昭和二十年 八月二日 実方辰顕 悲劇
※せからしわいよ うるせぇや、くらいの意味の方言。
辰顕は、手渡された写真の写りの、あまりの良さに驚き、思わず、一度、写真を裏返してしまった。
すると、裏に小さく、鉛筆書きで『結婚式』と書いてあったので、辰顕はギクリとした。
―…此れは…きっと、里で行われなかった祝言の代わりに…。
辰顕は、もう一度写真を表に向けて、繁々と見た。
―此れは悲劇だ。
こんな麗人が、誰からも注目されずに穏やかな人生を歩む事は、どだい難しかったのではないか、と辰顕は思った。
『きっとね、お富さんの事、好きな人も嫌いな人も、一度会ったら忘れられない人だったと思うわ。悪く言っている人だって、あの魅力には抗えなかった筈よ』
『見せてくれて有難う、紘。…いやはや、此れが、お富さんか。…成程、ハナコおばちゃんが言っていた意味が、何となく分かったぞ。一度見たら見忘れん姿だな』
初と綜の言葉が、実感を持って思い起こされた。
此の女性が、周囲から、どの様な目で見られていたかを想像すると、あの、おっとりした誠吉も、かなり苦しんだのではないか、という気がした。
白い洋服に、白い花束を持って、何か被き(ベール)の様な物を頭から被っている其の姿は、こんな小さな写真だけでも、紘の母という人が、スラリとした美しい人だという事が、よく分かるくらい、強烈な印象を受ける。
写真の中の誠吉も、洋装で、実に素晴らしい容姿をしている。
似合いの夫婦だった。
―悲劇だ。
此の女性が此れ程美しくなければ、祝言は正式に行われ、もしかしたら、紘は坂元本家の、あの家に住んで居て、辰顕の幼馴染だったのではないか、という気がして、辰顕は、つい、黙り込んでしまってから、ハッとした。
「あ、ごめん、紘。写真、返すね?有難う。やっぱり、紘、御母さんとも似ているね」
富というのは、整い過ぎていて、稍中性的にすら見える顔立ちなのだった。
成程、息子の紘が似るわけだ、と辰顕は思った。
「何だい、見惚れたかい?随分美人だからなぁ」
陶冶が、そう言って、クスッと笑った。
辰顕は、そんなところです、などと言いながら、そっと紘に写真を返した。
「凄く、良い写真。大事にしないとね」
紘は、有難う、と言って微笑むと、丁寧に写真を財布に戻して、国民服の懐に入れ、服を丁寧に畳んで、枕元に置いた。
「其れにしてもなぁ。綜には、もう良い人が出来ちゃったのかい。詰まらん」
陶冶が、チェッ、と舌打ちした。
「…兄上、荻平さんの娘さんの事、ちょっと好みだったでしょ。ああいう凛とした顔」
薫陶がボソッと呟くと、陶冶が、せからしわいよ、と言った。
―うわ、聞かなきゃ良かった。綜ちゃんに知れたら、また、ややこしい事に…。
墓場に持って行かねばならない秘密を此れ以上増やさないでほしい、と辰顕は思った。
此の調子で秘密が増えていったら、何時か辰顕の骨壺は秘密でパンパンになってしまって、自分の骨が入る隙間が無くなりそうである。
だが、やっぱりそうですか、などと、紘が淡々と言うので、辰顕は目を剥いた。
陶冶は、照れ臭そうに、良いから御前等聞かなかった事にしろ、と言った。
「大体生意気だよぉ。髭も生え揃っていないくせに、俺より先に嫁を貰う気かい」
陶冶の言葉に、辰顕の方が恥じ入った。
綜と周は、少しは髭が有るらしいが、とても薄い。
剃ってはいるのかもしれないが、辰顕は、二人が髭を剃っている場面に出くわした事は無い。
辰顕は、伸びても顎辺りに二本程度で、殆ど無い。
紘に至っては全く見当たらないので、何と無く仲間意識を感じていた辰顕である。
紘も、恥じ入った様に俯いて、言った。
「髭剃りって、ちょっと憧れます」
ええ?と、陶冶は意外そうに言った。
「いや、…生えるよ、きっと。もう何年かしたら。…何か、ごめん」
未だなの?という言葉を飲み込む様にして、陶冶は慌てて、そう言った。
―あ、やっぱり紘も、そうなのか。
紘に対して、より一層親近感を覚えたが、其れを口には出せない辰顕だった。
髭が有れば大人、というわけでは無いが、何とは無しに、男らしさの象徴という気がするのである。
もし、一緒に生活している同学年の人間が、毎朝剃るくらい髭が濃かったら、内心、少し傷付いたかもしれない、と辰顕は思う。
「よし、俺は、もう寝るよ。明日は早稲を刈ろうな」
陶冶が、そう言うと、紘は、嬉しそうに、はい、と言った。
やっと紘は、只飯食らい、という罪悪感から解放されるのであろう。
紘には、最近は専ら洗濯の手伝いと、瓶と棒を使って、保存していた殻付きの籾の脱穀をやってもらっていたので、辰顕としては助かっていたのだが、一先ず、紘の怪我が治った事は、本当に良かった、と辰顕は思った。
肌寒くなってきたので、辰顕は、病室の窓と窓覆を閉めた。
そろそろ、下弦の月が上る頃である。
下に、此の、地を這う様にして悩み生きている自分達の方に向けて、矢を射掛けくる様な月の姿を夢想し、辰顕は、何やら断罪されている様な気分になった。




