昭和二十年 八月三日 実方辰顕 趣味
昭和二十年 八月三日 金曜日
最低気温24.0℃ 最高気温28.4℃ 雨
肌寒いな、と辰顕は思った。
朝から、弱い雨が降り続いているが、風は止んだので、サッサと刈り取りを済ませてしまおう、という事になったので、濡れながら早稲を刈っているからである。
台風が来ている気がするから、今のうちに刈ってしまおう、と、大人が口々に言う。
昨晩の、あの風の強さでは無理からぬ事、と、辰顕も思う。
今日の風の様子なら大丈夫かもしれないが、台風で稲がやられる前に、出来るだけ刈り取っておく必要は有った。
今日は、誠吉と顕彦、栄、清水の双子に、周、辰顕、紘、と、男手だけでも人数が揃った上に、成子と逸枝、貴顕と了も手伝ってくれるというので、初は留守番で、安幾と一緒に居てもらう事になった。
早稲は、本来、もっと、台風が来る前に刈り取る様に植えるものだが、今年は人手の都合が付かず、田植えが遅れてしまった。
昨日の風で稲が倒れないでいてくれて本当に良かった、と辰顕は思った。
六月までは辰顕達も学校に通っていたので、朝の田畑の手伝いが殆ど出来なかったのである。
学校は家から遠く、寝坊でもしようものなら遅刻は免れ得なかった。
遠いからこそ、校舎が焼けても、家の方面は無事だったのだが、次に学校に通えるのは何時だろう、と考えると、溜息の出る辰顕である。
午前十時になって、初が御茶の休憩だと呼びに来てくれた。
「え?もう終わったの?」
すっかり刈り終えて干された早稲を見て、初が驚いている。
此れだけ人手が有れば有る程度は予想出来ていた事だが、何せ、誠吉が稲を刈るのが物凄く早かったのである。
途中から、他の全員が刈穂を束ねて干す作業の方に回ったくらいだった。
故に、通常より異様に早く作業が終わったのであった。
―もっと天気の良い日に干したかったけどね。昨日は風が強かったし、一昨日には刈っておいた方が良かったのかなぁ。天気予報が無いと不便だなぁ。
母屋に戻って、銘々、体を手拭いで拭きながら、炊事場の土間で、休憩に、漬物にした高菜の葉で巻かれた、雑穀交じりの握り飯を食べた。
紘が、南国の田植え始めが二月から三月という事実を知り、酷く驚いていた。
通常五月では、などと言っていたが、一律に田植え時期が五月では、七月から八月に刈り取れないのだ。
辰顕は説明した。
「五月にも植えるよ。刈り取る時期が、ずれる様になっているだけ。一年の収穫を祝うのは、十月や十一月」
「へぇ」
紘は、酷く感心した声を出した。
畑は家にも在ったが、田圃は初めてだという。
早稲にする理由の一つは、台風前に刈り取って稲の収穫量に影響を出さない為なのだ。
其れでも、台風で稲がやられてしまう事が有る。
だから、早稲と、五月に植えるもの、晩稲、と、収穫時期が分かれる様に植えるのだ。
火山由来の白砂台地土壌も、其れ程稲作向きでは無いから、こうして、知恵を振り絞って、作物の被害を最小限にするのである。
因みに、品種も同じである。
別段、早い時期に植える品種、などという風に分けているわけではない。
「考えた事も無かったけど、南国だから出来る事だろうし、田植え始めが二月でない土地も当然有るよね、そうか」
辰顕は、そう言って、此処ではない遠い土地の田圃に思いを馳せた。
紘という外の目で、自分の住んで居る場所を再発見した様な気持ちになったのである。
辰顕の頭の中の田圃は、何処も、人手が兵役で足らぬ事も無く、爆撃の影響も受けておらず、豊芦原千五百秋水穂国という美称に相応しい、瑞々しい稲穂が実っていた。
早稲刈りが思ったより早く終わったので、銘々、行水で体を清めたら、昼餉まで自由行動となった。
此の天気では洗濯も出来ないので、辰顕は、紘が来る以前は寝泊りに使っていた個室の机で、本を読んでいた。
小雨だから良かろう、と、開け放していた窓と扉から、湿った風が入って来て、辰顕の浴衣の裾を揺らす。
今日は比較的涼しい。
「え、凄い。本当に勉強している」
開け放した扉の方から声がした。
見れば、紘だった。
辰顕は、どうぞ、と言って微笑み、紘を部屋に招き入れた。
「勉強、というか、趣味だね」
白っぽい浴衣姿の紘は、信じられない、と言った。
辰顕も紘も、昨夜、国民服を、思ったよりも汚してしまっていたので、着られないのである。
