昭和二十年 八月二日 坂本紘一 写真
紘一が、辰顕と連れ立って病室に戻ると、周二の寝台に、清水の双子が腰掛けていて、洗面器に水を張った物を用意してくれていた。
締め切っている廊下は暑かったので、清水の双子が開けてくれておいたらしい、病室の窓からの風は有難かった。
辰顕と紘一は礼を言って、各々、手拭いを濡らして、体を拭いてから、浴衣に着替えた。
二人が着替え終えると、あのさ、と、陶冶が言い難そうに言った。
「俺が上方限に行きたいなんて言い出したから、逢瀬が発覚して、周が泣く様な事になっちまって。綜と周は仲直り出来そうでホッとしたけどさ。何だか、皆、ごめんな」
見れば、何時もの明るさが陶冶の表情から消えている。
綜一や周二と一緒に居ると、其れ程気にならないのであるが、こうして、洋灯の光に照らされる陶冶を見詰めると、流石繁雪の弟と言うべきか、やはり端正な顔立ちである。
月の光の無い夜だったが、今夜の外出の時も、清水の双子は、本来なら月明かりが似合う、冴えた容姿をしている、と、紘一は思ったのだった。
紘一は、自分の寝台に腰掛けると、陶冶の方を見詰めて、言った。
「治さんが言い出さなかったら、周ちゃんも俺も、上方限を見る事は無かったでしょう。俺は、見て良かったと思いました。其れに、帰りたい、って、素直に言えるというのは、俺は偉いと思いました。其れから、上方限は本当に綺麗な所でした。有難うございます」
陶冶は、そうかい、と言って、そっぽを向いた。
陶冶は、照れると絶対人の顔を見ない。
其れは、此の数日で紘一が気付いた事だった。
紘一は、クスッと笑った。
見れば、陶冶の隣に座る薫陶も、紘一の傍らに佇む辰顕も微笑んで、陶冶を見ていた。
薫陶が、あれ?と言った。
「紘、財布。枕元に置きっ放しだよ」
「あ、いけない」
紘一は慌てて、財布を手に取った。
仮眠室で財布を出して、其の儘手に持ってきたのである。
辰顕が、そうだ、と、思い出した様に言った。
「紘、俺も、写真を見ても良い?」
「勿論。俺には、綜ちゃんが言う程の写真だとは思えないけど」
「何の写真だ?俺も見て構わないか?」
既に普段の調子を取り戻した陶冶は、辰顕より先に、紘一の方に手を伸ばした。
紘一は、良いですよ、と言って微笑みながら、陶冶に写真を手渡した。
陶冶は、洋灯の灯りの中で、矯めつ、眇めつ、写真を見ていたが、やがて首を傾げて、言った。
「え?此れは、何の写真?」
「うちの両親の記念写真です」
「そりゃ、そうだよなぁ。他人の写真、態々、持ち歩かないよなぁ?こっちは誠吉さんだろうし。えーと、こっちが、紘の御母さんの、お富さんかい?」
「はい」
陶冶は、不思議そうな顔をした。
「何か、えーと、銀幕女優の肖像写真とかじゃないよな?でも、紘、御母さん似だな」
また言われた、と紘一は思った。
―何か変かなぁ?俺は良い写真だと思うだけなのだけど。
「いや、褒めている心算で言っているのだけど」
陶冶の言葉に、紘一は、また言われた、と思った。
どれどれ、と薫陶が手を伸ばした。
「俺も見るね?構わない?紘」
「はい、どうぞ」
陶冶から写真を受け取った薫陶は、え、と言った。
「あ、洋装?素敵だね」
「はい、偶々、父が仕事で知り合った人の通っている教会で、服を貸してくれたそうでして。撮影は、確か牧師さんです」
横で聞いていた陶冶が、興味深げに言った。
「へぇ、教会。耶蘇さんかい」
「はい、英語の本も、其処で頂いたのです。別に俺は、信者になったわけでは無かったのですが、遊びに行くと、とても良くしてくれました」
だから『緑家の好子』に出てくる日曜学校等の単語は、紘一には少し懐かしい。
外国人牧師と話す事で英語の勉強が出来るかも、という不純な動機からだったが、伯父の新三が止めなければ、受洗しようかと思っていたくらいである。
静吉は、二十歳過ぎたら自分で決めても良い、という態度だったので、伯父の新三が、あんなに止めてくるとは思わなかった紘一だったが、洗礼の話が出てから程無くして牧師夫婦は帰国し、世相として、敵性語に対する世間の目が厳しくなった。
紘一が今にして思うと、新三には何か予見するところが有ったのであろう。
写真をジッと眺めていた薫陶が、うーん、と言った。
「ああ、何だね、こう、現実感が乏しい写真だね。綺麗過ぎて。芸術作品とか、絵画の様な。勿論、褒めて言っているのだけれど。月並みな言葉だけど、本当に美人だね。誠吉さんも美形だし。何だか、映画の場面を切り取ったみたい。洋装の人を其れ程知らないから、そう思うのかもしれないけど」
薫陶は、そう言うと、紘一の傍らに佇む辰顕に、そっと写真を手渡した。




