昭和二十年 八月一日 実方辰顕 駆け落ち
炊事場で会った初に、辰顕が湯呑の載った御盆を渡すと、初は、あらぁ、と言って喜んだ。
「辰ちゃん有難う。ついでで申し訳ないのだけれど、安幾ちゃんの御膳を下げて来てくれないかしら」
「はい」
辰顕が奥座敷に向かい、声を掛けると、安幾の、はい、という返事が有った。
辰顕が膳を下げると言うと、安幾は、有難う、と言って微笑んだ。
「一人目の時は、こんなに悪阻が酷くなかったのよ。御米の炊ける匂いを、こんなに辛いと思うのは初めてだわ」
「休める時は休まないと。アッコおばちゃん、今日の御加減は?」
「かなり良いと思うわ」
あの、と、安幾は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね、此の前は。あんな話を急に聞かせて。でも、誰になら話して良いか分からなくて。誰かには聞いてほしいと思うのに」
「構いません。大正十五年の四月の事、知っている大人は話したがらないから仕方ないですよ。そうかと言って、まさか双子や紘には言えないだろうし。他は幼過ぎる。成子で、やっと十ですからね。俺に、と思うのは自然でしょう」
消去法、とも言えるが、話せない程子供だとは思われなかったらしい、というのは、先ず先ず有難い話、という気はする。
安幾は再び、有難う、と言って微笑んだ。
「大きくなって。賢くて、優しい子に育ったわね。懐かしいわ。私、皆のおやつ係の安幾ちゃんだったもの。辰ちゃんは何時も、ふくれ菓子を作ると、柔らかいって言って褒めてくれたのよねぇ」
「そんな事まで覚えているの?懐かしい。美味しかった。うちの母のふくれ菓子は、ダマになった重曹のところが苦かったり、蒸し斑が有って硬かったりしたものだから、当たり外れがあって。柔らかいと嬉しかったなぁ、甘くて」
安幾は、以前は病院の受付嬢だったが、料理が上手く、当時から、よく、病院近くに住む辰顕達に、おやつを作ってくれていたのだった。
景は、別に料理下手では無いのだが、味付けが何でも上品過ぎると言うか、薄過ぎる。
味がバシッと決まらないのだ。
腐敗避けに砂糖を多用する此の地に於いても、菓子も当然の様に甘さ控えめだった。
そして、蒸し料理が其処まで得手では無いのだ。蒸し過ぎて、茶碗蒸しには、よく鬆が入っていた。
安幾のふくれ菓子を、幼心に素直に絶賛していた辰顕だったが、景は其れに対して気を悪くすらしなかった。
形式的な事は熟すが、抑料理自体に然して興味が無いのだ。
自分で炊事をする様な育ちをした人では無かったのである。
「あの、アッコおばちゃん。昭和十年の御正月、皆で里を抜け出したの、覚えています?」
昔話ついでに、と、昔の事を尋ねた辰顕に、安幾は、勿論、と言って笑った。
「あの時は大変だったけれど、私、あの日だけは一生忘れないわ。もう、あんな事一生無いわね。私には大冒険だったもの」
そう、と言って、辰顕は微笑んで、言った。
「女の人は里の外に出るの自体、長の許可が要るのに、其れを勝手に抜け出したのだから、確かに大胆だったね。大騒ぎになって」
安幾も微笑みながら、本当ね、と言った。
「双子ちゃんも、とっても良くしてくれたわ。きっと、もう、一生、私が困ったからって、里から連れて逃げてくれる人は出ないでしょうねって、あの時は思ったわ」
「そんな言い方したら駆け落ちみたい」
辰顕は、そう言いながら笑って、安幾の反応を見た。
安幾は、ええ、と言って笑った。
「当時も、そう思ったの。綜ちゃんが手を引いてくれてね、年回りが合う人とだったら駆け落ちみたい、って。一番御気に入りの振袖を着ていたの、御正月だったから。其れで、追い付かれない様に、って、散々走ったのよ。懐かしいわ。あの子が、もう十七ですものね。あの振袖だけはね、取っておいてあるの。何だか手放せなくて。何時か娘にでも着せたいわね」
安幾は、微笑みながら、自身の下腹の辺りを撫でた。
「女の子が良い?」
辰顕が、そう尋ねると、安幾は、ふふ、と笑って答えた。
