昭和二十年 八月三日 実方辰顕 蛆
午後、辰顕が囲炉裏で、顕彦に見てもらいながら、貴顕と一緒に天吹の練習をして、紘と了に聞かせていると、炊事場から、あらあ、という声がした。
顕彦が、おや、と言って、炊事場の方に声を掛けた。
湿った空気の中に、香ばしい、良い香りが漂う。
「ハナちゃん、如何した」
「煮物、作り過ぎちゃったわ。御野菜入れ過ぎたみたい。お景さんに渡す用に取り分けても未だ余りそう」
炊事場から、よく通る初の声が返って来た。
「そうだ、俺、繁雪さんに御裾分けしてくるよ。頂いた野菜の入っていた背負子を返す用事が有ったのを忘れていた。ハナちゃん、取り分けてくれるかい」
「はい」
鶏内臓、特に、きんかんの煮物は、祖父、忠顕の好物である。
別に御裾分けしなくても残らないのでは、と辰顕は思ったが、そう言えば、忠顕も以前に比べて食が細くなってきたし、栄が、忠顕に、あまり塩分を摂らせたがっていない事を思い出した。
―ああ、御礼がてら、繁雪さんに御裾分けした方が良いか。
辰顕が納得していると、初の手伝いをしていた成子が炊事場から出て来て、布巾を掛けた皿鉢を、そっと囲炉裏端に置いて、再び炊事場に引っ込んだ。
顕彦は、成ちゃん有難う、と声を掛けた。
そうしていると、上座敷から、俊顕と誠吉と栄が囲炉裏端からやって来た。
後から、忠顕に抱かれて、逸枝も来たが、逸枝は眠っていた。
早稲刈りで疲れたらしい。
薪を切る為に庭に居た、綜と周も、母屋に戻って来た。
周は、逸枝に気付くと、忠顕から逸枝を抱き取り、下座敷に連れて行った。
襖を開け放した涼しい場所に布団を敷いて、昼寝をさせてくれる心算らしい。
綜も、周の後を追った。手伝う気なのだろう。忠顕が、双子に、助かる、と声を掛けた。
―六日は空襲かなぁ。
逸枝が穏やかに眠っているのを見て、今は空襲で起きて、怖い思いをさせたくない、と辰顕は思った。
六日が空襲、というのが当たってしまったら、逸枝が、また怖がるだろうか、と思うと、辰顕は逸枝が気の毒だった。
顕彦は、よし、と言って、煮物の入った皿鉢を手にすると、貴顕に声を掛けた。
「貴、一緒に、清水の繁雪さんの所に御裾分けに行こう。瑛子ちゃんにも会って来よう。此の前の背負子を二つ持って行って返さないといけないから、一つ背負っておくれ。ついでに、野菜も持って行こう」
ほぉ、と言って、忠顕は笑った。
「そりゃ良い。何なら、貴に一人で行かせよう」
―え、背負子二つと煮物と野菜?此の雨の中?貴一人で大丈夫かな。
辰顕が心配して見守っていると、貴顕は、返事をせず、真っ赤になって俯いてしまった。
貴顕の意外な反応に、忠顕が、おや、と言った。
貴顕は、あんまり会いたくない、と言った。
忠顕は、ふーむ、と言った。
「貴、如何して会いたくない?此の爺に話してみろ」
「未だ誰かを御嫁さんに、とか、考えたくないし、誰にも求婚したくない」
貴顕は、俯き加減で、泣きそうな顔で言った。
ありゃ、と辰顕は思った。
―幾ら長男だから早めに決まった、とは言っても、未だ九歳だしな。やっぱり、早過ぎるのかな。
しかも、貴顕なりに、綜の結婚相手が急に決まってしまった事に対して動揺している様子なのを、辰顕は見逃さなかった。
あまり、今から、嫁だの何だのと意識させるのも気の毒、という気がした。
「うーん、そうかぁ。でも、何回か会ったら瑛子ちゃんの事好きになるかもしれないぞ?」
顕彦が、困った様に、そう言った。
成程、と辰顕は思った。
― 一理有るか。毎日顔を見ていると親しみが持てる様になる事も有るしね。
しかし、貴顕は、意外な事を言った。
「でも、俺だけ好きになって、相手に好きになってもらえなかったら如何するの?」
