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山行かば 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第二章 昭和二十年 八月
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昭和二十年 八月三日 実方辰顕 吉野保親

「刺し殺してやろうかな」


 綜が、憎々しげに、上座敷で、布団で寝かされている吉野(よしの)(やす)(ちか)の枕元に正座しながら呟いた。


 其の隣に胡坐を掻いている忠顕が、止めとけ、と言った。


「やるなら証拠を残すな。今やったら、犯人が御前だと丸分かりではないか。分からん様にやれ。こんなもんに、そんな形で関わって、人生棒に振るな」


 そう言って、忠顕は、ニヤリ、と笑った。


 洋灯(ランプ)の中で、忠顕と綜と辰顕の、垂纓(すいえい)(かん)を略した、白い直衣(のうし)姿が、光を受けて、(ほの)(じろ)く見えた。


 保親の軍服は、薄暗がりの中で、布団に染み込んだ泥水の様に見えた。


 辰顕は、祖父の言葉に苦笑いしながら、盥に入れた水で絞った手拭いを、丁寧に広げて畳んで、保親の額の上に置いた。


 しかし何だか、保親に触れたくない様な気がして、額に触れてしまった指を、盥の水で丁寧に濯ぎ、自分の手拭いで拭いた。


 (もっと)も、と忠顕は言った。

「儂の見立てだと、こいつは、二、三人は殺しておるな」


 綜が、え?と言って、忠顕に聞き返した。


苦参(くらら)というのを知っておるか?(めまい)(ぐさ)ともいう」


 祖父の言葉に、辰顕は、ハッとした。


―御祖父様も御気付きでいらっしゃるのか。


 綜も、あ、と言った。

「最近何処かで聞きました」


「そうか。辰。漢方は不得手では無かろう。後で、綜に説明してやれ」


 綜が、辰顕の顔を見てきた。

 辰顕は、小さな声で、はい、と言った。


 あの後、慌てて清水の双子、周、誠吉と紘、といった、此処に居ると知られては不味い者達を病院へ隠し、念の為、顕彦と栄に見張らせ、俊顕と景とで、小さい子供達を俊顕の家へ移動させたのである。


 全く以て、綜の御祝いどころではなくなった。


 初が、料理を分けて御重に入れ、俊顕と栄に持たせ、其々で食べてもらう事になった。


 保親の介抱を俊顕から命じられた辰顕と、保親と話をする為に、忠顕と綜が残された。


 其の三人と、初と安幾とで、奥座敷にて、軽く祝いの膳を食べた。


 食べ終えてから、初と安幾を奥座敷に隠し、今は、こうして、上座敷で、三人して、保親を見張っている、という次第である。


―ハナ子おばちゃんが、あんなに怒っているの、初めて見たな。


 初は、見たところは普段と変わらないのに、目だけは燃える様にギラギラしていて、口数が少なかった。


 あの、おっとりした叔母を、此処まで怒らせるとは、と思うと、辰顕は、もう、それだけで、保親の事を非常に厄介だと思った。


 翌日、初が無表情で、保親の使っていた布団の表替えと綿の打ち直しをして、(はず)した布団表(ふとんおもて)を丁寧に洗っているのを見て、辰顕は、背筋が凍る程恐ろしい思いをするのだが、其れは、また別の話である。




 うーん、と言う声がした。


 保親が目を覚ましたのである。


 保親は飛び起きて、腹を押さえ、(いて)、と言った。


 紘に、腹に少し痣が出来るくらいの強さで殴られた後、気を失って、其の後、栄にコッソリ薬を使われていたのである。

 だから長い事目覚めなかったわけだが、栄の行動を見て見ぬ振りはしたものの、薬の躊躇(ちゅうちょ)の無い使い方が怖いな、と辰顕は思った。


「あれだ、あの女が居ただろう。巻物は何処だ、何処に在る」


 保親は、誰にとも無く、早口で捲し立てた。


 顎に、グチャッと、何か、潰れた様な、抉られた様な傷がある。


 顔を動かさず、目だけを動かして、誰かを探す素振りをする其の姿は、醜悪、醜怪である。


―心根が顔に現れたのかなぁ。


 目の前の肥えた小柄な男は、何処を如何(どう)見ても、綜や周と血縁の様には思えなかった。

 

