上が満十歳。長女の成子。年子で真ん中が満九歳、次女の逸枝。一番下が、長男の了。満六歳です。三人共、里の外の尋常小学校に、六月の空襲までは通わせていました。今は休ませています。さ、御挨拶して」
栄五が、そう言うと、三人は、ペコリと一礼した。
傍らで初がニコニコしていた。
成子は初そっくりだった。しかし、おっとりした初とは違い、キリッとした顔付きをしていた。おかっぱ頭に、白地に藍色の鉄線の花の柄が描かれている浴衣を着せられて、如何にも十歳の少女、という感じだが、其の表情には、既に自分が美しい事に自覚がある様な、強い、誇りの様なものを感じた。
おかっぱ頭に、白地に藍色の撫子柄の浴衣を着た逸枝は、栄五に似て、愛らしい、人形じみた顔をしていた。しかし、穏やかな栄五とは違い、何か、絶対に失礼を働いてはならない、と緊張している様な、硬い表情をしている。
最後に、白と黒の市松模様の柄の浴衣を着せられた、了という男の子の顔を見ると、紘一は思わずクスッと笑ってしまった。
静吉も笑った。
「おや、了君というのは、紘の小さい頃に少し似ているな」
静吉に、そう言われた了は、キョトンとした顔をして、静吉と紘一の顔を交互に見た。
初も、キョトンとした顔をして、あら、そうかしら、と言った。
栄五は、ふふっ、と笑って、言った。
「全体的な雰囲気は似ていますよね。実は口元は、亡くなった義母に似ているのですが」
「宜しく、三人共。初めまして。君達の、御父さんの兄だよ」
静吉が、そう言うと、三人の子供達は、静吉に、初めまして、と口々に言った。
「ほら、従姉弟だぞ、紘」
静吉に、そう言われて、紘一も、初めまして、と言った。
成子は、少しツンとした表情で、子供らしからぬ、美しい微笑みを返してきた。見様によっては、此方を小馬鹿にしている様にも見えるが、其の顔の造作の整い具合のせいか、全く嫌な気分にはならなかった。
逸枝は、心持ち成子の陰に隠れる様な仕草をして、少し怯えた目を向けてきた。人見知りなのかもしれない。
坊主頭の了と目が合うと、紘一は、やはり、思わず微笑みかけてしまった。見れば見る程、紘一の幼少期の写真に何処とは無しに雰囲気が似ている。紘一の微笑みに、了は、オズオズと微笑んだ。其の、はにかんだ、其れ程快活そうでない微笑みにも、紘一は、何となく親近感を感じた。
初の隣に居た忠顕が、再び呵々大笑し、其れ見ろ、と言った。
「似とるだろ、紘と了は」
俊顕は、はぁ、言われてみれば似ておりますかね、と言った。紘一と了が似ているか否かについては、意見が分かれているらしい。
「紘、儂はな、此処にいる子供全員の御祖父様だ。御祖父様と呼んで良いぞ」
忠顕に突然、そう言われた紘一が、眼を瞬かせていると、静吉は笑って言った。
「俺の親友の妹と、俺の弟が一緒になったのだ。其れで、俺の親友の弟は、坂元の娘さんと一緒になったというわけで、ザックリ言うと、此処に居る人は概ね親戚だよ」
ザックリし過ぎてはいまいか、と紘一は思ったが、一先ず紘一は、忠顕に一礼した。
俊顕が辰顕の方を見ながら言った。
「長男の辰顕には、もう会ったな。妻の景と、娘の静と冴は事情が有って此処には居ない。病院の本館で暮らしている。うちも、子供が三人だ」
辰顕が丁寧に礼をしてくる。辰顕の隣に座っていた安幾も礼をする。
静吉と紘一は、安幾に礼を返した。
安幾の隣に座っていた顕彦が、次は、うちですね、と言って微笑むと、其の傍らにいた、如何にも元気そうな男の子がニカッと笑った。
「実方貴顕です。九歳です」
挙手して名乗る貴顕を見て、紘一は思わずプッと吹き出した。顔が顕彦そっくりだったのである。
静吉は、嬉しそうに、ほぉ、と言った。
「ハキハキしていて元気な子だなぁ」
其の静吉の言葉を聞いて、安幾もクスッと笑う。
静吉は、安幾を見て、再び微笑んだ。
「本当に吉雄さんの娘さんと一緒になったのかぁ」
「ああ、そうなのですよ、以前御伝えした通りで」
顕彦が、そう言って笑いながら目を泳がせた。
