昭和二十年 八月一日 坂本紘一 反省文
昭和二十年 八月一日 水曜日
最低気温24.4℃ 最高気温31.5℃ 晴れ時々小雨のち晴れ 強風
栄五が、一週間には少し早いが抜糸が出来るか否か診てくれると言うので、紘一は嬉しかった。
包帯は、もう暑いのである。
自分の寝台に腰掛けている紘一を、栄五が診た。
「綺麗に塞がっているね。やはり若いと治りが早い。今抜糸して、消毒しよう。もう包帯は要らないね。夜までには瘡蓋になるだろう。御風呂で濡らしても大丈夫だし、明日からは畑に出ても良いよ」
少し痛んだが、紘一が思ったよりアッサリ抜糸が済んだ。
紘一が微笑んで礼を言うと、栄五は、笑って紘一の頭を撫でた。
顕彦や栄五と一緒に来ていた俊顕も、診察の為に椅子に座る栄五の背後に立って、良かったなぁ、と言って笑った。
「明日からは泳いでも良いくらいだ」
俊顕の言葉に、紘一の寝台に腰掛けて様子を見ていた静吉が笑った。
「おいおい、俊顕。何処で泳ぐと言うのだ。でも、良かったな、紘。ずっと包帯が巻かれていては不便だったからな」
静吉は紘一の前髪を、そっと掻き揚げて、傷を見た。
俊顕の隣に立っていた顕彦も、静吉の手元を覗き込んだ。
「お、傷は、もう本当に良さそうですね」
そうだな、と静吉も同意した。
「ただ、一寸くらいは傷が残ってしまいそうだが」
紘一は、其の件については、全く気にしていなかった。ので、いえ、と言った。
「気にしません。破傷風になったり、化膿したりするより、うんと良かったです」
そうだな、と言って静吉は微笑んだ。
自分の寝台に座って様子を見守っていた辰顕が、あの、と言った。
「今日は御揃いで、如何なさいました?空襲の後は召集されたのでは?」
俊顕も顕彦も栄五も、三人揃って軍服なのだ。
確かに物々しい。
静吉と辰顕と紘一が国民服なので、病室の中が国防色で満たされている気がして、紘一は暑苦しく感じる。
其れがなぁ、と俊顕は言った。
「綜が昨日、長の使いで荻平さんの家に届け物をしたらしいのだが。其の後空襲警報が有って、全員召集された時、なかなか綜が戻って来なくて。夕方頃戻って来たので、長が捕まえて説教しようとしていたら、巧妙に逃げ回っていたらしくて、結局会えなかったらしい。昨夜、長が此処まで来たらしいが、遂に会えなかったそうでな。何なら代わりに説教しておいてくれとの仰せだ。其れで三人揃っている、というわけだ」
「親の代わりに叱っておいてくれっていう子育てって如何なものですかねぇ」
顕彦は呆れ声で、そう言って、頭の後ろで腕を組んだ。
俊顕も、まぁな、と言った。
「其れでも三人も要らないよな、正直な話。一人でも良さそうな話なのに。つまり見せしめさ。長の息子が遅れて来て、何の罰も無いのでは里の者に示しがつかないだけだろ。とは言え、長の息子に体罰っていうのも恐れ多い話だし、皆の前で説教、というのが一番の落としどころかな、此方としても。ま、三年も足を踏み入れなかった此の場所に、空振りだったとしても、長本人が綜に会いに来たってだけで、大した進歩さ」
俊顕の言葉に、顕彦は、情けないですねぇ、と言った。
「自分の言う事は聞かなくても、俺達三人の誰かの話は逃げずに聞くかも、って話ですか?大体、説教って、次は気を付けろ、くらいで済みそうな内容じゃないですか。空襲警報で隠れていて、なかなか里から戻って来られなかっただけかもしれないでしょうに。あいつも、里の防空壕の位置を全部把握しているわけでは無いでしょうしね。…何でしょうね、綜に反省文でも書けって事ですかね」
「あ、其れ、良いですね」
栄五は、診療道具を診療鞄に片付けながら、おお、と言う様に顕彦を見て、椅子から立ち上がって、続けた。
