昭和二十年 七月二十六日 実方辰顕
実方辰顕は、笑いながら、此の突然の来訪者を、実に自然に受け入れている自分に内心驚いていた。
多分其れは、一つは、此の坂元紘という少年の目のせいであろう、と、辰顕は思う。
可愛がってくれていた坂元糺に、そっくりなのである。
糺は綺麗だった。
七十を疾うに過ぎていた老人を綺麗と言うと、普通は何だか妙だと思われるかもしれないが、辰顕の知る人は、ほぼ全員が、あの人は綺麗だと言った。
辰顕には、糺は、年を取った人間、というより、雪の中にある枯れ木の様な、何か、美しく枯れたもの、という感じがしていた。
紘も、なかなか綺麗だ、と、辰顕は思った。
かなり痩せてしまっていたが、体格は悪くなかった。
何か武道をやっている様な雰囲気も在る。
「辰で良いよ」
湯に浸かる紘に、辰顕が、そう言って微笑むと、紘も微笑み返してくれた。
「有難う。俺も、紘でいいよ」
「辰でも良いけど」
「え?」
「こっちでは辰って呼ばれているけど、学校では辰。同学年に、辰ちゃんが多くてさ。幾ら辰年生まれだからって。同じ組にも辰夫と辰之が居て、下の名前で呼ぶと、ややこしいからって、俺が音読みになったってわけ。辰次も居るけど、そっちは組が違うから」
「ああ、うちも、同じ学年に、辰巳とか、辰治とか、居るなぁ」
「そうだよね。多分其の子達も辰年だろ。同じ学年は殆ど辰年なのにさ。思ったより大変だよ、此の名前」
辰顕の諦めの言葉に、紘は、そう、と言って、続けた。
「俺は巳年。二月生まれ」
「ああ、紘は早生まれか」
「そう。二月十八日生まれだから、満で十六歳」
「俺は九月二十四日生まれ。再来月十七だな。まぁ、こんな、学年とか学校の話したって、六月から、まともに学校に通えていないけど」
「ああ、六月の空襲、酷かったらしいね。市街地を見て来たけど」
泥だらけの時は分からなかったが、紘は、服を脱いでいると、かなり色白だった。
辰顕は何だか、あまり見ると悪い気がして、世間話を続けながらも、なるべく紘を見ない様にしていた。
そして、そんな世間話をしながら、話し方といい、表情といい、何処か淡々とした雰囲気がする少年だ、などと、辰顕は思っていたので、湯船の方から啜り泣きが聞こえてきたのには驚いた。
そして思わず、ギョッとして紘の方を見てしまった。
紘は、辰顕の視線に気付くと、ごめん、と言って、目を擦った。
「急に悲しくなってきて。分かっていた筈だったのに。御祖父様の葬儀には間に合わないって」
「仕方無いよ」
辰顕ですら、自分達を可愛がってくれていた、子供好きの糺の死に、散々泣いたのに、孫である紘が平気な筈は無かろう、と思い、辰顕は慰めの言葉を探した。
「彼方此方爆撃を受けて、酷いって聞いているよ。半月掛かっても、此処に辿り着いただけ、凄い事だよ。本当のところ、もう来ないかと思っていたもの」
「もう、そんなに?今日は何月何日?」
紘は酷く驚いた様子で、辰顕の顔を見た。
其の目を見て、辰顕は、息を飲んだ。
―何て美しい目だろう。此の目、見た事がある。
見開かれた紘の瞳は、鷹とか鷲といった、猛禽の目に近い様に思える程、大きくて、澄んでいる。やはり紘の目は糺と似ている、と、辰顕は改めて思って、言った。
「今日は、七月の二十六日だよ」
紘は、そう、と、悲しそうに呟いた。
「教えてくれて有難う。本当だ、あれから半月も経ってただなんて」
「大変だったね、何日も」
辰顕が、そう言うと、紘は、急に、焦点の合わない様な目をした。
「紘?如何したの?」
「南瓜が黒焦げだった」
「え?」