 大体、予告も無しに他人の家に乗り込んで来る時点で卑劣である。

 一体、如何(どう)いう心算(つもり)で、そんな事を仕出かしたのであろう。


「あの女、とは?」

 綜は、呆れた様子で保親に問うた。


―あ、演技じゃなくて、本当に呆れているな。


 無理も無い、と辰顕は思った。

 実際、辰顕も呆れていたからである。


 やっと、甥の姿を認識したらしい保親は、ウッと(うめ)いた後、向きになった様に、見苦しく叫んだ。


「坂元本家の娘だ!(みさお)殿の娘だよ!」

「そういう人には会った事は無いですね」


 綜の言葉は本当だった。

 実際は、其の人物は既に鬼籍に入っているのである。


 大変取り乱した様子で、保親は捲し立てた。

「二十年前、巻物を持って逃げた娘だ!あの顔は忘れん」


「…二十年前に娘さんだったのなら、失礼ながら、今は既に娘さんではないかもしれないとは御思いになりませなんだか?」


 綜の言葉に、保親は、ハッとした。


 綜は、呆れた様に続けた。

「もし伯父上が御覧になったのだとしても、よく似た違う人かもしれません」


 其れも本当である。

 実際は、保親は、(みさお)という人の娘ではなく、孫を見たのだ。


 綜は続けた。


「伯父上は、中暑(ちゅうしょ)で御倒れになっていたとの事でしたよ。玄関で前のめりに倒れられて、敷石で腹を打たれたとか。御気を付けください。気温が低いと感じていても、こう、湿度が高いと、御身体に障ります。御加減は如何(いかが)ですか?」


―上手い事腹に出来た痣の言い訳を考えたものだな。


 辰顕が感心して聞いていると、あ、痛い(いて)、と言って、保親は、もう一度腹を押さえた。


「ところで伯父上、何か御用でいらしたのではないのですか?」

 抑えた声だったが、綜の声に、一瞬保、親が怯んだ。


 仏頂面の事が多い綜だが、今日は辰顕から見ても怖い顔だった。

 綜も、かなり腹を立てているので、致し方ない事であろう。


 保親は、ボソッと言った。


「御前の結婚相手が決まったと聞いたものでな。病院別館の御前の所にまで、一言物申しに来たのだ。すると、向かう途中で、此処で楽が聞こえて。ん?…御前、近い建物とはいえ今時分、何故此の坂元本家に()るのだ?実方家で御世話になっておるのであろう?」