「誠吉、後で詳しく話してやるよ」
俊顕がニヤニヤして、そう言ったので、静吉は、おや、と言った。
紘一は、二人の結婚の経緯に何か有るのかな、と思ったが、栄五まで笑いを堪えている様子だったので、悪い雰囲気とは思わなかった。寧ろ、此処は何だか随分明るい場所だな、と紘一は思った。
さ、夕餉だ、と忠顕が言うと、初と安幾、其れと、辰顕を含めた五人の子供達が、ゾロゾロと何処かへ行って、箱膳を持ってきた。
そして、上座敷に、コの字に席を設えた。
「悪いが、儂は戻る。誠吉、紘、また明日な」
そう言うと、忠顕は、そそくさと母屋を辞した。
紘一が不思議に思っていると、俊顕が申し訳ない、と言った。
静吉は、気にしないでくれ、と言った。
「女子供だけ家に置いておきたくはないから早めに帰る、と、先程仰っておられたのだ。忠顕殿の御気持ちは尤もだ。何時何時空襲に遭うかと思えば」
「そうなのだ。安全な場所など無いのが現実だよ」
俊顕は、静吉の言葉を受けて、そう言うと、悲しそうに笑った。
「其れに、客人には悪いが、大した食べ物も出せない」
「何を言う。此方こそ、食べ物を分けてもらって悪いくらいだ」
静吉が、そう言うと、栄五が、さぁ、座りましょう、と言った。
俊顕は、そうだな、と言った。
紘一は急に、居心地の悪い気持ちになった。
二人増えた分、此の家の食べ物は減る。此の時期、此れ程心苦しい事も、そう無い。
床の間を背にして上座の真ん中に、栄五と顕彦が座し、其の、其々の弟達の脇に、静吉と俊顕が座ると、紘一は、おや、と思った。
聞けば、実方本家当主は、長男の俊顕ではなく、顕彦が継いだのだそうである。紘一は、此の並びが序列である事に気付いた。
こういうの、苦手だな、と思いながら、紘一は、俊顕に促される儘に、床の間から見て右側から三つ目の席に座した。
此の席だと、紘一の序列は九番目という事になる。
紘一の向かいに辰顕が座る。右側には、了、初、紘一、一つ空席があり、成子。左側は、貴顕、安幾、辰顕、一つの空席、逸枝の順だった。
坂元本家長男の了と、実方本家長男の貴顕の方が、辰顕より上座に居る。
別に何処に座っても良いし、客だからと上座に座るのも疲れそうだが、紘一は、何と無く、実家の卓袱台を懐かしく思い出した。
父と、弟の彰二、妹の由里との四人で丁度良い大きさの、あの円卓。静吉が、昭和の初め、未だ新婚の頃買い求めたとかいう物で、伯父の新三から聞いた話だと、静吉は其の、家族の食事の距離感に憧れていたらしい。今日は何と無く、其の気持ちが、実感として理解出来る、と紘一は思った。
春慶塗と思しき箱膳と塗り箸は、古いが立派で、食事も実に有り難いが、馴染まない感じがする。
栄五が、紘一を気遣う様に声を掛けた。
「紘、堅苦しくて、ごめんね。普段は囲炉裏端でゴチャゴチャ食べていて、上座なんて気にしなくて良いのだけれど、今日は形だけでもね。大した物は無いけれど、御持て成しさせておくれ」
「いえ、充分です。有難うございます」
事実、充分過ぎる程だった。
混ぜ物の無い白米を見るのは久し振りだった。
何かの菜っ葉の味噌汁に、何かの肉の味噌漬けらしき物、何かの酢の物らしき物。
肉だなんて、どれ程の無理をして用意してくれたのだろう、と、紘一は恐縮した。
頂きます、と全員で言ってから、一口、汁に口を付けて、紘一は、其の懐かしい味に驚いた。
麦味噌と鰹の出汁である。
遠い記憶で、母が作ってくれていた物を思い出した。
そう言えば、母が存命だった頃、味噌は自家製だった。父母の出身が此方、というのを、紘一は、今、何よりも強く実感していた。
「猪肉の味噌漬け?何と。懐かしいなぁ」
静吉は、そう言って目を細めた。
「最近、顕彦が獲ったのだ。此処一年は、瀬原衆と一緒に俺達も猟に出るのだ。食べ物が無いからな。氷売りも来なくなって、冷蔵庫も使えないし。大体、塩漬けか味噌漬けだよ。酒が欲しくなるか?」
俊顕が笑って、そう言うと、静吉は首を振った。
―氷売り…?隠れ里に、行商の人が来るって事?