友人の浴衣姿は、国防色より目に涼しく、視覚的に湿度を低く感じた。
紘は、近寄って来て、辰顕の読んでいた本を見て、酷く驚いていた。
「趣味って…え?積分って?凄い。え?」
「いや、趣味なの、本当に」
数学は面白いので、辰顕が勝手に、先に勉強しているだけなのだ。
しかし、面白いと辰顕が言っても、大体信じてもらえない。
―特に、微分積分が良いよね。
積分については、一言で語り尽くせない思いの有る辰顕である。
「積分は面白いよ。普段の生活の中でも利用されている概念なの」
「概念」
紘は、口を開けて、ポカンと辰顕の顔を見た。
例えば、と辰顕は言った。
「あとどれくらい歩いたら目的地に着くか分かる事が有るだろう?三十分歩いたから、あと半分だな、とか。あとは、坂の傾斜で、何方が上りで、何方が下りか分かるとか。そういう概念が積分なの。皆、積分の概念の中で、知らずに生活しているのさ」
「へぇ」
紘が感心した様な声を出したので、辰顕は続けた。
「過去の行動を積み重ねた結果を表すのに使用されるわけさ」
「あ、だから『積』分?」
「そう、そして、変化率に基づいた予測をするのに使う」
「ああ、坂の傾斜から上り坂か如何か判断したり、目的地の到着時間を予測したりする、って、そういう事か」
紘の返答に、辰顕は、良かった、と思った。
大体は、日常会話の中で、概念などという単語を持ち出した時点で、真剣に聞いてもらえず、相手が、此方を理解する努力を放棄してしまうのである。
理解してもらおうとは思わないが、紘が、此処までの話を一応は聞いてくれた、という事実を、辰顕は嬉しく思った。
「…趣味なのか、辰ちゃんの」
「うん、趣味」
零の概念を思い付いた人間を、辰顕は本当に素晴らしいと思っている。
況や虚数をや。
物事を数字で表す事が出来る、という面白さを、上手く言葉で表現出来ない辰顕であるが、数学者を目指す心算では無いので、此れで良いとも思う。
やはり趣味は趣味である。
「英語といい数学といい、御互い、趣味にするには、なかなか理解が得られない様だね」
辰顕が、そう言うと、紘は、ふふ、と笑った。
同性の友人すら殆ど興味を持ってくれない話題である。
況や女の子をや。
辰顕は、綜の事を思い出していた。
綜は、皆が行水をしているところに、傘も無しに軍服姿で戻って来て、早稲刈りを手伝おうとしていたが、既に終わっていた事に対して、相当驚いていた。
そして、自身の結婚相手が瀬原荻平の長女、瀬原瑠璃に決定した事を、未だ里の者には内密に、と言い添えて、皆に伝えた。
表向きは『水配』で長が決定した、という体裁を取るらしい。
昨夜の事など知らない大人達は大喜びだったが、綜は、其の目出度い様子を尻目に、昼餉まで少し休むと言って、仮眠室に引っ込んでしまった。
綜の顔には、殴られた様子は見当たらなかった。
長達に何と伝えたのか気になった辰顕だったが、何と無く聞けなかった。
―数学を解いて面白がっている俺にも、何時か結婚相手が決まる日が来るのかな。
しかし、辰顕には、そんな自分を想像するのは、如何しても、数学より難しかった。
「数学、苦手でさ。公式を覚えるのが苦痛」
紘は、辛そうに言った。
辰顕は、思わず早口になりながら、言った。
「いや、あれはね、楽をする為のものなのさ。公式を考え付いて、検証してくれた人が居るから、沢山計算をしなくても答えに辿り着けるわけ。公式っていうのは、楽をする為に発明された道具と考えると良いよ」
辰顕にとっては、公式は覚えるものでは無いのだった。
見る度に、此処に辿り着くなんて、と感動する程美しいものなのだ。
しかし、熱く語り過ぎたと見えて、紘が少し戸惑っている様子だったので、辰顕は、ごめん、と言った。
予想は出来た反応だったが、何故、人体実験やら軍の事やらは、あれ程すんなり受け止めてくれたのに、数学の公式の事には、其れ程理解を示してくれないのだろうか、と思うと、辰顕は紘が不思議だった。
―数学の方が簡単なのに。
「よし、数学の話は止め。仮眠室に行ってみない?そろそろ昼だし、綜ちゃんを起こして、母屋に行こう」
辰顕は、そう言って立ち上がると、窓を閉め、部屋を出た。
紘は慌てて追いかけて来た。
其のオタオタした様子には、昨夜、綜を巧妙に誘導した人物の面影は微塵も無かった。
辰顕は、此の顔を見て微笑んだ。
―不思議な奴。