―建前は、うちの父さんに預けている事にはなっているけれど、実質は坂元本家で食事して、畑の手伝いまでしているからなぁ。此れは言えないよな。


 綜は、保親の問いには答えず、低い声で言った。

「…()だ公表していないのに、何故御存知なのです?俺の結婚の話を」


 保親は、苛立ちを隠そうとする、抑えた綜の声に、再び、ウッ、と言った。


 其れに、と綜は付け加えた。

「物申しとは穏やかでは御座いませんね。『水配(ミックバイ)』に物申すとは、(おさ)への物申し。何か不都合でも御座いましたか?」


「大有りだ。御前、(おさ)の息子だろう、今すぐ(おさ)に進言して、『水配(ミックバイ)』の相手を取り消して頂くのだ」


「…は?」

 綜が、素っ頓狂な声を出した。


 保親は、綜に食って掛かった。

「よりによって、補佐の荻平の娘に決まるとは。そろそろ、うちの娘を嫁に、と思っていたのに。儂に一言の断りもなく」


 勝手な事を、と、辰顕は呆れた。


 綜も呆れ顔で、言った。

「…そういう事はですね、三年くらい前に御相談頂きたかったですね。こうして御話するのも、随分と久しぶりでは御座いませんか?其れを、急に縁談の御話をされようとは」


 保親は、グッ、と言って黙った。


―甥二人の事、散々邪険にしていたよね?此の三年、そりゃ、身の回りの世話は坂元本家がしている様なものだけど、建前上は実方家の病院別館に預けっぱなしで、実験の時に甥と会っても、ろくに話もしなかったって聞いていたけど。そんな伯父さんが、勝手に甥の結婚相手を決めていた、っていうのも、妙な話だよねぇ。此の三年、うちの親に挨拶しに来た事すら無いし。


 保親の、あまりに身勝手な言い分に、辰顕は呆れが宙返りした。


 第一、と綜は言った。

「伯父上も参加されているのですから、御分りでしょう。従兄妹婚(いとここん)は『水配(ミックバイ)』では禁忌。血が近過ぎます。父とて納得致しますまい」


「其れはそうだが、俺の進言は聞き入れられないであろう。だからと言って、むざむざ、荻平の権力が強くなるのを、指を加えて見ていられるか。せめて御前が荻平の娘を断れ。うちの娘と先に懇意になれば、(おさ)とて考えを変えるかもしれん」


「成程、俺が(おさ)になった時に、(ヨメジョ)の実家が(おさ)()す事に口出しして来ると困る、という事ですね」


 保親は、再び、グッ、と言った。


 其れは、妹が(おさ)に嫁いだ保親が、今まで散々してきた事なのである。


―綜ちゃんに代替わりした時に、其れを他人に遣られるのが嫌なのか。しかも、(おさ)には聞いてもらえなさそうだから、綜ちゃんに言って来ているって事か。流石に、(おさ)は怖いのかな。…其れにしても、今、自分の娘と懇意になれとか言った?荻平さんの娘さんとの結婚を防ぐにしても、あんまりにも考え無しというか、姑息じゃない?


 浅はかで小物染みた考えだ、と辰顕は思った。


 綜は、まぁ宜しいでしょう、と言った。

()(かく)、もう『水配(ミックバイ)』の相手は決まってしまったので、例え息子の俺からでも、物申しは、(おさ)の決定への不服申し立てという事になります。以降は、父を通して頂けると、有難く存じます。俺からは何とも」


 保親は、むぅ、と、悔しそうに言った。


 綜の方から(おさ)に瑠璃との事を頼んだとは知らないのか、と辰顕は思った。


―其れにしても、一体何処から綜ちゃんと瑠璃さんの話を聞き付けてきたのかな?


 其れで?と綜は言った。

「今日は、俺に会いに来てくださった、という事でしょうか」


「ああ、そうだ。そうしたら、病院別館に向かう途中、美しい楽が聞こえて来てな。此れは、と思い、中を覗き見たら、あの女が居た。あれは巫女舞だろう!あの女は、やはり、秘伝の巻物を持って隠れていたのだ。あの女さえ里に戻れば、儀式は復活する」


 綜は、しれっと、何かと御間違えでは?と言った。

「先程も申しました通り、伯父上は、中暑で、玄関に倒れていらしたのです」


「あれが何かの間違いだと!儂は確かに、あの女の腕を掴んだのだ!」

「掴んで、其れから如何(いかが)なされたのです?」

「…あれ?」


 其処で記憶が途切れているらしい。

 無理も無い、と辰顕は思った。


「御久し振りですなぁ、保親殿」

「あ…忠顕殿?」


 流石の保親も、忠顕は怖いと見えて、布団の上に正座し、御久しゅうございます、と言って、丁寧に一礼した。辰顕は益々、呆れた。


―引退したとはいえ、(さき)の実方本家当主に気付かないくらい他人の家で捲し立てて、今の今まで挨拶もしないとはね。実方家に甥を預けているというのに、能々、不躾な男だな。其れに小物。長いものには巻かれるのか。