紘一が疑問に思っていると、顕彦が驚いた声を出した。
「え?誠吉さん、飲まないのですか?」
「もう、十年近く、殆ど飲んでいないな。付き合い程度で」
静吉が、そう言うのを聞いて、顕彦は、信じられない、と言う様な表情で、はぁ、と言った。
以前の父を知っていればそう思うであろう、と、紘一は、少し沈んだ気持ちになったが、今は食事に集中しよう、と思った。
あ、美味しい、と紘一が言うと、初と安幾が微笑んだ。
「良かった事。御肉、臭みは取れていて?」
初が、おっとりと、そう言った。
「はい」
「明日からはまた、混ぜ物の御飯に戻ってしまうけれど、今日は御代わりも有るから、沢山召し上がってね」
貴顕は既に、御代わり御代わりと言っている。
紘一は微笑んで、安幾に窘められる貴顕を見ながら、はい、と言った。
「御酢が切れたのに、なかなか手に入らなくて。酸っぱい甘夏を実方分家から頂いたから、酢の物に使ったの。何でも代替品の、嵩増しね」
安幾が、済まなさそうに、そう言いながら、御櫃から、貴顕に御飯を装ってやった。
「否、元々、甘夏で酢の物を作る地域も在るでしょう。あの、もしかして食事は、御二人で作ってくださったのですか?」
静吉が、安幾の言葉を受けて、少し驚いた様に、そう言うので、紘一は、何を驚いているのだろう、と思った。
初は、微笑んで、ええ、と答えた。
「三年前に此処に来るのを機に、下働きを雇うのを止めたのです。下男も、もう居りませんから。何でも自分達で遣っておりますわ」
成程、本来、自分で炊事をする様な立場の女性達では無かったらしい。
伯父の新三の家には御手伝いさんが居るので、伯母の奈穂子は炊事をしない。そういうものか、と紘一は思った。
しかし、下男、という言葉に、少し場の空気が悪くなった事を、静吉が敏感に感じ取った。そして其れを父が感じ取った事を、紘一も察した。静吉は、おっとりしているが、そういう事を察せない人ではない。
紘一は、話題を変えようと、そう言えば、と言った。
「此の空席には此れから、誰か未だ、いらっしゃるのですか?」
貴顕が、そうにいちゃんと、しゅうにいちゃんだよ、と答えた。
「そうにいちゃんと、しゅうにいちゃん?」
静吉が問うと、俊顕が、噂をすれば、と言った。玄関の方で声がするのに、紘一も気付いた。
「辰、出てやってくれないか?」
俊顕が、そう言うと、辰顕は、はい、と言って立ち上がった。
箸の上げ下ろしから、立ち上がる動作まで、先程から所作に無駄が無い。
やっぱり、辰顕も体術をやっているのだろうか、と紘一は思った。紘一も、体術は好きでは無いが、父から教わっているので、長年続けている。弟の彰二も、術は使えないが、体術は教え込まれている。苗の神教に於いて、術と体術の取得は一揃らしいのである。此の辺りでも、男児には教えるものなのかもしれない。
紘一に微笑みかけながら、俊顕が説明してくれた。
「空席に来るのは、長の息子の双子だよ。今、俺が預かっている。年は、辰より一つ上、満十七歳だな。丁度今、やって来たところだ」
其の時、どうもどうもぉ、という明るい声がして、上座敷の襖が、スラリ、と開いた。
紘一は、危うく、手にしていた汁椀を取り落としそうになるくらい驚いた。何が何だか分からない、と思った。
辰顕と一緒にやって来た若者二人が、あまりに麗しいので、一瞬、紘一が理解出来る範疇を超してしまって、ただ、意味が分からない、と思った。
二人は、苗の神教の男性が体術等の時、作業着として着る白装束で、烏帽子を略した白張姿だった。
