昭和二十年 八月二日 坂本紘一 上方限
祖父の家、母の生家、という場所は、生垣が痛んでいた。
門は閉ざされているが、裏からなら入れそうだった。
行こう行こう、と陶冶が言うので、全員が陶冶の後に続いた。
「嘘でしょう?」
あまりの建物の立派さに、紘一は敷地に足を踏み入れるなり、唖然としてしまった。
「何が嘘なものか。御前、御両親が里を出なきゃ、多分此処が御前の家だった筈だぞ」
陶冶は、あまりの紘一の驚き様に、呆れた様に、そう言った。
しかし、病院の母屋より立派で、蔵まで在った。
こんな所が自分の家だとは、とても思えない紘一である。
「あ、蔵。…やっぱり、農家ですか?」
紘一の質問に、陶冶は、うーん、と唸った。
「此の辺は半農だから。厳密には何て言って良いか分からないけど、兎に角、坂元さんのところで蔵が在るのは本家だけだね」
「へぇ…、そっか。母さん、此処で育ったのか」
紘一は、想像しようとしてみたが、無理だった。
えへへ、と周二が笑った。
「見られて嬉しい。長の館は、坂元本家と造りが同じだから。懐かしいな」
「え?」
紘一は、思わず、少し大きい声を出してしまった。
他の四人から、シーッと言われる。
紘一は、小さな声で、ごめんなさい、と謝った。
辰顕は、そう言えば、と言った。
「造りが同じだね。考えた事無かった」
「家毎に、造りは似ているけどなぁ。家を見れば大体、実方衆とか吉野衆とか、どの一門の家か分かるし。例えば、清水衆の家は、大体、茅葺門だし。瓦屋根の上から茅葺を葺いている。清水本家と清水分家は、ほぼ同じ造りだよ。門構えで本家か分家か分けているくらいのもので。大工が同じなのかね?」
陶冶は、そう言ったが、紘一には其れが、長の館と、自身の祖父の家の造りが同じになる理由になるか否かの判断は出来兼ねた。
「そう言えば、坂元本家と坂元分家は作りが違うね。坂元分家は、病院の母屋と同じ造りだよね。見ていると、自分の家の様に錯覚する事があるもの。あの母屋を見ていると里心が付くかもね」
薫陶が、そう言って、クスッと笑って陶冶の方を見た。
陶冶は、薫陶から目を逸らして、行こう、と言った。
「里に在る、栄さんのところの坂元分家の家も、今は誰も住んで居ないけど、其処を抜けて行こう。そしたら直ぐ我が家だ」
建物の裏手に在る草刈り場を抜けていくと、確かに、病院の母屋に瓜二つの建物が在った。
―此れが分家の建物か。
「此方は三年前まで糺殿が御住いだった。誠吉さんや栄殿の生家だな。此方も今は、栄殿の持ち物だ」
薫陶は、そう言って、紘一に建物が良く見える様に場所を譲ってくれた。やはり現実感の無い紘一である。
―本当に此れが?
此処に来てから、目に入る物全てが格式高く、立派に見えるのだ。
良かったな、と陶冶は言った。
「顕彦さんが時々手入れなさっているから、坂元本家も此処も、そう荒れていないだろう?里に俊顕さんが残してくださった診療所の建物も、そうだ。前は俊顕さんが、無料で往診したり、軽傷程度なら治療してくださったりしていた建物が里に在るのだが、今は医者不在で使われなくなって久しい。でも、何時か使える様になった時、困らない様に、と」
そうなのですか、と辰顕は言った。
「診療所の建物が残っているとは聞き及んでいましたが、手入れもしてくれているとは…。叔父は、そういう事は言わないので」
立派だ、紘一は思った。
顕彦というのは、右の手のしている事を左の手に知られない様にする人物らしい。
しかし、紘一から顕彦に、土地屋敷の手入れの礼を言うと、芋蔓式に、今夜隠れ里に忍び込んだ事までが知られてしまいそうである。
何時か御礼がしたい、と紘一は思った。
さ、こっちを抜けて行こう、と陶冶が言った。
「うちの畑だ。田圃だったのを、半分畑にしてしまったのだけど」
畦道が目に入ると、陶冶の語尾が震えた。
「ああ、早稲は、もう刈ったのかな」
暗くて見えないが、陶冶は泣いているのかもしれない、と紘一は思った。
薫陶が、他の三人から陶冶を隠す様にして、畦道の先頭を歩かせた。
薫陶は、紘一達の方を振り返って、小さな声で、行こう、と言った。
―何時戻れるか分からない家。
紘一は、陶冶の気持ちを考えると、鼻の奥が少し、ツン、としたが、つられて泣くわけにもいかないので、涙を引っ込める為に、ゆっくりと、鼻で一つ息をして、清水の双子の後ろを歩いた。
コッソリ裏から回ったが、繁雪の家は、もう灯りが消えていた。
陶冶は其の場に屈みこんで、暫く顔を上げなかった。
薫陶は、そっと陶冶の肩を抱いた。
そして、少しの間黙ってから、薫陶は、もう瑛子は寝ているよ、と囁いた。
薫陶の其の声も湿っていた。
紘一は、恐らく泣いている二人の顔を、なるべく見ない様にした。
稍あって、陶冶は、済まない、と言って立ち上がった。
「そろそろ戻ろう。もう一度裏を抜けて行こう」
一行が草刈り場の方に戻ると、人影が在った。
全員、ハッとした。
辰顕が、二つの提灯の火を、慌てて吹き消した。
暗闇に次第に目が慣れる。
見れば、若い女性である。
桃色の花模様の様な白地の浴衣に、赤い帯をしている様子だが、顔は、良く見えない。
ただ其の、結われていない、風に煽られる長い髪が、其のスラリとした姿が、何と無く、若く美しい女性、という風に思われた。
女性は、誰かを引き留める様な素振りをしている。
軍服姿の男が、其の女性を振り払うかの様に、草刈り場に出てくる。
女性は、其の男の首に、縋る様に抱き着いて、唇を重ねると、サッと離れて、何処かへ消えてしまった。
紘一は、軍服姿の男と目が合ってしまった。
向こうも此方に気付いた。
狐が化けたのでないのなら、其れは綜一だった。
新約聖書 マタイ伝 6:3 not let your left hand know what your right hand does「善行をひけらかさない」「誰にも気付かれずに密かに何かをする」
牧師さんに英語を習っていたので、紘一は時々こういう表現をします。
新約聖書「使徒行伝」目から鱗が落ちる、等




