昭和二十年 八月三日 坂本紘一 恋愛事情
紘一は母屋に戻ると、慌てて行水した。
静吉が、腹が膨れてから舞うよりも食事の前に巫女舞を舞っては如何か、という提案をしてきたのである。
そういう事なら、と、身綺麗にせざるを得なくなってしまったのだった。
そして何と、何故か化粧まで施される事になった。
紘一は、個人的に、かなり嫌だったが、こんな事で御礼になるなら、と、耐える事にした。
紘一が行水をした後、初は未だ料理をしていたので、安幾と、やって来た景が、奥座敷で着付けと化粧をしてくれる事になった。
「傷が目立たない様にしてあげますからね、紘ちゃん。そうそう、額を見せて?」
安幾が、紘一に微笑みかけてきた。
額の傷は、早くも、瘡蓋まで取れて、綺麗に治ったのだか、薄っすら傷跡が残ったのである。
紘一は其れを全く気にしていないのだが。
―何で、そんなに楽しそうなのかな。辛いなぁ。
景も、安幾も、雑談をしながら、明らかに嬉しそうに、紘一を着飾らせていた。
夕方になってきたとは言え、未だ少し暑いし、相手が楽しんでいるとなると、余計、辛い。
確か、最初は初も舞うという話だったと思うのだが、ギリギリまで料理をしなければならないし、楽を奏する人間が足りないから、と、初は、忠顕に演奏役に回され、紘一だけで舞う事になったのである。
其れも、紘一には辛い。
其の上、此の二人の雑談というのが、まるで、紘一が居ないかの様に為されており、其の内容も、紘一が聞いていて良いのか迷う様なもので、更に辛い。
針の筵もかくやとばかりの辛さである。
「え?静ちゃん、だから来なかったのですか?」
「そうなのだ。静一人で置いてもおけぬ故、冴も置いて来た次第だ。おテイさんと完三さんに見ていてもらっているが、私も、巫女舞が終わったら帰るよ」
景が目下の安幾に男言葉を使う事に、最初こそ違和感が有った紘一だが、慣れてきた。
其れよりも、話の内容が辛い。
安幾が、微笑みながら言った。
「まー、本当に、綜ちゃんたら、隅に置けないですねぇ。其れに、もう十七だとは思っていたけど、秋には御嫁さんをねぇ」
うわー、うわー、と紘一は焦った。
表情を変えない様にするだけで一苦労である。
曰く、実は静は綜一が好きだったそうで、今日は落ち込んで、部屋から出て来ないらしい。
―俺が聞いても構わない話なのかなぁ、此れ。何だか、静さんに悪いや。綜ちゃんにも。
紘一としては、実は、綜一と年回りの合う女の子、というのを、静か冴という想定でいたのであるが、瑠璃と一緒になるなら、話としては良かった、と思っていたのだった。
だが、こうなると、瑠璃と話が纏まったのは、静にとっては良くなかったのかもしれない。
―でも、静さんは、綜ちゃんが好きだったのかぁ。そうだよね、そりゃ。綜ちゃんの、あの容姿の良さで、誰にも憧れられていないのって、話に無理が有るもの。意外に優しいしさ。懸隔とまでは言わないけど、ぶっきらぼうな態度とキツそうな見た目に反して、中身が優しいって知ったらさ。其れは、瑠璃さんも静さんも、綜ちゃんを好きだよね。
其の点については、納得しこそすれ、意外だとは全く思わない紘一である。
でもやはり、自分が聞いてはいけない話なのではないか、という思いが拭い去れない。
―早く支度が終わらないかなぁ。
紅を引くのは更に辛かった。
化粧を施されると、自分が、かなり母親似である事が分かったのである。
あまりの辛さに、紘一は、自分ではない誰かが化粧をされているのだと思い込もうとした。




