昭和二十年 八月三日 坂本紘一 素描
紘一達が、そっと扉を叩くと、仮眠室から周二が出てきた。
辰顕が声を掛ける。
「周ちゃん、そろそろ御昼に行かない?」
「ああ、そう?じゃ、兄上を起こそう。入る?」
良いの?と言って、辰顕が仮眠室に入ったので、紘一も続いた。
珍しく浴衣の袖を諸肌脱いだ状態で、綜一が、寝台でスヤスヤと眠っていた。
窓は開いている。
仮眠室も、普段より涼しく感じられた。
周二は其の姿を素描していたらしい。
起こすと言いながら、周二は再び、手にした画板に向かった。
―相変わらず上手いな。
巧遅は拙速に如かずとは言うが、周二は描くのも早かった。
辰顕が、お、と言った。
「胸鎖乳突筋」
辰顕が、感心した様に、周二の素描を見ながら、そう言ったので、紘一は、思わず、ん?と言った。
周二は、ね、と囁いた。
「兄上の首、此処が綺麗でしょう?」
首の筋肉の事だろうかと推察した紘一だったが、正直、どれなのか問い質したくなるくらい、紘一には分からなかった。
えーと、と紘一が言うと、辰顕は素描を指差しながら、ほら、と囁いた。
「周ちゃん上手いよね。橈側手根屈筋、腕橈骨筋、上腕二頭筋、上腕三頭筋、三角巾、広背筋、大胸筋、僧帽筋、外腹斜筋、腹直筋」
―ほら、じゃないよ。
もう一度聞き返しても、紘一には、どの筋肉の名前なのか分からないだろう。
辰顕は時々、頭が良過ぎる気がする紘一である。
―まぁ、そうじゃなきゃ七高目指そうなんて思わないか。
紘一は、妙に納得した。
同じ学年にしては、自分より随分落ち着いている様に見えるし、何を話しても概ね理解してくれる。
他人を否定せず、一緒に泣いてくれすらする人物である。
紘一には、辰顕が、強い味方、という風に思われた。
周二は、辰顕と紘一に微笑みかけて、紙や鉛筆を片付けた。
綜一が突然、バッと起き上がった。
息が少し荒い。
「…あ、何だ、皆居たのか。何か、標本になる夢を見たのだが」
汗だくで、そう言う綜一に、原因は知っています、と思いながらも、紘一は黙って自分の手拭いを渡した。
あれだけ筋肉名を囁かれる部屋で仮眠を取る機会も、そうは有るまい。
そんな夢見の悪さも然も有りなん、というところである。
「済まない」
綜一は紘一から手拭いを受け取ると、額の汗を拭いた。
「兄上、そろそろ母屋に行こう?御昼を食べようよ」
周二が明るく言うと、綜一は、そうだな、と言った。
仲直り出来たのかな、と思うと、紘一は微笑ましく思った。
何にせよ、綜一の結婚は御目出度い事である。
其々、手拭いを被りながら、小雨の中、四人で母屋に向かう途中、よう、と声が掛かった。
見ると、血塗れの手をした顕彦が、布を被せた馬穴を持って、ニコニコしていたので、紘一は思わず二度見した。
貴顕が了を連れて、バタバタと顕彦を追い掛けてきた。
「今夜は御馳走だぞぉ。いやぁ、綜、本当に、おめでとう」
此れ以上は無かろう、という満面の笑みで、顕彦は、薄赤い掌を見せて、此方に振った。
綜が畏まって、有難うございます、と言うと、顕彦は、明るく笑って、貴顕に声を掛けた。
「さ、貴、穴を掘ってくれ。なるべく深く頼む」
貴顕が、はい、と、張り切った声を出した。
了が辰顕に、あのね、と声を掛けた。
「首が入っているの、馬穴。御馳走」
そうか、と言って、辰顕は、優しく了の頭を撫でた。
―首?聞き違いじゃないよね?えっと、御馳走?