 辰顕の知る限り、顕彦に対しては、こうではない。

 若輩者として見下しているのだ。


―能々、卑しい男だ。


 辰顕は、保親に、更に強い嫌悪感を抱いた。


「保親殿、此方は孫の辰顕です。辰、御挨拶を」

「実方分家当主、俊顕が長子(ちょうし)、辰顕と申します」


 辰顕が丁寧に一礼すると、保親も、は、と言って一礼してきた。

「いや、これは、これは、御丁寧に。大きゅうなられて」


―うわ、御祖父様に紹介されたら、こんなに丁寧に接して来るのか。


 今日此の日まで、自分の存在を認識されているのか怪しいくらい、保親に、物も言われた事が無かった辰顕は、嫌悪感で鳥肌が立った。


 忠顕は、にこやかに言った。


「普段は、うちの俊顕が、実方家の病院別館で甥御殿を預かってはおりますが、御存知かとは存じますが、うちの長女を、此方、坂元本家現当主に嫁がせておりまして。此の度、乏しい食料からでは御座いますが、此処の座敷を借りて、甥御殿の祝いの食事を、と思い、祝いの席を一席設けさせていただいた次第で。あの病院別館で祝い事、というのも味気無いものですからな。うちが預かっているから、という事で、俊顕と儂に内々に御報告が有ったのですが、(いま)だ公表していないという御話でしたので、祝いも内々で行いました故、御招待も申し上げず、申し訳ございません」


「其の様な。うちの甥の為に、其の様な席を用意して頂き、御心遣い痛み入ります」

 保親は、惨めったらしく平身低頭した。


―其の祝いの席を滅茶苦茶にしたのは、あんただ。


 辰顕は、保親に対する怒りが、沸々と沸き上がってきて、泣きそうになった。


 忠顕の、乏しい食料から、という言葉が、辰顕の胸に、グサリと突き刺さった。


―そうだよ、食べ物は乏しいよ。其れを掻き集めて。ひこじぃが大事な鶏を、つぶしてくれて。ハナ子おばちゃんが、とっておきの糯米(もちごめ)を出してくれて。紘だって、態々、あんな、巫女舞なんて事をしたのは、綜ちゃんの為で。皆が、綜ちゃんの為に、綜ちゃんを喜ばせようとして。其れを、此の男は、家に乗り込んできて、ぶち壊した。


 泣いてはいけない、と辰顕は思った。


―悔しいのは俺だけじゃない筈だ。もっと悔しいのは、綜ちゃんで、周ちゃんで、ハナ子おばちゃんで。其れに、本家当主なのにも関わらず、家に乗り込まれて顔を潰された栄殿で。こいつに挨拶一つされない、父さんで、ひこじぃで。


 其処まで考えて、辰顕は、ハッとした。


―そして…楽を中断されて顔を潰された、伶人の家、実方本家の前当主。…御祖父様だ。


 其れに思い至って、辰顕は、ふと、忠顕の顔を見た。にこやかにしては居るが、何時(いつ)もの様に豪快に呵々大笑したりはせず、物凄い威圧感を感じる。


 辰顕は息を飲んだ。


―御祖父様…怖い。


 ふと見ると、綜も、青い顔をして、忠顕の顔を見ている。


 忠顕は淀み無く続ける。


折角(せっかく)の祝い事ですからな。全員正装させて、当方、実方本家の者を集めて、楽を奏しておりました。美しい楽、と仰って頂けましたのは、其の事で御座いましょうかな」


「は。誠に、うちの甥の為に、其の様な御心遣いを頂き、誠に有難う御座います」

 保親は、敷布団に()り込むのではないかと思うくらい、頭を低くして、土下座した。


 忠顕は、妙な御話ですなぁ、と、楽しげに言った。


「先程の御話が本当ですと、何ですかな。吉野本家の当主ともあろう御方が、演奏中に、あろう事か、挨拶もせずに、他人の家を覗き見た挙げ句、あろう事か、坂元本家当主の住まいに、物も言わずに乗り込み、中に居た女人(にょにん)の腕を、行き成り掴む、という狼藉を働いた事になりますが…」


