昭和二十年 七月三十一日 坂本紘一 吉野狐
紘一が目を覚ますと、外は薄暗かった。
何時の間にか、国民服から、白っぽい浴衣を着せられていた。
傍に居た周二と辰顕に付き添われて、寝台から体を起こしたが、異様に体が重く感じ、昼くらいからの事が何も思い出せない。
其の儘寝台の縁にボンヤリ座っていると、病室に、静吉が食事を持って来てくれた。
顕彦は軍の方に行ったらしい。
食べ物を食べると、紘一は、再び眠ってしまった。
目を覚ますと、周二も辰顕も、紘一と同じ病室で、何時もの寝台に眠っていた。
―真っ暗だ。今何時だろう。
如何やら自分は長い時間眠ってしまったらしい、という事しか、紘一には分からなかった。一日が、あっという間に終わってしまった。
―そう言えば空襲警報が聞こえていたけど、如何なったのかな。
紘一は、顔でも洗おうかと、手拭いを持って、そろりと寝台を抜け出した。しかし、何と無く空襲の被害を確認したい気がして、洗面所ではなく、着せられていた、誰かの白っぽい浴衣の儘、庭に出た。
自分には少し大きい男物の浴衣なので、祖父の浴衣かもしれない、と紘は思った。
筒袖では無いので、寝間着用では無いらしい。
夜の空気は涼しく、外は静かだった。
暗闇に目が慣れてきた紘一は、病院の庭を見渡した。
―何事も無かったみたい。兎に角、今日も此処は焼けなかった。
しかし、何となく確認、と思って外に出てはみたものの、紘一は、此処が無事な事を、頭の何処かでは知っていた様な気がする。
庭に出た紘一は、母屋の井戸の所に向かい、顔を洗ってから、ついでに、諸肌脱ぎで、濡らした手拭いを絞って体を拭いた。
行水は出来ないまでも、身を清めたい気分だったのである。
包帯を濡らさない様にするのは骨なので、頭から水を被れない。
面倒だが此れで良い、と紘一は思った。
夜風も心地良く、心持ち気分がスッキリした紘一は、着物の襟を正した。
濡らした手拭いを頭から被って、手拭いの両端を手で持った。
―何だか、何処かで微かに、木が焼けた様な匂いがするな。
悪臭では無いし、火事が有った感じもしないのだが、香炉の灰の様な、何かが焼けた香りが移った様な匂いが、仄かにするのだった。
紘は、其の匂いの元が分からず、不思議だった。
―でも、良い夜だな。涼しくて。
紘一は、夜は嫌いでは無い。
自分を隠してくれる気がするのだ。
ハッキリ見えない状態が必ずしも悪いとは思わない。
明るいと、物が見え過ぎる気がする紘一である。
現実は、ぼやけて見えるくらいが優しく感じる時が有る。
こんな夜は、特に、そう思うのだ。
―また何処かに爆弾が落ちちゃったみたい。
しかし、周二と辰顕が穏やかに眠っていた事を思い出すと、何事も無かった様にも思えてしまう。記憶が無い事は不安にはなるが、友人達が傍らで穏やかに眠る事は幸いである。
ふと、ヨシ、という声がした。
―Good?何だ?こんな時間に掛け声を掛ける様な変な人が居るの?