「反省文を書かせて提出させて、全員の前で読み上げ、で、御茶を濁せませんかね。三人揃って説教するより効率が良いでしょう」
俊顕も、其れだ、と言った。
「説教した証拠にもなるな。文章で残そう。よし、綜に話してくる」
俊顕は、意気揚々と病室を出て行った。
「そうしますか」
顕彦は明るい顔をして、去る兄に、そう声を掛けると、頭の後ろで組んだ手を解いて、辰顕の座っている寝台に、辰顕と隣り合って座った。
栄五も、椅子に再び座り直した。
「長が昨夜いらしていたのですか?」
辰顕が顕彦に尋ねた。
そうらしいな、と顕彦は言った。
「まぁ、もう寝静まっている様な時間だったって話だ。仮眠室を覗いたが、綜も周も居なかったとか何とか言っていたぞ」
あ、やっぱり狐じゃなかったみたい、と紘一は思ったが、黙っていた。
「御前達、綜が居ない日は此処で、三人で寝ているのか、仲が良いなぁ」
顕彦は、そう言って、嬉しそうに笑った。
静吉も栄五もニコニコしている。
集まって敵性語の本を読書しているとは言えないので、紘一は、辰顕と顔を見合わせて、気不味い気持ちで笑い合った。
―そうだ、昨日は俺が寝入っていたから、読書会出来なかったのか。後で治さん達に謝らないと。
「…あの、何だか、抑綜ちゃんを御説教なさる気は無いみたいですね、皆さん」
紘一の問いに、顕彦は、脚を組み、アハハ、と笑った。
充分長い脚だと思うけど、と思ったが、顕彦には脚の話はしない事に決めた紘一は、続く顕彦の言葉を待った。
「そんなもん無いなぁ。第一、元々あんな実験させたいわけじゃ無いのに、戻るのが送れたくらい、なぁ。見せしめなんてものが一番下らないと俺は思っているからさ。面子が如何とか、ああ、馬鹿馬鹿しい。そうかと言って、命令してきた相手の顔も潰せないから、まぁ、叱ったって事にして、一枚書かせて。三人で、さも、散々叱り散らかしたかの様な顔をして、反省文まで書かせたのか、此処までしなくても良かったのに、っていう展開に持って行こうかな。で、綜に名文を書いてもらおう。綜、割と上手いよ」
其れは上手そう、と紘一は思った。
あんな場所、と言って、顕彦はニヤッと笑った。
「別に行かんでも兵役忌避にもならんでしょうよ」
顕彦の言葉を窘める様に、栄五が、ちょっと、と言った。
―あ、もしかして。
紘一が静吉を見ると、静吉は栄五と顔を見合わせて苦笑いした。
やはり、顕彦も栄五も里の従軍に付いて、知っていて知らない振りをしているらしい。
そして多分、静吉も気付いている。
顕彦は、お、と言って、辰顕と紘一の顔を見て、ははーん、と言った。
里の正式な従軍者が実は殆ど居ないという事に、顕彦と栄五が気付いているという事実を、二人が気付いている、という事が、静吉と紘一の遣り取りで、顕彦にも分かってしまったらしい。
「そんなに賢くなくても良いのに。そんなに物事が、よく見える目だと、世の中生き難かろうに」
顕彦は、そう言うと、悲しそうに笑って、なぁ、と栄五に言った。
「何時気付いたの?」
栄五も、悲しげに笑って、紘一の方を見て、そう言った。
初日です、と紘一が白状すると、顕彦がケラケラ笑った。
「やっぱり誠吉さんの子だねぇ。誠吉さんに初日に看破された時には驚いたが、蛙の子は蛙だ」
「繁雪さんには態と気付かせようとなさったのですか?」
辰顕が、そう言うと、顕彦は、驚いた様子で、おいおい、と言った。
「揃いも揃って賢いなぁ。御前達、気が合うだろう」
顕彦は、組んでいた脚を解いて微笑むと、居住まいを正して、続けた。