 保親は、顔を上げると、ひゅっ、という謎の声を出した。


 実際は、(まさ)に其の狼藉を働いたのだった。


 辰顕には、忠顕の楽しげな言葉が、何をしてくれた此の小童(こわっぱ)、と聞こえた。


 忠顕は、何と無く、念を押すような声音で言った。

「何かの御間違いでは御座いませんかな?」


 間違いという事にしてやるから此れ以上儂の顔を潰すな、儂に挨拶もせずに、という風に、辰顕には聞こえた。

 

 しかし、忠顕の表情は、一貫して、にこやかだった。


―しかし其れでも、此の迫力。


 どだい、保親とは器が違う様だ、と辰顕は思った。


「はぁ、そうですね。夢でも見たのでしょうか」

 保親が、ダラダラと脂汗を流しながら、そう言った。


 辰顕は、生理的嫌悪感で、思わず口元を押さえた。


―うーん、失礼ながら此れは、蝦蟇(がま)の油。


 汗というよりは、蛙の分泌物、という感じがするのである。

 蝦蟇の油なら薬だが、何だか、あの汗が染み込んでいるかと思うと、保親の使った布団にすら、触れるのも嫌だ、という気がしてしまう辰顕だった。


 実際、保親の軍服の裾は雨で湿っていて、清潔感は元々無かった。


―いや、蟇蛙(ワクド)の中に居たら美男子かも?


 辰顕は、明後日の事を考えて、自分の気を逸らそうと努力したが、如何(どう)しても生理的嫌悪感が先に立ち、目の前の人間の汗が汚らしく思えて仕方が無かった。


「御疲れなのでは御座いませんか?玄関で倒れておりましたところを、此の孫に介抱させまして。申し訳ございませんが、生憎(あいにく)軍医は二人共不在で。さ、水を一杯、如何(いかが)ですかな?」


 笑顔の忠顕から、保親は、震える手で、水の入った湯呑を受け取った。

「恐縮です。いや、ぬめっごあんどんなぁ」


 動揺してか、行き成り訛り始めた保親が、一気に水を(あお)った。

 既に体裁を整えるだけの気力も無さそうな程、多量に発汗している。


「其れでは、もう暗いですからな。儂と孫とで、御自宅まで御送り致しましょう。申し訳ございませんが、甥御殿は、楽器の片付けに御借り致しますぞ」


 辰顕には、もう綜とは今日は口を利かさんから帰れ、という風に聞こえた。


「いえいえ、滅相も御座いません。介抱までしていただいて、此の上、実方本家の前当主に、此の様な足元の悪い中、自宅まで送って頂くわけには参りませぬ」


 慌てて立ち上がった保親に対し、綜は正座の(まま)()だ火を点けていない提灯を両手で手渡した。

「では伯父上、此方を御持ちください」


 受け取った保親は、首を傾げながら、玄関に向かった。

「何だ?うちの提灯ではないな?」


 上座敷から素早く、滑る様に下座敷の入り口まで移動した忠顕が、襖を開けた。


 保親と綜、辰顕は、忠顕に続いて下座敷を出て、玄関に向かった。


 玄関の三和土(たたき)に、提灯の焼け残りが在るのを、忠顕が指差した。


「御持ちになった提灯は、中で蝋燭が倒れて、燃えておりました。此れは実方本家の物ですが、差し上げます。危うく火事になるところで御座いましたなぁ」


 実際、危なかったのである。


 玄関に傘と提灯を適当に置いて、家の者に声を掛けずに勝手に中に入ってきた、という事が、此の状況一つ取っても分かろうというものだが、発見時には其れがメラメラと燃えていたのだ。


