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山行かば 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第一章 昭和二十年 七月
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昭和二十年 七月三十日 坂本紘一 周二の告白

 其の時、バン、と音がして、勢いよく病室の戸が開き、誰かが病室に飛び込んできた。


 紘一は、心臓が止まるかと思うくらい驚いた。

 しかし、其の人物は、泣きながら、周二の何時(いつ)も使っている寝台に突っ伏して号泣した。


 見れば、其れは周二本人だった。




「兄上を怒らせちゃった」


 なかなか泣き止まない周二は、吃逆(しゃっくり)上げながら、そう言った。

 紘一は、そっと近寄って、周二の寝台に腰掛けた。

 辰顕も、紘一の反対側に回って、周二の寝台に腰掛けた。


「聞いちゃいけないって、分かっていたのに」


 何を聞いたの?と、紘一は、囁く様に言いながら、先程辰顕が渡してくれた手拭いで、周二の涙を拭った。


「軍で、どんな実験しているの、って。そんなに疲れて、機嫌が悪くなって、余裕が無くなる事なのって。如何(どう)しよう、聞いちゃった。聞いちゃいけないって分かっていたのに」


 辰顕と紘一は顔を見合わせた。


 辰顕の顔は青褪めている。


 綜一が実験の内容を言いたがらない事は、紘一にも察せられた。


 周二は泣き止まない。


「兄上、怒ると黙るの。何も喋ってくれなくなっちゃった。分かっていたのに。兄上、俺には話したくないって」


 だって、と言いながら、周二は吃逆(しゃっくり)上げた。


「だって兄上が、俺の絵具(えのぐ)(くず)(かご)に突っ込んだから。父上に貰った絵具。何があったって、他人の物、そんな風に扱う人じゃ無かったのに」


 怖いよぅ、と言って周二は、小さな子供の様に泣いた。


「兄上が、ドンドン変わっちゃうみたい。怖いよぅ」


 紘一は、掛ける言葉も無く、周二を見詰めた。


 周二が自然に落ち着くまで泣かせておく以外、紘一には何も思い付かなかった。


 (やや)あって、周二は泣き顔を上げて謝って来た。


「夜中に、ごめんね。今夜も此処で寝ても良い?」

「勿論」

 紘一が、そう答えると、辰顕も頷いた。


 あーあ、と周二は言った。

「言っちゃった。我慢すれば良かった。もう後どのくらい一緒に居られるか分からないのに」

 周は、そう言いながら、辰顕の手拭いで、自分で涙を拭った。


「え?」

 声を揃えて驚く辰顕と紘一に、周二は、俺ね、と言った。


「戦争が終わったら、此処を出ようと思っているの。里にも、もう戻らない。外に行くの。当ては無いから野垂れ死にかな。でも俺は、此処に居ちゃいけないから」


 周二は再び泣いた。


「俺さ、兄上が居ないと生きていけないよ。兄上と長く離れて暮らした事なんて無いもの。きっと、俺、駄目だ。でも、戦争が終わったら、俺は何時(いつ)か兄上の邪魔になるから。吉野の伯父に利用される前に、里から居なくならないと」


 辰顕は、非常に狼狽えた様子で、如何(どう)いう事?と言った。


 周二は涙を拭いて、見た事が無い程凛とした顔をして、言った。


「…誰にも言わなかった事、今、二人にだけ話すよ。秘密にしてね。兄上も知らないけど、俺が死んだ事にされたのは、父上が、吉野本家の伯父上から、俺を隠す為でも有ったの。そりゃ伯父さんは、御金が貰えるなら、俺達の事、軍に差し出すのなんて、何とも思っていない人だもの。そんな人の居る場所、戦争関係無く、怖くて戻れない。でも、其れだけじゃない。俺、伯父さんの秘密を知ってしまったから。だから俺、何時(いつ)か殺される、伯父さんに。俺が生きていて、伯父さんの秘密を知っているって知られたら、次殺されるのは俺だ。父上に相談したら、俺を死んだ事にして、此処に隠してくれたの。本当は、軍から隠れる為だけじゃないの。…戸籍を抹消されるとは流石に思っていなかったけど」


 紘一は、全身の血の気が引いていくのが分かった。


 紘一は、辰顕の顔を見た。

 辰顕は、紘一の視線を受け止めた後、首を振って、信じられない、と言った。


「仮にも甥だろ?幾ら何でも」


 周二は、真剣な表情をして首を振った。


「うちの伯父さんは遣るもの。此処の家の皆みたいじゃないの。うちの吉野の御祖父ちゃんも、吉野本家の長男で後継だった、上の方の伯父さんも。吉野本家の伯父さんの周りってね、人が死ぬの。何も証拠は無いけどね。辰ちゃん、()(らら)って植物、知っている?苦い人参、みたいな字で、漢方だと()(じん)とも読むけど。乾燥させた根っ子の方じゃなくて…葉の方を煎じた薬」