紘一は、其の二人の秀麗さに、爆撃の跡、焦げた街を幾つも抜けてきて、急に何か、真っ白な物を見た、という様な気分になった。
成程、此の双子を見慣れていては、辰顕が、会う人会う人綺麗だと紘一が言っても、其れ程よく分からない風でいたのも当然である。『綺麗』の最高基準が、此の双子なのかもしれないのだ。
やっぱり此の里は変だ、と思い、紘一は、そっと汁椀を箱膳の上に置いた。
折角有り付いた御馳走を溢しては堪らない。此の、上座が厳格に決まった厳めしい設えだから、がっつかず、幾らか見栄を張って食事に有り付けるが、人目が無かったら、全部手掴みで食べていたかもしれない。其のくらい、此処に来るまでの道中、紘一は飢えていた。絶対、米一粒、汁一滴無駄にしたくない。
其れにしても、双子と紹介されたが、紘一には、二人の見分けが付いた。
かなり似ているが、瓜二つという程では無い。
特に、二人は表情が違う。
陰と陽、という感じである。
陽、明るい方が、え?じぃじ?と言った。陰、と紘一が見た方も、静吉の顔を見て、目を丸くしている。
「ああ、吃驚したか。糺殿に、そっくりであろう?此れは、栄の兄の誠吉だ」
俊顕は、そう言って、ふふっ、と笑った。
「誠吉、此の双子を、糺殿が大層可愛がっていたのだ。紘も、従兄の様なものだと思って、仲良くしてやってくれ」
静吉は、此れは何と、と言った。
「本当に、長そっくりだな。初めまして、坂元誠吉です。此方は、息子の紘」
初めまして、と、陰の方が、無表情で言った。
「瀬原綜一です」
陽の方は、ニコッと笑って、言った。
「瀬原周二です」
静吉は、双子の自己紹介を聞いて、大きな目を見開いた。
「そういちと、しゅう?」
「あ、周二、です」
陽の方が、そう言って、眼を瞬かせながら、静吉の顔を見た。
「そうか、特別な名前を貰ったのだな、君達は。親父が可愛がるわけだ」
静吉が、そう言って、寂しそうに微笑むと、陰の方、綜一は、不思議そうな顔をした。
「わぁ、じぃじと、顔が、そっくりなのに、笑顔」
陽の方、周二が、心底驚いた様に、そう言った。
綜一が、これ、と言って、周二を窘めた。
静吉は、其の遣り取りを見て、ははは、と笑った。
「あの人、ニコリともしなかったからな。可愛がっているなら、子供にくらい笑ってやれば良かったのにね。其れはそうと、長そっくりの顔で、そう笑うのも、なかなか面白いものだな」
紘一は、静吉が、そう言うのを聞いて、長という人は、あまり笑わない人らしい、と思った。
周二が、へへッ、と笑った。
「周って呼ばれています。校庭一周二周の周で、周二。えっと、紘君?宜しく」
麗しい顔に似合わない剽軽な自己紹介だな、と紘一は思ったが、座った儘、丁寧に一礼した。
「えっと。八紘一宇の、紘って書きます。宜しく」
「こっちは兄の綜一。えっと、糸偏だね」
陽の方、周二の説明の足りなさに、陰の方、綜一は、多少困惑した様に、言った。
「…織機の筬、の意味の方の、綜一と書く」
「…ああ、総、でなく。…宜しく」
「さ、双子も辰も、座った、座った。今日は一応、御馳走だ」
俊顕が、そう言うと、双子と辰顕は、はい、と言って席に着いた。
綜一は紘一の隣、周二は辰顕の隣に座った。
初と安幾が、サッと汁椀と飯碗を用意した。
周二は、わ、本当に御馳走、と言った。
紘一は、今ひとつ、其の言葉が聞き取れなかった。
「すみませんね、誠吉さん。今日いらっしゃるって分かっていたら、うちの鶏をつぶしておいたのですが」
顕彦が申し訳なさそうに、そう言った。
―え?『とりをつぶす』?って、何?