 傍らには傘が投げ出してあった。

 危うく傘も燃えるところだった。


 誠吉が慌てず騒がず消火してくれたが、実際保親が働いた狼藉には、小火(ぼや)騒ぎまでが加わっているのだ。


 保親は、自分の仕出かした事の重大さに気付いたのか、ヒッ、と言った。


―吉野本家当主の不手際で、坂元本家が火事、か。


 言い触らしてやりたいくらいの内容だったが、()(かく)今日は帰ってほしい、と辰顕は強く思った。


「申し訳ありません、あの」


「御気になさらず。中暑で御倒れになっていたのですぞ。御身体(おからだ)の御心配こそすれ、其の様な。うちの婿も其れは了承済みで御座います」


 御前は中暑で倒れていたから何も見ていない、良いか火付け野郎、俺の娘の嫁ぎ先で小火騒ぎを起こしてからに、という風に、念を押している様に、辰顕には聞こえた。


「いえ、其れでは、此れにて。あの、今後とも、甥を、その」


「はい、しっかりと御預かりする様、俊顕にも伝えます故」


 だから帰れ、という風に、辰顕には聞こえた。


 保親は恐縮した。


「ははー。此方(こちら)、未熟不鍛錬ものに御座いますれば、あの。今後とも、その。篤く御礼申し上げ奉ります」


 もう、丁寧に言おうとして、(ほとん)ど意味を成さない言葉を言っている様子だった。


 保親は、オタオタと軍靴を履くと、綜から渡された自分の傘を手に取り、提灯の火も着けぬ(まま)、逃げる様に帰った。


 忠顕は、玄関先で踏ん反り返って、ふん、と鼻を鳴らした。

「日本語が不自由なのかのぉ。何を言っておるのかサッパリだわ」


 辰顕は、祖父が、保親が見たものを誤魔化し(おお)せたのを目の当たりにして、近寄って拍手し、忠顕を讃えた。


「御祖父様、凄い。追っ払ってしまわれましたね」


「あんな、最近生まれた様な奴には負けん」

 忠顕はニヤリと笑って、そう言った。


 七十歳が言うと説得力が有るな、と辰顕は思った。


 綜が、三和土(たたき)(たたず)み、疲れ果てた顔で謝った。


「忠顕殿、伯父が、大変な失礼を。何と申し上げたら宜しいやら」


 しかし、忠顕は、実に軽く、何の、と言った。

「あんなもん、御前も伯父だとは思っとらんのだろ。ありゃ、伯父という名前の他人だ。他人なら()だ良いが、もしかしたら極悪人かもしれんぞ。御前が謝罪して、尻拭いしてやる必要は無い。此れから先も、な。其れより、叫んで良いぞ。何で御前の娘と一緒にならんといかんのだ、勝手に決めるな、ってな」


 綜は、ブンブンと、首を縦に振る様にして頷いた。

「其れ。其れです。其れを、とても、言いたい、です」


 腹に据えかねていた内容をピタリと言い当てられたと見えて、綜は、何時(いつ)になく熱く言った。


「…でも、夜なので叫ばないでおきます」


―あ、其処は綜ちゃんらしいな。…偉いけど、発散が下手だよね。


 こんな時まで生真面目な幼馴染の気質を、辰顕が少し気の毒に思っていると、忠顕が、(ようや)()()もの様に呵々大笑して、言った。


「さ、二人共、周の所に行ってやれ。可哀想に、ありゃ怖かったろう。儂も家に帰る」

中暑(ちゅうしょ) 暑気あたり。熱中症とも。

蟇蛙(ワクド) ガマガエルの異称、(ひき)(がえる)を意味する九州方言。

※ぬめっごあんどんなぁ 蒸しますね、の意。(ぬる)い、から、暖かい、(ぬく)い、時に使う様になったと思われる、暑い時に相手を気遣って言う、挨拶に近い慣用句。

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