紘一は、訝しく思いながら、手拭いを被った儘、半眼で、声のした方をジッと見た。
軍服姿の麗しい男が居たので、何だ、綜ちゃんが帰って来たのか、と、暗いが、紘一は、其の様に認識した。
しかし其の人物は、複雑な表情をして此方を見ている。
紘一が何より驚いたのは、其の表情が最初、何処か喜色を帯びている様に見えた事である。
「綜ちゃん?」
紘一が声を掛けると、其の人物は、ハッとした顔をして、少し怒った声で、誰が綜一だ、と言った。
少し低いが、やはり綜一の声、という気がした。
あとは、こんな声なのは、綜一でなければ、周二だろうか。
「しゅう」
では周二なのか、と紘一が問おうとしたところ、其の人物は、ピタリと動きを止めた。
―やっぱり周ちゃんなのかな。でも普段、あんな話し方しないけど。
紘一は、もう一度声を掛けてみた。
「しゅう」
周ちゃん、と言い掛けて止めると、相手は、少し驚いた様子を見せた。
未だ此方をジッと見ている。
―此の人…しゅう、っていうのかな。
何と無く、紘一は、そんな気がした。
紘一が、暗闇を見詰める為に半眼にしていた眼を大きく見開き、其の人物を見ようとすると、相手は、ふん、と言った。
「誠吉の息子か」
―綜ちゃんは、こんな言い方しない。周ちゃんだって、しない。
では、誰なのか。
「会わなかった事にしてやる。隠れるなら、ちゃんと隠れていろ」
―…此の言い方は綜ちゃんの様な気もするけど。
気付くと、肩をポンと叩かれたので、紘一が驚いて後ろを振り返ると、何と、軍服姿の綜一が居た。
「紘、如何した?こんな時間に何をしている?」
紘一は、あまりの事に、一瞬口が利けなかった。
慌てて、先程の人物が居た方を見たが、誰も居なかった。
綜ちゃん、と、紘一は、戸惑いながら声を掛けた。
「今、今ね、あっちに綜ちゃんみたいな人が居たの」
「如何した、紘。俺は今帰って来たところだぞ」
「ええっ?」
紘一は、綜一の顔を繁々と見た。
「あのね、軍服の人。凄く似ていたの、綜ちゃんに。暗かったけど、綜ちゃんかな、と思ったの。でも違ったのか。あんなに似ている人居るのかなって。周ちゃんは寝ているし」
綜一は、紘一の言葉を聞いて、何か思い当たった様な顔をしたが、あー、と一言言うと、実に嫌そうな顔をした。
「…そりゃ狐が化けたのだろうよ。吉野の演習場は未だ狐が居るからな」
「へ?」
「四十路前くらいの古狐だろうな。年を取ると人に化けるらしいぞ」
綜一は、ふん、と言った。
物の言い方まで似ていたけど、と紘一は思った。
「そんな、よく分からんものには会わなかった事にしておけよ。大体、なるべく里の人間からは見られない方が良いのだろう?御前は。隠れるなら、ちゃんと隠れていろ」
―あ、言っている内容も、なんか似ているな。
紘一は別に狐の話を信じたわけでは無かったが、踵を返して、病院の中に入って行こうとする綜一に、慌ててついて行った。
―やっぱり此の里、変なのかも。そうじゃ無きゃ、あんな、よく分からないものを見るわけが無いもの。
軍靴を脱ぐ為に病院の玄関に座った綜一に、紘一は、下駄を脱ぎながら声を掛けた。
「綜ちゃん遅かったね」
綜一は、まぁな、と、何だか後ろめたそうに言った。
何か変だな、と紘一は思った。
―先刻の狐程じゃ無いけど。
あ、と、紘一は言った。
「先刻の人、うちの父さんの事、知っていた」
綜一は、脱いだ軍靴を手にして立ち上がると、目を閉じて上を向いて、言った。
「…狐だよ」
「まぁ、シュッとした人だったから、狸っていうよりは狐っていう気がしたけど」
紘一が、そう言うと、綜一は吹き出した。
おや、と紘一は思った。
―そっか、綜ちゃん、知り合いなのか。綜ちゃんに似ていたって事は、…つまり、そういう事だろうな。…暗かったから、段々自信が無くなってきたけど。
「狐って事にする」
紘一の其の言葉に、綜一は、助かる、と言って、スタスタ歩いて行った。
―あ、やっぱり、そういう事か。
紘一は、綜一と別れて、病室に、そっと戻った。
やはり、周二も辰顕も、よく寝入っていて、あれは周二では有り得ないという事を紘一に確信させた。