如何いう事?と、紘一は、顕彦の顔を二度見した。
意味は判然としなかったが、何と無く、爽やかな顕彦の容貌に不釣り合いな言葉の様に思われたからである。
しかし、静吉は驚きもせず、ニッコリと笑って言った。
「連絡出来る様な状態でも無かったが、何時来るかも分からん客に、そんなに気を遣ってくれるな。充分な御馳走ではないか」
静吉が、敢えて周二の言っていた言葉を使った事に、紘一は気付いた。
―あ、御馳走の事?オゴッソー、って。
「いえ、此の子達がね、此れを御馳走って言うのが、不憫でならんのですよ。育ち盛りでしょう?もっと何か食べさせてやれないかって、何時も思うのですが」
顕彦は、そう言って、悲しそうな顔をした。
「魚の行商も、一ヶ月くらい来やしません。うちは鶏が未だ居るから良い様なもので」
栄五も、済まなさそうに言った。
「牛を育てるのも、三年前に止めてしまって。うちの鶏は先月食べてしまったので、顕彦さんに、何時も卵を頂いているのです」
ベブ?と紘一は思ったが、何か家畜らしい、と察した。
顕彦は、切なそうな顔で、子供達の顔を見渡しながら、言った。
「な、御前達、御馳走って、こんなもんじゃないからな。何時か鶏、食わせてやるからよ」
子供達は、双子も含めて、辰顕以外キョトンとしている。
分からないだろうな、と紘一は思った。
例えば、デパートの洋食。少しずつ御品書き(メニュー)が減っていった。御品書きも、敵性語は良くない、という風潮で、洋名が和名に無理に名称変換されていった辺りから変だったのだが、兎に角、見る間に減っていった。
静吉が材料を入手して、洋天、油揚肉饅頭等々を作ってくれたり、新三が御菓子を入手しようと頑張ってくれたりはしたが、感動したのは紘一と彰二だけで、妹の由里は兄二人を見て、キョトンとしていたのだ。
由里は、就学前から戦争が始まっていたせいか、良い時代を其れ程知らない。
其れ等を食べる時には、痩せこけた体を揺すって大喜びしてはいたが、良い時代を知っている大人達が、子供にも、なるべく良い物を与えよう、という頑張りが、完全には伝わっていない様に紘一には思えた。
誰も悪くないのだ。
此の子達には此れが御馳走だし、紘一にも御馳走である。
其れが悲しいと言う顕彦の気持ちも、此れが御馳走であり、何の不満も無い子供達の気持ちも、何と無く両方分かって、紘一は切なくなった。
しかし、切なくなると同時に、善い大人だな、と、紘一は、顕彦に感謝した。
―此の食糧難に、子供から食べ物を盗るのではなく、与えようというのだから。
紘一とて、静吉が一緒でなければ、此処までの道中、如何なっていたか本当に分からない。
何処も酷い有様で、此処の様では無かった。
※白張姿 神事の雑務などをする時に着られる、白い綿の狩衣と馬乗り袴。黒い麻製の張烏帽子を合わせる。