「何方でも良いの。悪阻は酷いけれど、久しぶりの妊娠なのですもの。本当に良かったって思っているわ。なかなか二人目が出来なくて。無事に生まれれば、本当に、何方でも良いの。でも、あの振袖は取っておきたいの」
田舎の里には珍しく、吉雄の趣味の良さが発揮された見事な黒い振袖だった。
赤や金で、貝桶と貝合わせの柄が掛かれていたのを、辰顕も何となく覚えている。
景も初も安幾も、良い着物を沢山持っていたのだが、少し残して、下方限に流したらしい。
使うなり売るなり、米と交換してもらうなりしてもらおう、という善意からの事だったらしいが、在りし日の里での華やかさが、其れを境にドンドン薄れていく気がして、辰顕は今でも、百姓袴を見ると寂しくなる事が有る。
防空壕に入るのに、良い着物は要らない。
逃げ惑うには百姓袴が良い。
しかし、昭和の初期までの正月を知っている身には、其れが辛い。
「良い振袖を着て、逃避行かぁ。年回りが合っていたら、本当に綜ちゃんと駆け落ちしていた?」
探る様な気持ちを隠しながら問う辰顕に、安幾は、ま、と言って笑った。
「そうかもしれないわ。でも、流石に、あの子に悪いわよ、そんな話をするのは。私、今度の七夕で満二十七よ」
「ああ、七夕。そうだったねぇ」
辰顕は、思い出しつつ相槌を打った。
旧暦の七夕、八月七日に生まれた安幾は、七夕が秋の季語だから、というので、名が『あき』なのだそうである。
そうよ、と安幾は言った。
「そうよ、第一、今度二人目を産もうと言うのに。あの子には、もっと似合いの年頃の子が居るわ。そろそろ、そんな話も出るかもしれないわ。もう、今度の十一月で、満十八歳ですものね」
安幾の朗らかな笑みに、何だか、綜の事を考えると胸が痛くなる辰顕である。
―年回りが合っていたらね…本当にね。
「ね、あの日、ひこじぃから求婚されたって本当?御見合いだったって聞いていたのに」
「誰から聞いたの?」
安幾は真っ赤になった。
「…やっぱり本当なのか」
「いえ、御見合いだったのは本当よ。でも、事情が有って、結納を伸ばしてしまっていたの。其の間に、病院の受付嬢をやっていたのよ」
「あれ?そうだったの?てっきり御正月に御見合いして、其の場で婚約したのかと」
「いえ、実は前の年の九月には御見合いしていたの。でも、色々有って、御話が纏まらなかったので、俊顕さんが病院を手伝ってくれないかと言ってくださったのよ」
「そんな前に、既に、ひこじぃと御見合いしていたの?」
―受付嬢になる前に見合い済みだったとは。
辰顕の頭の中の時系列が書き換わった。
安幾は恥ずかしそうに続けた。
「ええ、まぁ。其れは、自分の気持ちとしては、一番は、人手が足りなかったから御手伝いさせて頂いていたのだけれど。…本当に、色々有って。途中、実家に戻って母の看病もしたしね。兎に角、三ヶ月近く話が纏まらなかったのよ」
「あ、帰っていましたね、そう言えば。安幾ちゃんのおやつじゃなくなったのは、何と無く覚えています。お和井さん、其れこそ、悪阻でしたっけ?」
「そうよ、御米の炊ける匂いが駄目、って言って、庭で戻してねぇ。今の私みたいに」
「…御見合いの話が纏まる前に御母さんが妊娠ですか。其れはバタバタしたね。そっか、其の看病に戻ったわけだ」
「まぁ、バタバタしたのは、其れだけが原因では無かったのだけれど。本当に纏まらなくて、膠着状態というのかしらね。もう有耶無耶になるのかな、と思っていたところに、昭和十年の御正月の、あの騒ぎよ。あの人が、私達を心配して、病院まで追って来てくれたの」
「え?其れで、求婚されたの?三ヶ月以上膠着状態だったのに?」
「そうよ。案外、あの事が無かったら、未だに纏まらないで、話は御流れになっていたかもしれないわ。…ほら、里を抜け出すだなんて、流石に驚いたのでしょうね。途中、誰かに悪さをされないか、とか、随分心配してくださったらしいの。其れで、其の…兎に角、求婚されて、私も了承して、色々有ったけど、親達も許してくれた、というわけなの」
頬を染めながら語る安幾の話を、辰顕は、愕然としながら聞いた。
―え、じゃあ。結局は、あの逃亡劇が求婚の契機だったって事?
