昭和二十年 八月三日 顕現
奥座敷での支度が終わった紘一は、景から榊の枝を渡され、囲炉裏端に通された。
長い着物の裾を、景と安幾が両側から持って歩いてくれている。
其処から玄関側に向かうと、下座敷である。
下座敷から、次の間、上座敷の三部屋を見ると、全ての襖が取り除かれていて、だだっ広い、一つの空間になっていた。
上座敷では、女性は全員普段着だったが、男性は全員、子供の貴顕と了まで残らず白い直衣と白い指貫袴を着ていた。
綜一と周二も、陶冶と薫陶も居る。
此の暑いのに、白装束の者達は全員、無紋の垂纓冠まで被っている。
本格的な正装だった。
実方衆は、下座敷から入った紘一から見て右側に、他の者は左側に並んで座っている。
紘一から離れた景と安幾も、左側に正座した。
料理を終えたらしき初も、襷を取りながら、遅れてやって来たが、床に置かれていた鼓を手に持って、右側に座った。
忠顕と俊顕は横笛、辰顕は縦笛、顕彦と貴顕は、三味線の様な楽器を持っている。
外に向かっての戸は全て閉ざされていて、光源は、部屋の隅の彼方此方に置かれた、古風な蝋燭台のみ。
此れぐらいの明るさで良い、と紘一は思った。
―空間としては、此の、玄関側、下座敷から、次の間を使って踊れば良いのかな。
誰からも、何の指示も無いので、紘一は、其の様に思考を巡らせた。
踊るには、衣装が重いな、と紘一は思った。
―五貫は有るかも。袖や裾が長いから、骨格は誤魔化せているけど、此れで踊るとはね。絶対踊り難い。付け毛も長いし。暑い。
こんな、十二単の様な、長くてゾロゾロした女性の着物は嫌だ、と思っていた紘一だったが、此れは、なかなか如何して力仕事である。
巫女が修行をしていた、というのは、一つは、此の力仕事が有ったからではないか、などと、紘一は推察した。
―別に馬鹿にしていた心算は無いけど、此の重さに耐えて、舞を全部舞えたら誇れるな。
稍あって、忠顕が笛を吹き始めた。
そして、他の楽器が重なる。初の叩く鼓の音を聞いて、紘一は、此れだ、と思った。
―ああ、知っている。苺の一、人参の二。
とっととっととーとん、とん、ととと、とん。
―三輪車の三、新聞の四。
とんとんとんとん、とーん、とん、ととと、とん。
―御飯の五、蝋燭の六、七面鳥の七、ぶんぶん飛んでくる八。
とととととーとん、とん、ととと、とん。とんとんとんとんとーとん、とんとんとんとんとーとん。
―急須の九、果汁の十。
とんとんとんとんとん、とーん、とととん。
鼓の音が、同じ音を、一定の拍子で叩く。此れが、ずっと繰り返されるのだ。
― 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。
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天吹の音を途切れさせてはいけない、と、辰顕は頑張った。
しかし、舞う紘から目が離せない。
長い髪。十二単の様な衣装。シャッ、シャッと音が鳴る榊。
薄暗くて顔が殆ど見えないが、少し伏せて半眼にされた目元には、何時もの輝きが無い。
―ああ、紘は、やっぱり、写真で見た、お富さんに似ている。
男なのか、女なのか、若いのか、年を取っているのか、まるで分らない。
此の世ならざる者、という感じがするのだ。
曲が続くにつれ、紘の動きが、次第に軽くなっていく。
体重を感じさせない。
―あんなに重そうな着物なのに。
ふと、紘の動きが止まりかけた。其の瞬間。
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「やはり居たのか!さぁ、巻物を出せ!」
嘘でしょう、と、周二は、息が止まる程驚いた。
紘の腕を掴んでいるのは、軍服姿の、吉野本家当主、吉野保親だった。
―そんな、如何して此処に、吉野の伯父さんが?
綜一が、周二を庇う様にして前に出た。
辰顕が、咄嗟に、上座敷の蝋燭を消して回るのが見えた。
成子と逸枝の悲鳴が響く。
しかし、辰顕が蝋燭を全て消しきる前に、目の前に現れた光景は、周二を、もっと驚かせた。
華やかで美しい女性の姿をした紘が、保親に当て身を食らわせたのである。
あまりの事に、最後の蝋燭を消し損ねた辰顕が、呆然として、紘を見ているのが見えた。
辰顕だけでは無かった。
其の場に居た全員が、失神している保親の傍らに佇む、髪の長い、煌びやかな衣装を着て、榊を握っている紘の姿を見詰めていた。
其の、一本の蝋燭だけに照らされている人物は、誠吉を指差し、地の底から響く様な声で、八月、と言った。
「八月十六日には此処を出ろ。十五日に、また来てやる。其れで終わる」
言い終わると、其の人物は、仰向けに、バタリと倒れた。
誰も動けなかった。
倒れている人物の、其の顔は、遠目から、薄暗がりの中で見ると、性別が分からなかった。
頭の何処かでは、紘だと分かっているのにも関わらず。
※三味線の様な楽器 箱三味線、もしくは板三味線と書く、ゴッタンと呼ばれる郷土楽器。
※五貫 約十九キロ。一貫は三、七五キロ。