「彼方此方焼けて。逃げる途中、間に合わなくて、出産してしまって、其の儘、臍の緒で結ばれた儘、母子で死んでしまっている人も居て。小さい子が、大きな背負子を背負った儘、真っ黒に焼けちゃって。背負子の中に入っていた野菜も黒焦げで、南瓜が」
そう言いながら、紘は、震え出した。そして、何か、グッ、グッ、と、言おうとする動作をして、両手で自分の喉を押さえた。
「紘?紘!」
辰顕は、慌てて紘の両肩を掴んだ。すると、背後で突然、こりゃいかん、という声がして、風呂場に誠吉が入ってきた。
「遅いと思ったら。紘、大丈夫か。落ち着け」
紘は、頷いて、ゆっくり息をしようとした。誠吉は、紘の両肩を掴んだ儘の辰顕に、すまん、と言って、自分も、紘の両腕を掴んだ。
「紘を湯船から出すのを手伝ってくれないか」
「はい」
紘は、二人の遣り取りを聞くと、首を振って、自分の両手で二人の腕を、弱々しく払った。
そして、自分で湯船から出て、体を拭いた。
誠吉が紘に浴衣を渡すと、紘は、ザッと其れを羽織った。
そして中腰になると、両膝に両手を置いて、ゆっくりと深呼吸を始めた。
誠吉は、再び、すまん、と辰顕に言った。
「驚かせたね。紘は最近、こうやって、時々、声が出なくなる事があるのだ」
「そうだったのですね。俺、水、持って来ます」
辰顕は、そう言いながら、先刻まで紘が使っていた湯呑を手にした。
「ありがとう、辰顕君」
「辰で良いですよ」
辰顕が、湯呑に水を入れて戻って来ると、紘は大分落ち着いていた。
「紘、此れ、飲んで」
紘は青い顔の儘頷いて、辰顕から湯呑を受け取って、礼を言った。
「有難う」
「うん。さ、兎に角、水を飲んで」
紘が水を飲むのを見た誠吉は、おお、と、安心した様な声を出した。
「よし、もう大丈夫そうだな。其れでは、俺は一足先に、上座敷に行っているから、紘も、身繕いしたら上座敷においで」
「かみ、ざしき?」
ゆっくりと、少しずつ水を飲んでいた紘は、誠吉の言葉にキョトンとした顔をした。
「ああ。俺、紘に付いていますから。後で、俺が上座敷まで紘を案内します」
辰顕の提案に、誠吉は喜んだ。
「有難う、辰。着いて早々、世話になるね」
「いえ、御疲れでしょう。積もる話も御有りでしょうし、此方こそ、父を宜しく御願い致します」
分かった、と言って、誠吉はクスリと笑った。
辰顕は其の顔に再び糺を思い出した。
とても優しい笑顔なのに、生前はニコリともしなかった糺が、急に生き返って若返り、穏やかな笑みを浮かべている様に思えて、辰顕は違和感を覚えた。
其れにしても美しい目だ、と、また辰顕は思った。
誠吉は、糺や紘と同じ、透き通った様な、綺麗な黒い瞳をしている。
此の目が、こんなにも、見惚れる様な、美しい光を湛えているのは如何いう訳なのだろうと、思わず、辰顕は一瞬、分析する様な気分で、誠吉の目を見た。
糺の目には、少し白内障の症状が出てきてしまっていたが、四十路だという誠吉の目には未だ其の様な様子は無かった。
誠吉は笑顔の儘、踵を返した。
其の、去る背中を見ながら、辰顕は無性に糺に会いたくなった。
紘、誠吉、と、順に見た後に、一緒に糺の姿を見れば、糺という人間の、成長と老いの軌跡が見て取れるのかもしれない、と思った。
しかし、もう其れは叶わないのだ。
「有難う。俺、もう落ち着いたから。母屋に行こう」
そう言いながら、弱々しく微笑む紘の顔を見て、辰顕は、とても気の毒になった。
目の前の少年が、糺の最後の為に、散々な思いをして、やっとの思いで此処に辿り着いたという事実を、もっと思い遣ってやるべきかもしれない、と、辰顕は思った。