貴顕の言葉に、誠吉と栄が、分かる、と言って両手で顔を覆った。
紘が、目を点にして、父と叔父を見て、え?と言った。
俊顕が、気の毒そうに言った。
「御前達、所帯持つまでが大変だったからなぁ」
誠吉が、両手を退かし、悲痛な顔を俊顕に向けて、言った。
「思い出しただけで胃が裏返りそうだ」
そんなに?と紘が言った。
誠吉は、自身の胃の辺りを両手で押さえて、そうだよ、と言った。
栄も、顔を覆っていた手を膝について、深い溜め息をついて、言った。
「一ヶ月くらい、よく眠れなかったものさ」
―二人共、本当に大変だったみたいだな、所帯を持つまで。
やっぱり数学の方が楽しそう、と思って、辰顕は、少しゾッとした。
そうだなぁ、と言って、忠顕は顎をポリポリ掻いた。
「貴、一ヶ月くらい、野菜でも届けに通ってみては如何だ。毎日会っていれば、御前の今の考えも変わるかもしれないぞ」
忠顕の言葉に、誠吉と栄が、声を揃えて、やめてあげてください、と言った。
「俺、一ヶ月食欲が無くなりましたよ」
誠吉が、首を振りながら、そう言った。
栄も辛そうに言った。
「そうですよ、子供には酷です」
そうこうしていると、双子が下座敷から戻って来た。
逸枝を寝かし付けたらしい。
「何事?」
周が、不思議そうに尋ねてくる隙を見て、貴顕が母屋から走って逃げだした。
あ、と忠顕は言った。
「辰、紘、追っかけてくれ」
二人は、はい、と返事をして立ちあがった。
辰顕は、天吹を浴衣の懐に入れた。
母屋で傘を借りた辰顕と紘が追い付くと、貴顕は、傘も差さずに、堆肥小屋の前に屈んで、堆肥になりかけている野菜屑をジッと見ていた。
―どうせなら、もっと良いものを見れば良いのにさ。
辰顕は少し呆れたが、夏、外では、此の辺が一番日陰で涼しい。
雨も多少は避けられるから、蠅が居るのと、此の臭いさえ無ければ、割と穴場なのかもしれなかった。
「貴、何をしているの?」
紘が、貴顕の傍に屈んで、自分の傘を差し掛けた。
辰顕も、貴顕を、紘と挟む様にして、貴顕の隣に屈んだので、二つの傘で出来た円の和集合の位置に貴顕が来る形になった。
貴顕は、誰の顔も見ようとせず、蛆を見ていたの、と言った。
紘は、蛆かぁ、と言って、眉を顰めながらも笑った。
―此の、ジットリした小糠雨の中で、何故、蛆を見ているのか、という話だけどな。本当に、もっと良いものを見れば良いのに。
呆れつつも、貴顕が思ったよりも萎れていたので、辰顕は黙っていた。
「蛆、面白い?」
紘が優しい声で尋ねると、貴顕は、面白い、と言った。
「大きさが違うの。ほら」
貴顕が指し示す方を見て、辰顕は、ああ、と言った。
「小さいのが、未だ一度も脱皮していない一齢幼虫。中くらいの大きさのが、一度脱皮した二齢幼虫。三齢で終齢だな」
へぇ?と言って、貴顕が、やっと辰顕の方を見た。
辰顕は説明した。
「卵から孵ると一齢幼虫。一番小さい蛆になる。脱皮して、少し大きい蛆に。其れが、二齢幼虫。もう一度脱皮したら、一番大きい蛆、三齢の幼虫になるけど、其れ以上は脱皮しないから、終わり、って書いて、終齢幼虫」
辰顕は、一、二、三と右手の指を出して、言った。
貴顕は、ほー、と言った。
「分かった。辰兄ちゃん、終齢幼虫の蛹が蠅になるの?蝶々みたいに」
「そういう事」
紘が、唖然とした顔をして、辰顕を見た。
「何で、そんなに蛆に詳しいの?」
「蛆にだけ詳しい心算は無いけど。語弊が無いか?」
辰顕が笑って、そう言うと、紘は、ごめん、と言って笑った。
辰顕は説明を続けた。
「正確には終齢幼虫が土の所まで移動して、土の中に入って、硬化する。硬くなるのさ。そうして、蛹みたいになる。其の辺の土の中に、蠅の赤ちゃんが埋まっているって言えば良いかな?」