「乾燥させた根を煎じれば生薬だけど…葉は殺虫剤に使えるくらいの毒草じゃないか。大脳が麻痺して、痙攣、呼吸困難の後、死亡するよ」


 辰顕は、驚いた様に、そう言って目を剥いた。


 そうだよ、と言って、周二は目を伏せ、続けた。


「背の高い花だよ。三年前、吉野本家の伯父さんの家の裏庭に咲いているの、見たの。父上は、昔は、そんな花は無かったって言っていたのに。吉野の御祖父ちゃんも、上の伯父さんも、三年よりずっと前に、呼吸困難と心不全で亡くなった。呼吸困難だよ。此の意味、分かる?()(らら)の使い道って、後は紙を作るくらいらしいでしょう?其れが、昔は無かったのに、急に裏庭に咲いていて。残ったのは次男の伯父さんだけで、家を継いだのも其の人。こんな都合の良い事有る?二人が亡くなって誰が一番得したか、俺でも分かったよ」


 其れにね、と言いながら、周二は再び涙を拭った。


「俺が必要になる時は、兄上が死んじゃった時なの。其れが、俺が生きている意味なの。其れは、最初から、そうなの。別に、伯父さんも何も関係無いの。俺は生まれた時からそうなの。兄上が、其れに気付いているか分からないけど」


 やっぱり、と、紘一は思った。


 目の前の人間は、長の男系の子孫の予備(スペア)なのだ。


 周二は、ハラハラと泣いて、続けた。


「だから一つは、死んだ事にされた後も、双子で、外見だけでも少しは似ているのを良い事に、兄上の身代わりになる様に此処で生かされているの。(まか)り間違って兄上が亡くなった時、(おさ)の後継が居なくならない様にね。だから此の三年は、事実上、幽閉。俺は、表向きは死んでいるから、存在していてはいけないけど、もしもの時の為には、生きていないといけないの。戦争が終わった後も、俺は此処で、此の(まま)隠れて暮らすのかもしれないの。でも、もし戦争が終わって、吉野本家の伯父さんに見付かったら」


 怖い、と周二は言った。


「伯父さんの秘密を知っているって知れたら、次に殺されるのは俺だ。其れを隠し(おお)せても、父上が、もし居なくなって、兄上が伯父さんの思い通りにならなかったら。俺が生きているって知られたら、兄上を殺して、俺を利用して、(おさ)として擁立するかもしれない。其れで俺が邪魔になったら、今度は俺を殺すよ。此れは、何時(いつ)起こるか分からないけど、伯父さんが生きている以上、ずっと付き(まと)う不安なの。父上だって、何時(いつ)でも俺を守れるわけでは無いから、此処で俺を匿ってくれているの。伯父さんに殺されたり利用されたりするのでなくても、死んだ筈の俺が次に必要になる時は、兄上が居なくなる時なんて、嫌だよ。其れに、利用されて兄上の邪魔になるくらいなら、何処か遠い所で、一人で野垂れ死にした方が良い」


 でも、と辰顕は言った。

「綜ちゃんだって、周ちゃんが居ないと」


「兄上は大丈夫。ああ見えて愛情深い人だから。あの人はね、戸籍の無い俺と違って、自分で家族を作る事が出来る人だよ。其れに、兄上は、里の(おさ)の後継だから」


 其処まで言ってから、周二は泣きじゃくった。


「殺されるのも、野垂れ死にするのも嫌だよ。事情が有るからって、匿う為だからって、死んだ事にされたのも嫌だった。だってもう戸籍が無い。比喩でなくて、『()(ばる)(しゅう)()』は死んだの。未来が無い。戦争が終わっても学校も行けない。結婚だって出来ないよ。皆と学校に行きたかった。本当は絵を勉強してみたかった。絵の仕事だって。でも、俺、もう死んだ人間だから。…何とか、居なくならなくちゃ、此処から。戦争が終わったら()ぐ。…何時(いつ)終わるか、分からないけど。どのみち此の(まま)じゃ、未来は無いから」


