昭和二十年 八月二日 瀬原周二 決意
周二は、辰顕の浴衣に着替えると、自分の寝台に突っ伏して泣いていたが、暫くそうしていると、驚く程気分が落ち着いたので、泣き止んで、伸びをした。
何と無く、もう大丈夫、という気がした。
「おい、機嫌直せよ」
籠目模様の浴衣に着替えた陶冶が、オズオズと周二に話し掛けてきた。
「うん、直した」
「早いな?」
陶冶は、そう言って、驚きながら、周二が脱いだ国民服を、畳んで手渡してくれた。
「有難う。俺、仮眠室に戻って、兄上と話してみる」
そうか、と、感心した様に陶冶は言った。
「そういう素直なところが、御前の良いところだよな。きっと、綜も喜ぶよ」
陶冶は、周二に微笑みかけてくれた。
「俺が何か言わなくても、兄上の、あの性格じゃ、多分責任取るな、って」
周二の言葉に、麻の葉模様の浴衣に着替えた薫陶が、おお、そうか、と嬉しそうに言った。
―そう、大丈夫。兄上は、もう大丈夫。
自分が居なくても、本当に、もう綜一は大丈夫だ、と、何だか確信に近い気持ちが、周二の胸に湧き上がって来た。
―きっと俺達、離れられる。
自分でも不思議なくらい穏やかな気持ちで、周二は、綜一の事を考えた。
何時も一緒だったが、自分と兄を似ていると思った事は無い周二だった。
全く自分とは違う人間だった。
二卵性にしては外見が似ている、というくらいのもので、ともすれば、普通の兄弟よりも、中身は似ていないと思う。
あの、自分と全く違う人間が、何時も一緒に居てくれた御蔭で、周二は一人では無かったのだった。
自分が何処か図太く居られたのは、あの繊細な人間が何時も一緒に居てくれたからだった。
自分が今此処に居るのは、兄の御蔭なのだ。
―でも、きっと、もう大丈夫。離れられる。
此れまでが、ただの奇跡だったのだ。
普通の兄弟では考えられないくらい一緒に居られただけなのである。
伯父や父という共通の敵を持ち、糺達に可愛がられて育った。
そんな極端な生い立ちで、此れまで、二人で生きてきた。
―でも、もう違う道を進んでも大丈夫。
何時か、こうなる事を、周二は知っていた気がする。
本当は其れを、死亡届が提出される前から知っていたのかもしれない。
結婚も、出来ないとなると、してみたい様な気がしていただけで、自分とて、本来其れ程男女の仲に興味が有る方では無かった。
英語の勉強くらいしか遣りたい事が無い、と言う紘には、ああ言ったものの、自分も、本当は、絵を描きたいという以外に、其れ程遣りたい事も無いのだった。
しかし、綜一は、やはり周二とは違った。
愛情深く、愛し、愛される事を望む人間なのだと周二は思う。
綜一は、綜一自身の、そういう部分を知らないだけで、愛情を傾ける対象さえ間違わなければ、恐らく、其れ程苦しい物思いをせず、幸福を掴めるに違いない、と、周二は確信していた。
其の点、周二は何処か少し冷めているのかもしれない。
自分は、ああいう風には他人を愛せまい、という気がする。
周囲の親切への信頼と愛情、感謝だけは人一倍感じている気はするが、綜一程の強い気持ちを誰かに抱く自分を、如何しても想像する事が出来ないのである。
そうなると、二人の道は、最初から、限り無く近くに在る二本の道だったという気がする。
ずっと並行で、交わってすらいなかったのかもしれない。
気付いていなかっただけで、元々別の道だったのだろう。
そう思い至ると、周二は益々、心が軽くなった。
―御似合いかもね。考えてみたら、瑠璃さんって、御母さんは吉野分家の人で、上方限で育っている瀬原衆の娘さんだもの。育ち方に共通点が無いわけでも無いし。
おめでとう、と、周二は、心の奥で綜一に語り掛けた。
周二は仮眠室に戻り、辰顕と紘に礼を言った。
二人は席を外してくれた。二人が仮眠室を去ってから、周二は、跪いて、寝台に腰掛ける綜一の膝を枕にした。
顔は見えないが、綜一は一瞬、ビクリと震えた。
相当驚いたらしかった。
「おにいちゃま」
周二は、何となく、昔の様に綜一を呼んでみた。
「ごめんなさい。周は、もう口を出さないからね。周には内緒にしたい事は内緒にしていて良いから」
子供の様だから、と、就学の際、自分の事は名前で呼ばない、兄の事も、兄上と呼ぶように、と躾けられた癖だった。
