昭和二十年 八月二日 坂本紘一 瀬原集落
「そっちは本通りだよ。見付からない様に裏通りから行こう」
紘一達の前を歩いていた薫陶は、そう言ったが、周二は、ちょっとだけ、と、懇願する様に言った。
「コッソリ見るだけなら良い?御願い。もう三年も本通りを見ていないの」
薫陶は、そうか、と気の毒そうに言って、周二に道を譲った。
「紘、此処が上方限の本通りだよ」
周二が、泣きそうな顔で笑いながら、紘一の手を引いた。
うん、と言って、紘一は、周二が示す方を見た。
―…凄い。
紘一は、有り得ない、と思った。
美しい石畳で舗装された道が、提灯のから淡い明かりで、濡れた様に光っている。
実際今日は雨が降ったのだ。
未だ路面は濡れているのかも知れなかった。
家々は、角の円い石が整然と積まれた石垣と生垣で囲まれ、素晴らしい木製の門を持っていた。
―こんな場所が、本当に在るなんて。
風は有っても、土埃の舞いそうな粗末さは微塵も無い。
苔の一つも生えていない、馬でだって通れそうな、立派な石畳なのである。
木々の間を抜けて現れた場所だとは、自分の目で見ても紘一には信じられなかった。
しかし、家々の門は古めかしく、夜の闇の中では厳めしくすら見え、其の印象は、三百年くらい時が止まったかの様だった。
あっち、と周二は囁いた。
「本通りを抜けて真っ直ぐ行くと、長の館。俺、あそこに住んで居たの」
御城に住んで居たと言われても、此れ程は驚くまい、と紘一は思った。
―でも如何やら、此れは現実みたい。
「何て綺麗な所だろう。此処が上方限なのか」
下方限を見ていないが、上方限は家の格を気にする、というのが何と無く理解出来た気になった紘一である。
家の構えや街並みが立派過ぎるのだ。
日本の大体の場所が、此処程は立派な道を持たない。
多分、下方限は、此の様ではないのだ。
蛭が出る、という事は、川が在っても、其の周辺は森の様になっていて、其処まで開けていない土地なのだろう。
周二は、良かった、と言った。
「紘に見てもらえて、本当に良かった。さ、行こう。屋敷が並んでいる裏の、草刈り場を通るの。其処が抜け道」
「周ちゃん、長の館に行かないの?」
紘一の言葉に、周二は首を振って微笑んだ。
「本通りを通れないなら、吉野本家の裏を通る事になるから。流石に挑戦出来ない。…別に、実家に帰りたいわけじゃないし」
「そうなの」
―最初から周ちゃんは、実家を見る事を諦めていたのか。
其れでも上方限の姿を見たかった、其の周二の気持ちを考えて、紘一は唇を噛んだ。
「折角だから、本通りを少しだけ歩いて、坂元本家を見ないか?紘って、操殿とかいう人の孫だろう?」
陶冶が、ニコニコしながら、そう言った。
紘一が、はぁ、と言って、ついて行くと、陶冶が振り返った。
「此処だ」
「え?もう着いたのですか?」
「だって、坂元本家だぞ。本通りから近いに決まっている」
陶冶は、キョトンとして、そう答えた。
辰顕が紘一に説明してくれた。
「本通りは、上方限の東西を結んでいる道で、本通りに近い程良い家なの。そして、本通りの北側程家柄が良いのさ。本通りの北側は斜面になっていて、屋敷が並んでいる裏の草刈り場っていうのは其処の事。坂元本家、坂元分家は、相当良い場所に在るの。上方限でも、坂元本家は、長の館の次くらいに良い場所なのさ。もう、誰も住んでいないけど」
「そんなに良い場所に在るの?」
紘一は、本通りの立派さを見た後では全く信じられない話だ、と思った。
陶冶は微笑んで言った。
「そりゃさ、今は誰も住んでいないけど。今は栄殿の持ち物だから。手入れをすれば住める。何時か坂元の人達も戻って来られるよ。だから、分かるだろ、坂元分家の土地屋敷を売ってもらえて、どれだけ俺達が嬉しかったか」
紘一は、戸惑いながらも、陶冶に微笑み返した。