言えない、と辰顕は思った。
今此の場で、此の話を墓まで持って行く事を辰顕は決めた。
事実は兎も角、綜本人が知ったら、良くて当て馬、悪くて道化という感想を口にしかねない。
辰顕は、動揺を隠して、更に問うた。
「もし、ひこじぃが追って来なくて、求婚されなかったら、如何していたと思う?」
「そうね、もしかしたら、『水配』に参加していたかも知れないと思うわ。綜ちゃんが勧めてくれたの。長に掛け合ってくれるって。私も、こんな騒ぎを起こして、もう御見合い話も御流れだろうし、里を抜け出す様な娘には嫁ぎ先なんて無くなっただろうから、長に結婚相手を決めて頂こうかしらって思い始めていたところだったのよ」
―うわ、余計言えない。
当時、やはり本当に、綜の目論見は途中までは成功しかけていたらしかった。
「アッコおばちゃんも、ひこじぃの事、其の前から好きだったの?」
安幾は、恥ずかしそうに、ええーっ、と言った。
「もう、本当に、誰から聞いたの?そんな話」
綜から、と言って良いものか悩んだ辰顕は、話の出所を有耶無耶にする事にした。
「ごめんなさい。からかう心算ではなくて。そういうのが分からないから、聞いてみただけで」
後半は辰顕の本心でも有った。
「分からない?」
安幾は、赤くなった両頬に、自分の両掌を添えながら、聞き返して来た。
「はい。誰かを好きになったり、所帯を持ったりするって、如何いう気持ちなのかなって。十六になってみたところで、全く分からないもので。九月で十七だけど」
「まぁ、意外。好きな子居ないの?」
「どうも、親が言うには、小さい頃は、そういう事も有ったらしいですけど、記憶に無くて。そんな、忘れる様な事、初恋って言えるのかなって思って。所帯を持つっていうのが現実味を帯びる年になってみると、此れまたサッパリ分からなくて」
「そうなの…」
安幾は、うーん、と言った。
辰顕は、今度は、心からの質問をしてみた。
「所帯って、持ってみて、如何でした?」
「そうねぇ…」
「俺も、親が決めた人と一緒になるのかな、と思うけど。ひこじぃから求婚されたとなると、ちょっと俺とは事情が違うのかな、とも思って。恋愛結婚というか。其の辺りも含めて、如何でした?」
「ああ、確かに、辰ちゃんに御見合いの話が来そう、というのは、在りそうな話ね。そうね…私の場合…十一歳年上でしょう?あの人の方が。あの頃は私、其れで随分背伸びしていたのよね」
「アッコおばちゃんでも?」
「え?如何いう意味?」
安幾は、キョトンとした顔で、聞き返して来た。
「いや、俺にとっては、アッコおばちゃんって、最初から大人だったから。竈と蒸篭で、おやつを拵えてくれる大人の人って思っていたもので。背伸びとか、想像つかなくて」
「成程。私、辰ちゃんより一回り近く年上ですものね。そういう意味ね」
安幾は、ふむふむ、と頷いた。
「何だか、年上の人って、自分より何でも知っていて、遣る事為す事輝いて見える事が無い?」
「分かります」
「私は、あの人に対して、ずっと、そうだったの。だから、凄く格好良い人だと思っていたの。だけど、一緒になってみたら、凄く、面白い人だったの」
「あー…其れは、何か分かります」
辰顕は妙に納得した。
此れだけ長い事可愛がってもらっているのに、甥の自分にすら謎の部分が在る人物なのだ。
顕彦の、其の解き明かせない部分が、魅力になり得るであろう事は、男女の機微に然程聡くない辰顕にも理解出来た。
「其の…どんな人なのかしら、何を食べて生きていたら、あんなに格好良いのかしら、って、思っていたのだけれど」
―え?其処まで思っていたの?