「そろそろ気付く奴が居ても良い頃なのさ。知らなくて良い事も有るが、知らずに居る儘でも残酷、って事は有るからな。うちの兄上ですら俺や栄に隠しておきたい御様子だが。俺達は、皆に、自分で疑問を持ってほしいのさ。如何してなのだろうかと、自分で考えてほしい。其れが一番の近道だからな。但し、里の外を知らない者が多過ぎるからな。要は世間知らずってこった。里の者の何人が、何処まで分かるだろうな」
近道?と辰顕が言うと、そうだよ、と顕彦は言った。
「本当の事、っていうのは、何の予備知識も無しに、其れだけ聞かされても、本当の事だと思えない事が有るのさ。おかしい、と、自分で思ってほしい。急に、本当は正式に自分は従軍していない、って聞かされてみろ。信じない奴の方が多いよ。繁雪さんは、分かってくれそうだったからさ」
あ、と栄五が言った。
「紘、もしかして鎌を掛けたね?」
顕彦も、あ、と言った。
「そういう事か。辰もグルだな?やられた。こいつ等、賢過ぎる」
話が見えんのだが、と静吉が言うと、顕彦が静吉に抗議する様に言った。
「こいつら酷いのです。こっちの所属と部隊の確認をしてきまして。あれは、俺達が陸軍に従軍しているか否かの確認だったわけだ」
あー、と言って静吉は笑った。
「そりゃ確実だなぁ」
「何で、そんなに爽やかに笑って居られるのです。どんな育て方したら、こんなに賢く育つのですか」
「いや、単に富に似ただけだろ」
紘一は、父の言葉に、思わず、え?と言った。
静吉は続ける。
「富は賢かったぞ。俺は一度も、富より自分が賢いと思った事は無い」
顕彦と栄五は、ほー、と言って感心した。
「誠吉さんが、其処まで思われる程とは」
「富本人は自分の事を賢いとは思っていなかったが」
成程、と顕彦は言った。
「坂元さんとこって、そうですよねぇ。揃いも揃って自己評価の低い御人好し。何ですか、遺伝でもするのですか、そういう性質は」
「…其の話だと、うちの成子は誰に似たのでしょうかねぇ。気が強くて、もう」
栄五が、そう言って、遠い目をした。
顕彦は、う、と言った。
「…顔は、うちの妹似だけどなぁ。泣き黒子が有れば、殆ど同じ顔だろ。…いや、自己評価は高いと思うぞ、成子は。…うん。人が好いか如何かは分からんが」
紘一も、確かに成子は御喋りで、気が強そうだとは思っている。
しかし別に、自分より年が下の子供の面倒見は良いし、家の手伝いもしているし、時々紘一の心配もしてくれるし、紘一自身は、成子は賢くて優しい子だと思っている。
―あんな小さいうちから、成ちゃんの性質を決め付けなくても良いと思うけど。まぁ、栄五叔父さんと成ちゃんは気が合わないかもね。
何せ、朝目が覚めて鏡を見たら、あの初に似た美しい顔が鏡に映るのが当たり前の人生を十年間過ごしてきているのだ。
オマケにと言っては何だが、恐らく、栄五に似てか、成子は脚が長い。
自己評価を低く持ち様が無かろうし、気位が高く育ちそうというものである。
そして、子供特有の悪戯心から起こさせる感情が、時々きつい言動で発露しているのかも分からず、分別が付けば、長じてまで、そういう言動をするか否かは分からないのだ。
静吉は、栄五の様子を見て、アハハと笑った。
其の時、病室の扉を叩く音がして、俊顕が中に入って来た。
「書かせたぞ、反省文。なかなかの美文だ。俺達三人から、こっぴどく叱られた事にしろ、って口裏合わせておいた。此れ、三人で提出しちまおう。行くぞ」
顕彦と栄五も、行きましょう、と言って立ち上がった。
「あ、栄、出来たら、後で安幾ちゃんの様子を診てくれないか」
顕彦が、そう声を掛けると、栄は、はい、と言った。
俊顕も、辰顕に声を掛けた。
「そうだ、辰、湯呑の載った盆を下げてくれないか」
はい、と言って辰顕が立ち上がった。
病室御入り口近くの寝台に、皆で飲んでいた茶の入っていた湯呑が載った御盆が有るのである。