紘一が質問出来ずにいると、顕彦と貴顕と了は、堆肥小屋の方に向かった。
「如何しよう」
周二が、被った手拭いの端で口元を覆いながら、青い顔をした。
「本気の御祝いで、御馳走じゃない。もう老鶏なんて居ないでしょ?残してあった、卵産むやつかな。虎の子じゃない」
綜一も、青い顔をして黙りこくっている。双子の様子に、紘一は慌てた。
「えっ?如何いう事?」
辰顕が説明してくれた。
「あの、ほら、鶏を、つぶす、っていう言い方をするのだけど、今日は、御祝いの為に鶏を殺して、刺身なんかの御馳走にしてくれた、っていう事。最高の御馳走だよ。栄さんの家の鶏は、もう全部食べちゃって、居ないから、うちの叔父の家の、卵を産ませる為に取っておいた、大事な鶏だと思う。普段だったら、雄鶏とか、脂鶏、老鶏を、つぶす事が多いけど」
「あ、だから、首?あの馬穴の中に、殺した鶏の首が入っていたって事なの?」
「そう。一度首を切って血抜きするから、最初に切るわけ。鶏冠を刺身にする事は有るけど、首は食べないからさ。首は堆肥には向かないから、野菜屑みたいに、堆肥小屋に置いておくわけにはいかないけど、埖捨て場に捨てたら、野良犬や狐が食べに来るかもしれないから、堆肥小屋の裏に埋める事にしているの。ひこじぃ、先刻は、其の穴を貴に掘らせる、っていう話をしていたというわけ」
「成程、其の、つぶした鶏の肉を食べさせてくれるって事か。本当に御馳走だね」
紘一達が、そんな話をしていると、あらぁ、という声がした。
見れば、百姓袴と前掛けを羽毛だらけにした初だった。
「男の子達、今夜は鶏の炊き込み御飯を作ってあげますからね」
ニコニコと、嬉しそうに初は言った。
糯米まで?と、周二が悲愴な声で言った。
綜一は、青い顔の儘言った。
「そんな、俺の為なんかに、其処まで」
「何を言っているの。煮物だって作っちゃうわ。こんな御目出度い事、なかなか無いもの。安幾ちゃんの御目出度ついでに御祝いしましょう。さ、ちょっと、羽毛を払ってくるわね。纏めておいたのに、飛ばしてしまったのよ。此の雨で濡れて、くっ付いてしまって。其れが済んだら、御昼を出してあげますからね」
初は、綜一に微笑みかけてから、埖捨て場の方に向かった。
初の姿が見えなくなると、周二は、うわー、と言って頭を抱えた。
「取っておいた食材、ドンドン御馳走に使っているよぅ。明日から卵は如何するの」
辰顕も、青い顔で、落ち着いて、と周二に言った。
「幾ら何でも、きっと未だ鶏は残しているよ。今日早稲を刈ったから、二、三週間も干して乾燥させれば食べられるし。未だ、其処まで困らない筈だよ。一応配給だって」
「でもでも、アッコおばちゃんの御祝いだって、混ぜ物無しの御米だけだったのに、本当に凄い御馳走じゃない」
周二が泣きそうな声で、そう言っていると、顕彦達が、戻って来た。
「貴、了、手を洗うぞ。井戸の所まで行っておいで」
貴顕と了は、はい、と嬉しそうに返事をし、駆けて行った。
綜一は、あの、と顕彦に声を掛けた。
「先生、俺の為に、鶏を…」
顕彦は、綜一が言い終わる前に、嫣然として、ごめんな、と言った。
「此のくらいしか喜ばせられる様な事が思い浮かばなくて。鶏も三羽残して、二羽しか、つぶせなかったけど。今夜は此れで、御馳走っていう事にしておくれ」
そう言う顕彦の手は、未だ血で薄赤かった。
綜一は泣きそうな顔をして黙った。
顕彦は、紘一に素晴らしい笑顔を向けてきて、言った。
「紘、御前が此処に居るうちに、鶏を食べさせてやれて良かったよ」
紘一も、泣きそうになりながら、其の笑顔を見た。
感謝で胸が詰まって、何も言えなかった。
其の時、バチャーン、という大きな音がした。
同時に、子供の泣き声がする。
其の場に居た全員で井戸の所に駆け付けると、釣瓶の桶が引っ繰り返っていて、びしょ濡れの了が、其の場に屈み込んで泣いていた。
「如何して、そうなった?」
顕彦が、そう言いながら、慌てて駆け寄った。
貴顕が叫んだ。
「了が転んだー!」
周二と辰顕が手拭いを出して、了に駆け寄る。
埖捨て場から戻った初が、あらあら、と言って駆け寄る。
そうして、ちょっとした騒ぎになってしまったので、紘一は、顕彦に御礼を言いそびれてしまった。
騒ぎを見守りながら萎れている様子の綜一に、紘一は、良かったね、と声を掛けた。
「皆、喜んでくれているね」
綜一は、紘一の方を見て、そうだな、と言った。
「御前の御蔭の様な気がする」
「そうなの?」
「そうだ。逃げないで正直になった方が楽になる事も有るのだと学んだ。『なこかい とぼかい なこよか ひっとべ』、というやつだな。今まで其れ程信じてはいなかった教えだが」
紘一は、綜一が途中何を言っているのか分からなかったが、そうかな、と言った。
「正直になったのは綜ちゃんであって、別に俺は何もしていないけど。…殴られなかった?大丈夫?」
紘一は、恐る恐る、綜一に尋ねた。
「…殴られなかった」
「へぇ」
紘一は安心した。
綜一は続けた。