綜一は黙っている。
以前最後に、こうして兄に膝を枕にしてもらったのも、随分前の事だった。
周二は顔を上げて、綜一の手を取った。
「周も内緒にしていた事が有るの。周ね、紘と一緒に、此処を出るね。誠吉さんには未だ言っていないけど」
綜一は、黙った儘、食い入る様に周二の顔を見ている。
「周ね、吉野の伯父さんに、何時か、多分殺されるの。詳しい事は言えないから、信じてくれなくても良いけど。だから父上が庇ってくれて、此処に隠してくれたの。父上の事、あんまり怒らないであげてね。こうするしかなかったのかも、って、周も思うの。自分だって如何して良いか分からないから、父上に頼ったのだから。戦争が終わったらね、周は、生きているって知られたら、伯父さんの邪魔になっちゃうの。伯父さんの秘密を知ってしまったから。伯父さんの秘密を知ったってバレたら、周、殺されるの。もう、じぃじも居ないから、周は此処を出たいの。自分で決めたの。未だ死にたくないって言ったら、紘が味方してくれたの。だから、紘の事も怒らないでね」
周、と綜一は呟いた。
周二は首を振った。
「おにいちゃま。周は何も口出ししない。だから、口を出さないでね。其れと、誰にも内緒にしてね。未だ、此の事は辰ちゃんと紘しか知らないから」
周二は涙が出た。
「本当はね、邪魔になって、如何にかされるくらいなら、じぃじと一緒に死んじゃいたかった。でも、紘が助けてくれるって。道中は危険だし、きっと食べ物も無いよね。野垂れ死にしちゃうかもしれないけど、紘の言葉に賭けてみようと思う。こんな事一人で決めて、本当に、ごめんなさい。今まで、伯父さんの事、父上のしてくれた事の理由、黙っていて、ごめんなさい。でも、如何しても、未だ諦められないの。外で、絵の仕事、してみたいの。生きる為に描くのではなくて、描く為に生きたいの。もう会えなくなると思うけど、其れまでは、紘と同じ様に仲良くしてね。御別れの顔が怒っていたら、嫌だよ」
周二は、そっと綜一から離れた。
そして衝立の陰で水差しの水を飲み、少しだけ水を拝借して手拭いを湿らせ、涙と汗を拭いた。
自分の寝台に滑り込むと、周二は、綜一の返事を待たず、明かりを消すよ、と言って、洋灯の灯りを消した。
しかし、暗がりでも、自分の持ち物の位置は、よく分かっていた。
此れは、辰顕に借りた浴衣。
あれは、顕彦がくれた紙。
あれは、俊彦がくれた鉛筆。
あれは、栄がくれた筆立て。
あれは、貴顕が千切ってくれた消護謨。
あれは、了がくれた石。
あれは、成子と逸枝が分けてくれた、宝物の貝殻。
あれは、初が縫ってくれて、安幾が繕ってくれた浴衣。
愛すべき、親切な人達の面影が、暗闇の中でも、『瀬原周二』の死後の世界を優しく彩っていた。
置いては行けないものが、あまりにも多過ぎるが、其れでも、此処を出たいのだ。
糺のくれた物は、残らず纏めて、もう荷物に入れてしまった。
とはいえ、もう、古びた玩具の類が幾つか、という程度だったが。
―じぃじ、助けて。
周二は、寝台で、頭から薄掛けを被りながら、声を殺して泣いた。
本当は、周二は何も置いて行きたくない。本当は誰とも諍いたくない。自分を殺そうとしている伯父とすら。
―でも、もう、仕方が無いから。俺は此処を出ないと。
周二は、薄掛けから首を伸ばして、母の絵姿を眺めた。
―頑張らなくちゃ。父上は、もう助けてくれたのだから。
周二には恐らく、今までの人生で一番幸福な三年だった。
周二は、もう一度頭から薄掛けを被った。
―父上は、もう庇ってくれたから、後は、自分で如何にかしなきゃ。
周二は、父の顔を思い浮かべながら、ごめんなさい、と思った。
―本当は、自分の子供の死亡届何なんて、出したくなかった?そうだと良いな。そう思う事にしよう。…違う方法で助けてほしかったのは、俺の勝手だもの。俺も、代替案は今以て思い付かないし。
綜一の寝台の方からは、殆ど物音がしなかった。
窓からの風だけが、部屋の中に音を届けてくる。
下弦の月の頃の事、そろそろ、真夜中、月の上る頃だった。
―明日は早稲を刈るから、早く寝ないと。楽しい事考えよう。楽しい事考えよう。




