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山行かば 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第二章 昭和二十年 八月
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昭和二十年 八月二日 坂本紘一 外出

昭和二十年 八月二日 木曜日

最低気温24.9℃ 最高気温30.4℃ 雨のち晴れ 強風


 吉田吉雄の登場に、聴衆が拍手したので、紘一は戸惑った。


 周二の寝台に腰掛けた陶冶が、まってましたぁ、と言い、周二が、よ、し、お、よ、し、お、と言い出した時点で、辰顕の寝台に腰掛けた薫陶と辰顕も、拍手しながらも、紘一同様、戸惑いを隠し切れない様子だった。


 全員拍手、という状況にも、自分の寝台を挟んで、聴衆の反応に温度差が有る状況にも、意識を向けずにはいられない紘一である。


 実際、毎回、そんなに喜んで頂けるとは、という思いが有る。


 有難いやら申し訳ないやらで、紘一は話を続けた。


 しかし、好子が石板を手にした辺りで、場は全体的に盛り上がり、聴衆の反応の温度差は消えた。


 好子が、二度と学校には行かない、と言い出した時は、(うま)(かい)先生に対して皆憤慨した。


 周二が、プリプリして言った。

「嫌な先生ぃ。でも、吉雄も駄目じゃない、女の子に酷い事言って」


「いや、馬養先生が話を相当ややこしくしたぞ」

 陶冶も少し怒り気味に、そう言った。


「人参って、あれかな。高麗人参でなくて、吉野(ヨシノ)人参(ニンジン)の様な?」

 薫陶が、そう言うと、辰顕が、そうですね、と言った。

「橙色の髪って事ですもんね。吉野人参みたいな色なのでしょうね」


 吉野人参って何だろう、と思った紘一だったが、辰顕が橙色だと言うからには、恐らく、自分の知っている西洋人参の色と、其れ程違わないであろうと推察した。


「赤毛は、赤とは言っても、橙色に近い、かぁ。確かに、其れなら、此方(こちら)で言う赤毛なんて、精々(せいぜい)黒っぽい茶色くらいの色だろうな」

 薫陶は、そう言うと、面白いな、と言った。


 そう、好子は、初対面の賜男に、自分の髪の色を何色と呼ぶか、と尋ね、賜男は其れに答える。


 It‘s red,ain‘t it?

 曰く、Red(赤)じゃないか?と言うのである。


 そして、科木稚子(しなきわかこ)は、好子の容姿に対して、こう言う。

 And hair as red as carrots!

 加えて、髪は人参の様に赤い、と。


 今回、吉田吉雄は、好子に、こう言った。

 Carrots! Carrots!


 野菜の人参を意味するCarrotを複数形にすると、赤毛の人、という意味が有るらしい。

 OrangeではなくRedなのだな、と紘一は興味深く思う。


 Orangeが赤と黄の中間色であるのならば、Redは赤系の色全てを示すのかもしれない。


 だから、海外の『赤毛』という言葉と、此方の『赤毛』という言葉が示す色の違いを、紘一は、薫陶同様、面白いと感じる。

 単語の使い方、此の場合、OrangeではなくRed、橙色ではなく赤、を選ぶ、という、こんな些細な事に、文化による色彩感覚の違いまでもが隠れているかもしれないのだ。


 とは言え、本来は、もっと商業向きの英語を勉強したい紘一であるので、其の様な追究が将来何の役に立つかは分からないが。


「其れにしても良かったな。一昨日は、ずっと眠っているから、心配したよ」

 陶冶が、そう言って紘一に微笑みかけた。


 有難うございます、と紘一は返した。


「包帯も取れたし、良かったね」

 薫陶も、そう言って紘一に微笑みかけてくれた。


「はい、有難うございます。もう、泳いでも構わないくらいだそうですよ」


 何処で泳げと言うのだ、と言う静吉の言葉には同感だった紘一だが、陶冶が、良いねぇ、と言ったので、おや、と思った。


「皆で泳ぎに行く?此れから。風は強いけど、雨は止んだし」


 陶冶の思いがけない発言に、四人揃って、え?と聞き返した。


「兄上。泳ぐって、もしかして」

 薫陶が、恐る恐る陶冶に尋ねた。


「そう。里に戻ろうぜ。今だけ。もう暗いしさ、火災防止の為の夜回り当番の居る時間を避ければ多分、誰にも見付からない。其れに、暇だし。川に行こう?」


 陶冶の明るい返答に、何という大胆な提案、と、紘一は驚いた。


 辰顕は()(かく)、周二は死んだ事になっているし、紘一は、里を逐電した裏切り者夫婦の息子で、清水の双子は匿われている立場である。


「兄上。こんな、月の無い晩に。暗いと怖いし、川で流されても探せない。第一、此の強風でしょう?其れに、下方限(シモホーギリ)の方は蛭が出るから、川は…」


 薫陶が難色を示すと、陶冶は、残念そうに、そうかぁ、と言った。


「でも、何か、言っていたら帰りたくなった。此の強風だから、人手も少なかろう。俺だけでも、一度、家の近くまで戻ってみるよ」


「流石に危ないですよ。なら、俺、一緒に行きます」

 辰顕が、慌てて、そう言った。


「心配過ぎて、待っていられませんよ、そんなの。もし誰かに見付かったら、一人で、何て言い訳なさる御心算(おつもり)ですか?…俺だけでも一緒なら、何とか誤魔化せるかもしれない。そりゃ、俺も、なるべくなら里の人には見付からない方が良いですが、(はる)さん程じゃないですし」


「わぁ、御前、良い奴」

 陶冶は、明るい声で、周二の寝台から立ち上がり、辰顕の寝台まで駆けて行って、右手で、辰顕の左肩をポン、と叩いた。


 清水の双子は、兄の繁雪に対して、言い出したら聞かない頑固者、と言っていたが、其の点は陶冶も、なかなか強情なのである。

 

 辰顕が、此の中で一番目上の陶冶に対して、其れ以上強く言えない上に、説得を最初から諦めている気持ちが、紘一には、よく分かった。


 薫陶は、じゃあ俺も、と言って、辰顕の寝台から立ち上がった。


「本当だよ、兄上。心配過ぎて待っていられないから俺も行くよ。辰にも悪いし」

 薫陶の言葉に、陶冶は喜色満面だった。

「えへへ。二時間くらいで戻ってくれば、夜回りにも見付からないよ」


「じゃ、俺も」

 周二は寂しそうに笑って、そう言った。


 紘一は気付いた。


 周二が、故郷の見納めを覚悟している事を。


「周ちゃんが、そう言うなら、俺も」

 紘一の言葉に、周二は、ハッとした顔をした。


 しかし、また笑って、紘一の方にコクリと頷いてくれた。


 一緒に行こう、と周二は言った。


上方限(カミホーギリ)はね、とっても綺麗な所だよ。俺の育った場所を、紘にも見せてあげたいな」


 紘一が頷くと、じゃ、決まりだ、と言って、陶冶が両腕を天に突き上げた。

吉野(ヨシノ)人参(ニンジン) 昭和四〇年代頃までは栽培されていた郷土野菜。

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