貴顕は、へぇ、と言った。
凄い、と紘は言った。
「蛆にも、そんなに詳しいのは、如何して?」
紘が、蛆『にも』と、質問の仕方を変えたのが、辰顕には可笑しかった。
―内容は殆ど同じだけど、気を遣ったみたいだな。紘らしい。まぁいいや。
「人間の傷口を蛆に食べさせると、悪い組織を食べてくれるから、実は傷の治りが早いのさ。そういった事には興味が有ってね」
凄い、と、紘は、もう一度言った。
いや、と辰顕は言った。
「本当は、何にでも詳しくなりたくて。分かれば、面白い事が増えるだろ?なかなか難しいけどね」
辰顕が、そう言うと、紘の瞳が輝いた。
「凄い、凄いねぇ、辰ちゃん」
何か照れるな、と辰顕は思ったが、貴顕が何事かを考え込んでいる方が気になったので、注視していると、蠅の赤ちゃん、赤ちゃん、結婚、と、貴顕は呟いた。
其処に、傘を差した顕彦が来た。
辰顕と紘は立ち上がって、顕彦に一礼した。
「貴、兄ちゃん達と、此処に居たのか」
貴顕は、立ち上がると、辰兄ちゃん、紘兄ちゃん、と言った。
「赤ちゃんは如何やったら生まれるの?」
顕彦が、おお?と言った。
「え?何の話をしていて、そうなった?」
「蛆の話を…」
紘が、そう言うと、顕彦が、だから、何故蛆で?と言った。
御尤も、と辰顕は思った。
あの、と紘は困った様に言った。
「…説明しても良いのでしょうか?」
顕彦が、苦笑しながら、うーん、と言った。
「やっぱり、一緒に御裾分けに行こう、貴。道すがら説明してやるよ。別に、嫌なら、御前は瑛子ちゃんに会わなくても構わないからさ。二つ有る背負子を返すのを、一つ背負って、返すのを手伝っておくれ」
貴顕は、小さな声で、はい、と言った。
紘が、そっか、と言った。
「自分や綜ちゃんに結婚相手が出来たり、新しい弟か妹が出来たり、急に色々変わったから、貴は吃驚したのか」
「うん…。坂元のじぃじも死んじゃって。折角紘兄ちゃん達が来てくれたのに。綜兄ちゃんは結婚しちゃうって言うし。何か、変わっちゃうの、嫌だ。皆が遠くに行っちゃうみたい」
紘は、少し寂しそうに、そうか、と言ってから、優しい声で続けた。
「じゃあ、変わっちゃうのが嫌なだけで、別に瑛子ちゃんが嫌いなわけじゃ無いよね?」
紘が、微笑んで、そう言うと、貴顕は、紘の澄んだ目をジッと見た。
多分、と、自信無さげに貴顕は言った。
紘は優しい声で言った。
「瑛子ちゃん、貴に何かした?」
「…野菜くれた」
「そっか。貴は、野菜をあげた人に嫌われたら、如何?」
「…嫌」
「そっか」
「…御礼、言いに行く。瑛子ちゃん、此処まで、野菜、沢山持って来てくれたものね。重かったかな」
「そうだね。有難いね、遠いのに、歩いて来てくれたもの。そして、其れに御礼が言えて、貴は偉いね」
紘が、そう言って微笑むと、おお、と言って、顕彦が喜んだ。
「有難う二人共。よし、貴、行こうな。偉いぞ」
辰顕と紘と貴顕は、はい、と言った。
貴顕は、顕彦の傘の中に入った。
顕彦に連れられて、立ち去りながら、辰顕と紘に向かって、躊躇いがちに、小さく手を振った。
辰顕は、やれやれ、と思いながら、貴顕に、小さく手を振り返した。
「結婚相手っていうのは、何歳で決まっても大変そうだな」
辰顕が、そう言って、ふぅ、と溜息をつくと、そうだね、と言って、紘が笑った。
※天吹 テンプクとも。郷土楽器。三十センチ程度の、尺八に似た小さな縦笛。布袋竹という、鹿児島県内に多く自生する細めの竹で作られる。嘗ては自分で使う天吹は自分で作る仕来りが有ったという。
※背負う 背負う、を意味する方言。担ぐ、の古語である『担ふ』の転訛。
方言は古語が残っているものが多く、興味深いです。