結構思い込みが激しくないか、と思ったが、辰顕は黙って聞いていた。
「一緒になってみたらね、思ったより、ずっと読めない人だったの。次の行動の予測が全くつかなかったの。面白いなって思ったわ。其れで、未だに飽きが来ないの」
「分かります」
甥の自分から見ても、見ていて飽きない叔父だとは思う。
辰顕が、顕彦について考えを巡らせていると、廊下から、ちょっと、ちょっと、という声がした。
「安幾ちゃんてば、うちの甥っ子を捕まえて、何を惚気話しているのさ。襖開いているのに」
軍服姿の栄が、ヒョイッと襖の陰から顔を出すと、安幾は再び真っ赤になって、キャッ、と言った。
栄は、奥座敷に入って来ると、立った儘、からかう様に言った。
「吃驚するじゃない。格好良いとか、飽きが来ないとかさぁ」
「もう、吉兄の意地悪。良いじゃない。辰ちゃんは私の甥でもあるのですからね」
栄と安幾は遠縁だが、兄妹の様に育ったらしく、安幾は時々、栄を『ちきにぃ』と呼ぶ。
栄は、幼名が栄吉だったらしいのだが、安幾達は幼少の砌には栄吉兄と言えなくて、皆で吉兄と呼んでいたらしい。
顕彦叔父、が、ひこじぃ、になったのと、経緯は殆ど同じである。
幼い頃から一緒に育った者、という事が窺える愛称である。
辰、と栄は言った。
「安幾ちゃんはね、顕彦さんの事が好き過ぎて、今も時々、コッソリ陰から見ているの」
「何故御存知なの?」
怒った様に言う安幾に、栄は珍しく、ニヤニヤして見せた。
「御存知も何も、そういう時話し掛けても、安幾ちゃん返事しないもの。顕彦さんしか目に入らなくて」
だって、と安幾は珍しく言い訳がましく言った。
「ずっと見ていると気持ち悪いと思われるかもしれないから、コッソリ見ているのに」
「ああ、本当は、ずっと見ていたいのか」
栄の言葉に、安幾が、真っ赤になって、珍しく、子供の様に、嫌い、と言った。
「嫌い、嫌い、吉兄、大嫌い」
今更、辰顕の方から安幾に、顕彦との所帯について話を聞きたがった、とは栄に言えないくらい、ややこしい話になってきたので、辰顕はコッソリ安幾の膳を持って、奥座敷から出た。
背後から、栄の笑い声がする。
辰顕は下膳の途中で顕彦に会った。
顕彦は疾うに浴衣に着替えていた。
辰顕に、よう、と声を掛けてきた顕彦は、奥座敷の方を見ながら首を傾げた。
「俺の役者顔の義弟は、何を、妊婦を興奮させているのかねぇ。俺の知っている限りじゃ、うちの義弟は医者だった筈だが」
「ああ、じゃれているのではないでしょうか」
まさか、顕彦が格好良いとか、飽きが来ないとか、好き過ぎて、ずっと見ていたい、などという内容が奥座敷で交わされていたとは言えない辰顕である。
「はぁ、またか。相変わらず仲が良いねぇ」
顕彦は、そう言って笑いながら、自身も奥座敷に向かった。
またか、と言われてみれば、確かに、栄は、ごく偶に、ああして安幾を、からかっている気がする。
そうでない時も、辰顕には、栄と安幾が兄妹の様に見える時が有る。
妹達の事を思い出すと、辰顕には少し懐かしく、微笑ましい遣り取りだった。
妹というのは、久しぶりに会っても、割と平気で此方を邪険にしてくるし、率直で無慈悲で辛辣な事も偶に言ってくる存在である。
可愛いところも有るが、其れこそが妹であり、異性の身内の本質だと辰顕は思う。
―綜ちゃんも、アッコおばちゃんと、栄さんくらいの距離感で接する事が出来れば、あんなに悩まなかったかもしれないのに。
今日辰顕に分かった事は、兎に角、顕彦と安幾の間には、綜の割り込める様な隙間は無い、という事だけだった。