「もう少しゆっくりしたら良いよ。暫くしたら夕餉だから、其れに間に合えば良い」
「え?夕餉?未だ明るいけど」
「ああ、此の辺りはね、夏は、十九時くらいが日の入りの時間だから。今も、もう十七時過ぎだよ。明るいけど」
紘は、驚いた顔をして、道理で御腹も空くわけだ、と言った。
「ああ、日付だけでなくて、時間の感覚も無くなっていたのかも。広島の辺りで、時計を食べ物に換えちゃったのは良くなかったかな」
「…其れは、本当に大変だったね」
辰顕は、そう、心から言った。
声が出なくなる様な経験も、貴重品を食べ物に換えながら長距離移動した経験も、流石に無い。
紘は続けた。
「父さんの時計と俺の時計と、二人分。其れで、何か、餡子の無い饅頭みたいなやつと、大きな鯣。あと、茹で卵二つ。乾物は助かったよ。九州に入るまでは日保ちしたから」
痩せちゃった、と、紘は、寂しそうに呟いた。
顕彦の御古の、紺色の浴衣を着た紘は、そう言って、未だ濡れている髪を、手拭いでワシャワシャと拭き、更に言った。
「肋骨が出てきたし、髪も伸びたな。結構日に焼けたし。泥じゃなくて、日焼けだったって、洗ったら分かった」
「え?其れで日に焼けた方なの?」
辰顕は驚いた。
うん、と紘は答えた。
「俺、あんまり綺麗に日焼けしないらしい。焼けると真っ赤になって、火傷みたいになるから、痛くなって困るよ。赤みが引くと、少し日焼けした色が肌に吐くけど、あんまり黒くはならなくて。其れにしても、流石に日に焼けたよ。用心して、帽子に手拭い被っても、此れだもの」
「そうなのか」
此れだもの、と言われても、辰顕には、紘が何処を日焼けしたのか、よく分からなかった。
先程まで一緒だった誠吉も、真っ黒に焼けた、という様子では無かったが、綺麗な象牙色の肌をしていたので、余計に、紘が色白に思えるのかもしれない。
そんな事を考えていると、不意に、紘が、あの美しい目で、ジッと、辰顕の目を見てきたので、辰顕は、少し驚いた。
「辰の言っている言葉って、凄く、よく分かる」
「言葉?」
「殆ど訛らないね。此処にいる人達、皆そうだ。ちょっと時代がかった言い方するなって思う時もあるけど」
「ああ、そういう事」
「ホッとする。特に、九州に入ってから、言葉が聞き取れなくて」
紘の瞳は、相変わらず、光を湛えている。
僅かに傾いてきた太陽の光線が、庭の白っぽい地面を射し、其の照り返しが、紘の瞳に映っているのだろうか、と、辰顕は思った。
此の目が時折、透き通る様に輝くのは、其の大きさのせいも有るのだろう、と、辰顕は分析した。
辰顕には、紘の大きな目が、辺りの光を集めている様に思える。
其の、瞳の中の輝きが、紘の声に合わせて、不安そうに、微かに揺れる。
紘が、酷く不安定な気持ちになっている様に思えて、辰顕は、また気の毒になった。
其れで、自分に答えてやれる限りの事は、全部答えてやろう、という気になったのだった。
「此処は特別だから。俺は、ほら、両親が上方限の出身だろう」
「カミホーギリ?」
あ、其処から説明しないといけないのか、と、辰顕は少し困惑した。
見た目が、如何に糺に似ていて親しみ易くとも、紘は、生まれて初めて此の地を踏んだのである。
紘が、瀬原集落について、どのくらい知識を持っているのか、辰顕には計りかねた。
「此処というよりは、瀬原集落の話になるけど。集落は、傾斜地になっていて、真ん中に小川が流れているものだから、川を挟んで、傾斜地の上の、高い方を上方限、下の、低い方を下方限って呼んで、二つの地域に分けている、というわけ」