 辰顕も、周二を抱き締めて泣いた。

「周ちゃん」


「辰ちゃん、俺、父上の事、大好きだったけど。死んだ事にされた日にね、終わったの。もう家族じゃない。俺を守る為に仕方が無かったのは分かっているのに、(つら)くて、(つら)くて。本当は父上、俺の事」


 周二は、辰顕に抱かれた(まま)号泣した。


「俺が居なかったら母上は亡くならなかったかも。俺を産んだ時、御産で亡くなったから。難産でね。俺と兄上、誕生日が違うの。御産が長過ぎて、日を跨いだから。父上は俺の事、本当は嫌いかもしれないって、ずっと思っていたの。双子じゃなかったら、兄上だけだったら、もしかしたら母上は亡くならなかったかもって思って」


 紘一は、泣いている周二の独白を聞きながら、頭の芯がボンヤリするのを感じた。


 周二は泣きながら、尚も続けた。


「俺が居なくても皆生きている。皆生活している。俺が居なくても里は回っている。本当は如何(どう)しても其れが(つら)い。俺が居ても居なくても、何も関係ない事が」


 嫌だよ、と、辰顕は泣きながら言った。

「周ちゃんが居ないと嫌だ」



 紘一は、二人に向かって、分かった、と言った。



 紘一は、怒りに似た感情が自身の胸元で燃えているのを感じたが、頭は冷たい程に冴えて、ハッキリしていた。

 先程の、ボンヤリと靄の掛かった様な感覚は何処かに消えた。

 何だか、急に、紘一は、物が、とてもよく見える様になった気がした。


 紘一の中で、何かが切り替わってしまった。


 周二と辰顕は、驚いた顔で、紘一を見た。


 辰顕は周二から離れた。


 紘一は、ゆっくりと言った。


「周ちゃんを一人で野垂れ死になんてさせない。一緒に逃げよう」


 紘?と、周二は、涙で濡れた顔をして、繁々と紘一の顔を見てきた。


 そりゃあ、と紘一は言った。


()だ俺達出会って五日だもの、信じてついて来てくれなんて烏滸(おこ)がましい事は言わない。()ぐ決めて、とも言わない。でも、俺と父さんが此処を出る日までに決めて。周ちゃんが此処を出たいなら、俺は手伝う」


 周二も辰顕も泣き止んで、紘一をジッと見詰めている。


 良いかい?と紘一は言った。


「周ちゃんは戦争に関するイザコザで戸籍を失ってしまったかもしれないけれど、今なら、却って外に()(やす)いかもしれない。彼方此方(あちこち)、役所が焼けたから、戸籍だって、何とかなるかも。偽名だって良いじゃない。母方の姓でも名乗ってさ。今なら戦災孤児で押し通せるかもしれないよ。そしたら就職も出来る。御金を貯めれば絵の勉強も出来るかも。俺に絵の仕事は斡旋出来るか分からないけど、探せば、如何(いかが)わしい雑誌の挿絵の仕事くらいは有るかも。だから、一緒に逃げよう。途中、空襲で死ぬか、飢え死にするかも分からないから、死ぬ場所が変わるだけになるかもしれないけど、でも、一人では死なせない。死ぬかもしれないけど、一緒に行こう」


 周二は、遂に、クスッと笑った。


「良いね、如何(いかが)わしい雑誌。夢も希望も無くて、現実的で。旨い話じゃない分、信用出来そう。そうだね、其れなら、何時(いつ)か出来るかも。…死ぬかもしれないけど一緒に行こうって言ってくれた人は初めてだな。いや、もう死んでいるか、俺。紘、俺、一緒に行くよ」


 周二はキリッとした顔をした。


 こうして見ると、やはり綜一と周二は、よく似ていた。


「…紘、誠吉さんは大丈夫なの?」


 辰顕の問いに、紘一は、大丈夫、とキッパリ言った。


「うちの父さん、御人好しだから」


 よし、と言って、紘一は病室を出ようとした。


「紘、何処に行くの?」


 周二が、ギョッとした声を出した。


 綜ちゃんの所、と紘一は言った。


「俺、先刻(さっき)決めたの、皆の味方になるって。周ちゃんだけの味方はしない。綜ちゃんにも会ってくる。多分今頃泣いている」


 紘一には、今、綜一が泣いている事が、何故か確信出来た。


 頭が冴え過ぎていて、額に涼風を感じそうな程である。


―綜ちゃんに会わないと。


 洋灯(ランプ)は必要なかった。


 今夜は、紘一には何故か、暗闇でも、物の位置が凄く、よく分かるのだ。

 ただ歩いているだけなのに、自分でも驚く程の速度で移動出来る。

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