「正直に話したら、呆れた顔はされたけど、親は別に怒らなくて、正直に話した事については褒めてくれて、『水配』で自分が相手を決めた事にすると言ってくれた。荻平さんは、凄く喜んでいた」
「え?」
「何でも、昔は、下方限では夜這いが多かったらしい。懐かしいとか何とか言われた」
「そう。下方限だけ?上方限も?」
「上方限では、まさか、其の様な事は有るまい。親が相手を決めるものだ」
やっぱり、上方限と下方限は違うみたい、と、紘一は、益々、分からなくなった。
兎に角、と綜一は続けた。
「うちの親曰く、夜這いを禁じているのに、長の息子が其れをしていたと知れたら外聞が悪いので、其の部分は伏せておけ、との事だった。瑠璃とは別に、血が近いわけでも何でもないし、旧知の仲ではあるからな。瑠璃の母親も『水配』で荻平さんが箔付けに娶った上方限の出身の女性で、親が俺の相手に選んでも全く不自然では無いから、との事だった。そして、公表するまでは瑠璃に会うな、と言われた。公表の前に噂になってはいけないから、という話だった。そして、秋には祝言だとさ。暑くなくなって、田畑の収穫の後ってところかな」
「…急展開だね」
「本当だな。こうなるとは思わなかった。思ったより、穏便に済むのだな。正面から話せば。やはり、御前の御蔭、という気がする。一人でウジウジ考えなくて良かった」
「そっか」
昨夜辰顕が、口出しして、という謎の依頼をしてこなかったら、紘一は殆ど何も言う気は無かったのであるが。
―其れは、実は辰ちゃんの御蔭だと思うけど。
そうして二人で居ると、また、よう、という声がした。
見れば、軍服姿で野菜を抱えた俊顕と、国民服姿で一升瓶を抱えた忠顕だった。
此の二人は和傘を指していた。
手を洗った顕彦と貴顕、着替えさせた了を母屋に置いて、人数分の傘を持って来てくれた周二と辰顕が、集まって来た。
顕彦と紘一、貴顕が、受け取った傘を差していると、やったな、と俊顕は言った。
「おめでとう、綜。荻平さんから聞いたよ。秋には祝言だって?あ、極秘らしいな、すまん。荻平さんも、御前を預かっている俺達にしか言っていないそうだぞ。態々、うちと、うちの父に御挨拶に見えて」
辰顕と貴顕は、え?と言った。
「秋?早くない?」
辰顕は、そう言うと、目を丸くして綜一を見た。
周二は知っていたと見えて、辰顕の驚き様を見ながら、楽しそうにクスクス笑った。
忠顕が、落ち着け、と言った。
「今八月なのだから、秋とは言っても、まさか九月では無かろうよ。収穫の後となれば、十一月とか、冬になる直前かもしれないぞ。十一月二十三日の誕生日が来れば満十八歳となればキリも良い。豊穣祭の後ではないか?晩秋とでも言うかな」
そして忠顕は、目出度い、目出度い、と言った。
「笛も持って来てやったぞ。紘、舞え」
忠顕は、紘一を見ながら、呵々大笑した。
「あ、そうですね」
忠顕に答えながら、そう言えば、最後の日に舞う事になっていたのが有耶無耶になっていたのを、紘一は思い出した。
「そうだな、衣装も着てくれよ」
俊顕が、ケラケラ笑って、そう言った。
「そりゃ、ちょっと紘が気の毒じゃないですか?…所謂女装でしょうに。余興には良いでしょうけど」
顕彦は、そう言って庇ってくれたが、紘一は、構いません、と言った。
「御世話になっていますし、そんな事で御返しになるなら。綜ちゃんにも、俺からの御祝いって言ったら何だけど、本当に、余興だとでも思ってくれたら」
「…良いのか?巫女舞だぞ?そんな、俺の為なんかに」
御祝いだもの、と言って、紘一は微笑んだ。
「でも、衣装を着るなら夕方か夜が良いかもね。昼日中に、そんな格好しても、骨格からして男だもの。巫女さんっぽくならないからさ」
紘一の提案に、忠顕が、決まったな、と言った。
「辰、笛持ってこい。練習しとらんのは知っとるぞ」
忠顕に名指しされ、辰顕は、ウッ、と言った。
「凄いや。笛も吹けるの?」
―頭も良いし、そんな事まで出来るなんて。
紘一が尊敬の眼差しを向けると、辰顕は頭を抱えた。
「笛くらいしか、もう吹けないかも…」
辰顕の様子を見て、忠顕は、情けない、と言って笑った。
―前は、そんなに沢山楽器が出来たのか。凄いな。
紘一は益々、辰顕を尊敬したが、午後に少し練習します、と言って、辰顕は、傘の中で、両手で顔を覆った。
※老鶏 年寄り(オンジョ)の鶏を示す方言。所謂廃鶏。もう卵を産まなくなった鶏。
※脂鶏 太り過ぎて卵を産まなくなった鶏を示す方言。
※炊き込み御飯 鳥めし、と呼ばれる郷土料理。鶏飯とは違う。脂鶏などの肉と野菜を一緒に炊き込んだ、味噌味の炊き込み御飯。糯米を使う事が多い。
※煮物 此の場合、鳥内臓である、血肝、きんかん、砂肝等を大根などと一緒に煮た郷土料理を指す。
※なこかい とぼかい なこよか ひっとべ 『泣こうか、跳ぼうか、泣くよりかは、跳んでしまえ』の意。困難に遭った時は彼是考えず兎に角行動しろ、という薩摩藩の郷中教育の教えが童歌として残ったもの。土手や小川を跳び越える遊びの際にも歌われる。郷中とは、薩摩藩の武士階級の子弟を教育する方法の事。




