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山行かば 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第一章 昭和二十年 七月
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昭和二十年 七月三十一日 実方辰顕 空襲警報

昭和二十年 七月三十一日 火曜日

最低気温25.6℃ 最高気温32.0℃ 快晴


 朝、辰顕が目を覚ますと、仮眠室の中に、綜の姿は()うに無かった。


 軍帽、軍服も、軍靴も無かった。


 周の机の上には、古い絵具(えのぐ)が一揃い、丁寧に絵具の箱に入れられて置いてあった。


 周は、其れを見ると、寂しそうに微笑んで、布で丁寧に包み、自分の持ち出し用の鞄の中に入れた。


 此処を出る際に持って行く気なのだ、と辰顕は思った。


 周の大事な物の隠し場所は、寝台の隙間なのである。

 絵具は、大事な物から、持ち出す物に変わったらしかった。


 きっと、こうして少しずつ、準備をしていくのだろう。


―ああ、周ちゃんとも、紘とも、もう、其れ程長く一緒に居られないのか。


 辰顕が、そんな事を実感していると、紘が、周に声を掛けた。


「周ちゃん、一緒に此処を出る事、うちの父さんには、なるべく、出る直前に言おう」

「え?」


「父さん凄く頭が良いの。考える暇を与えない方が良い。御人好しだから、殺されるかも、って言ったら絶対助けてくれると思うけど、其れ以外の事は、俺には想定出来ないから。万に一つだけど、(まか)り間違って、父さんに何か、斜め上の事を言われて説き伏せられて、やっぱり周ちゃんは此処に残る事になりました、っていう展開になったら、俺じゃ事を動かせなくなってしまう。念には念を入れなくちゃ。()(かく)出てから考えよう、くらいの勢いで畳み掛けてみよう。そうでなくても、何か、良い機会を見計らって、父さんに了承させよう」


 何時(いつ)も冷静に具体的な提案をする紘だが、相手が誠吉となると更に慎重になるらしかった。


 周は、分かった、と言った。


 辰顕は、綜には何時(いつ)言うのかな、と思ったが、紘と二人で、周が、寝台と衝立(ついたて)を元の位置に戻すのを、黙って手伝った。



昭和二十年 七月三十一日 午前十一時三十分。



 何時(いつ)もの様に畑仕事の後、皆で朝餉を食べた。


 子供が多過ぎるせいか、最近、清水の双子、双子と辰顕と紘は、(まと)めて、誠吉と顕彦から、親しみを込めて、()()、と呼ばれるようになった。


 紘がキョトンとしていたので、辰顕は意味を教えた。


 何時(いつ)も通りの一日だった。


 しかし、母屋で昼餉の準備の間、洗いたての国民服を着、周と一緒に子供達の相手をしていた辰顕は、空襲警報を聞いて、子供達を周に任せ、慌てて紘が一人で居る病室に駆け込んだ。


―今日紘を一人にしなければ良かった。昼餉になったら呼びに行こうと思っていた矢先に。また狼狽えていたら気の毒だ。


 しかし辰顕は、紘の意外な様子に驚いた。

 既に国民服姿の紘は、静かに、窓から空を見上げていた。


 近いな、と紘は呟いた。


「何を暢気(のんき)な事を。空襲だぞ」

 辰顕の呼び掛けに、うん、と答えて、紘は、()だ空を見ている。


「ああ、確実に十機は居るね」

「紘?」


 辰顕は、紘の様子が昨夜の様子に近い事に気付いた。


「うん、でも、此処は大丈夫」


 あの大きな目で何を見ているのだろう、と辰顕は思った。


「だけど一応防空壕に行くよ。(はる)さんと(かおる)さんにも声を掛けてくる」


 辰顕は、紘の様子に戸惑ったが、分かった、と言った。

 時間が無い。


「俺が二人に声を掛けてくる。紘は先に行っていてくれ」

「分かった」

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