「あ、カミって、上と下の、上?」
「そういう事」
「其れで、辰は、御両親が、其の、上方限の出身ってこと?」
「紘の御両親もそうだよ」
えっ?と言って、紘はキョトンとした顔をした。
やはり、あまり瀬原集落の事は教えられていないのだろうか、と、辰顕は思った。
「其れで、上方限では殆ど、鹿児島の方言が使われない」
「そんな事ってあるの?ああ、でも、実際、今日会った人は、皆そうだね」
「いや、上方限でも、方言を使う事は有るし、下方限では、当たり前の様に方言を使うよ。ただ、上方限と下方限では、方言も、言葉が、ちょっと違う」
「同じ集落の中で?」
「俺も、よく知らないけど、昔かららしいよ。例えば、方言を使うにしても、小さい頃っていう言葉は、上方限では、小さい(こまんけ)頃(小さい、細かいの意か)と言うけど、下方限では、小さい(ちんけ)頃(小さい(ちん)の頃の意か)って言う。地域で、全然違う」
「そんなに違うなら、俺なんか聞き取れる筈が無いや。でも、訛らないって、如何してなのかな」
辰顕は、其れを疑問に思った事さえ無かった、と思った。
「そうだな。如何してなのかな。訛ると、母親に訂正される事も有ったよ。例えば、其れ見して、って言うと、見せて、って言い直すように言われた。そう思うと厳格かな。一つは、祈祷師、ああ、えっと、祈祷師の事。其の仕事のせいだと思うけど。東京を含めて、各地を回るから、訛ってない方が有利なのかな。…ただ其れだと、下方限の人が訛っている理由の説明にはならないね…」
おや、我ながら、説明が出来ないとは困った事だ、と、辰顕は思った。
「元々、出自が違うとか?」
紘の言葉に、辰顕は、思わず、へ?と言った。
紘は続けた。
「あ、いや、東京では、よく有るから。同じ地域に住んでいても、群馬から来た人の隣に、三代前は東北にいた、っていう人が住んで居る、とかね。他にも、上方限と下方限の違いは有る?」
「そうだな、上方限の方が、裕福(裕福な衆、という意味の方言)、あ、いや、金持ちが多いかな、比較的」
「ああ、御金持ちが多い地域、みたいなのは有るか。御金持ちなのは、よく分かるよ。あんな御屋敷も、病院も、普通建てられないよね」
「そうなのかな。御屋敷って言われても、上方限は、大体ああいう家だから」
そうなの、と言って、紘は驚いた顔をした。
「あんな御屋敷ばかりだっていうなら、本当に、上方限と下方限は、全然違いそうだね」
「うん、まぁ、俺と妹二人は、あんまり行った事無いけど。俺の就学に合わせて此処に来て、父親が開業したから、殆ど里の外で育っているもので」
「あ、えーと。俊顕さんと、うちの叔父さんが医師だっけ?」
「そう、三年前までは二人共、此処で働いていたけど。今は、ややこしい事が有って」
「あ、何か事情が有るって…?」
「…紘、苗の神教の事って、何処まで知っているの?術は使える?」
使えるよ、と、紘はアッサリ肯定した。
「祈祷の手伝いみたいな事もした事あるし、あの、長い呪文みたいなのも言えるよ」
―あ、じゃあ、其れは言っても大丈夫なのか。
苗の神教に対する知識は持っているとは、偏っているな、と辰顕は思った。
―祈祷師なんて、俺は真似事すらした事が無いのに、経験が有るとは。
「ああ、術が使えるなら話が早い。俺も一応使えるよ」
あの術だけどさ、と言って、辰顕は声を潜めた。
「軍事利用されるっていう計画が有って」
紘が、また辰顕の目を、じっと見た。
辰顕は続けた。
「ほら、あそこ、来る時、駐屯地が無かった?」
「うん、在った」
※祈祷師 占い師の意。




