昭和二十年 七月三十日 坂本紘一 味方
「良かったなぁ、好子。月子と親友になれて」
陶冶が目頭を押さえた。
今夜も好評だな、と、紘一は、何とも言えない気持ちになった。
美しい花の咲く場所での、何やら儀式めいた親友の誓いは、紘一には何となく馴染まないのだが、聴衆には受けた。
特に、槍谷家の庭に咲く鬼百合の描写は、周二を喜ばせた。
御祈りや教会の日曜学校といった、里に馴染まないものは、なるべく紘一なりに噛み砕いてみたが、やはり上手く説明出来そうにも無かったので、省略気味に話したのも良かったらしい。
そろそろ紘一も、好子が失敗する場面や、人情味の有る話の部分が受ける、という事が分かってきた。
後は、人物の描写は省かない事にした。
主人公、赤毛の草原好子の親友、槍谷月子の登場は特に受けた。
「Diana is very pretty littie girl.She has black eyes and hair and rosy cheek.月子はとても可愛い小さな女の子で、黒い双眸と髪と薔薇色の頬をしている」
紘一が、そう言うと、陶冶が、おお、と言った。
ああ、美人は、やっぱり受けが良い、と紘一は思った。
其の後には、月子の性質がgood and smart、善良で理知的であり、其れは彼女の愛らしさよりも良い、と続くのだが、聞き手が其の様に受け取ってくれたかは、紘一には自信が無い。
察するに、外見より中身が大事だ、という様な事であろうが、娯楽に教訓を求める人間が、どのくらい居るだろうかと、紘一は悩んだ。
しかし、なかなか吉雄が出て来ないね、などと周二が言うので、皆はゲラゲラ笑った。
其の、吉雄という人を、紘一は、遠縁とは言え自分の身内だというのに、ほぼ知らないのだが、如何も、吉雄が頭に思い浮かぶ事が聴衆には一番面白いらしい。
今夜は何時もより少し浮かない顔で寂しげに笑っていた辰顕までもが大笑いしてくれたので、紘一は嬉しかった。
陶冶が、欠伸を一つした。
「やっぱり畑で体を動かすと、夜は眠いなぁ。今日は、此れくらいで失礼するよ」
陶冶は、腰掛けていた周二の寝台から立ち上がり、伸びをした。
薫陶も、では此れで、と言って、腰掛けていた紘一の寝台から立ち上がった。
「そっか、今夜は俺も、兄上の所に戻ろうかな」
周二も、用意した寝具を其の儘にして、寝台から降りた。
各自、御休み、と言って別れた。
紘一は、何だか久し振りに、辰顕と病室で二人になった気がした。
やはり辰顕は少し浮かない顔をしている様に紘一には見えた。
「辰ちゃん、何かあった?」
紘一が尋ねると、そうだな、と辰顕は言った。
「あったと言えば、あったのかな。色々な事、考えた。綜ちゃんの事とか」
ああ、と紘一は相槌を打った。
そりゃね、と辰顕は言った。
「貴が生まれた時は、あんまり、よく分かってなかったかもしれないけど。今ぐらいの年になって、好きな人に子供が出来たら悩むかもなって」
辰顕は、掛物に包まりながら、上半身を起こして、背後に在る窓の外を見た。
悩むだろうね、と紘一は言った。
子供の頃聞くより、男女の事を理解してから聞く方が、かなり重い情報になるのは間違いない。
辰顕は、コロリと俯せに寝て、言った。
「年回りさえ合えば上手くいっていたのかな、なんて思って。こんな事俺が考えても、相手は、もう今は人妻だし、前提として年が、かなり上なのは覆らないけど」
「そうだね、今じゃ、恩師の妻で、加えて妊婦だしね」
「…ああ、其れも有ったか」
辰顕は、疲れた様な声を出した。
紘一も、困難だな、という気がする。
綜一が一人で乗り越えるには障害が多過ぎるのだ。
其れこそ、顕彦が亡くなって、未亡人になった安幾に言い寄ったとしても、更に『水配』とかいう壁が存在するらしいのだ。
一先ず顕彦には長生きしてもらうのが良さそうではあるが、若くて美しい妻を娶ると大変だな、と紘一は思った。
なぁ、と、辰顕は、俯せの儘、顔だけ持ち上げて、紘一の方を見て、言った。
「…長と誠吉さんの間に、もし何か許せない事が有ったとしたら、綜ちゃんと周ちゃんの事、如何思う?」
紘一は、ああ、と言った。
「もし、って言うより、有ったって事だと思う」
紘一の言葉に、辰顕は、そっか、と言って、また俯せに寝た。
分からない、と紘一は、正直に言った。
「情報が少な過ぎて、其の、許せない事、というのが、何かは分からないし、知って、二人の事を如何思うかは、分からない。だから、考えない様にしているの」
「そっか。…俺だったら、考えちゃうかも」
そう?と言って、紘一は、辰顕の顔をジッと見詰め、ハッキリと言った。
「此処を出たら、もう皆に会えないと思う」
辰顕は、ハッとした顔をした。
紘一は、もう一度、ハッキリ言った。
「御祖父様が亡くなってしまったから、もう、俺にも父にも伯父にも、瀬原集落に来る理由が無い。次は叔父さんでも亡くなった時かな?其れだって、連絡が来るか分からない。今だって、本当は此処に居る予定では無かったもの。だから、此処を出たら二度と戻って来ないと思う。結局、うちの両親は隠れ里を出てしまったから。実際、今も、厳密には瀬原集落に足を踏み入れてもいない」
辰顕はムクッと起き上がり、自分の寝台に腰掛けて、紘一の方をジッと見た。紘一は、手元の本を、ペラペラと捲って、一文を読み上げた。
「I love Green Gables already, and I never loved any place before.No place ever seemed like home.」
紘一は読み上げながら、ジワリと目に涙が浮かぶのを感じた。
「私は既に緑屋を愛しています。そして私は、以前は愛している場所は何処にも在りませんでした。嘗ては、自分の家の様だと思える場所も在りませんでした」
読み上げた部分を訳して言ってから、紘一は、自分の頬に一筋涙が伝うのに気付いて、慌てて手で拭った。本当だ、と紘一は思った。
―前は分からなかったけど、きっと凄く、良い事が書いてある。そんな本だ。俺に分からなかっただけで。
好子に初めて自分の家が出来た喜びと、其の裏の悲しみを、紘一は理解していなかったのだ。
好子には、自分の居場所が出来たのである。
そう、孤児で、家族も家も持たなかった少女が、『緑の切妻屋根の家のアン』にしてもらえたのだ。
ザックリ訳してしまったが為に気付かなかったが、元々、そういう題名だったのである。
一度読んだ時には気付かなかった題名の意味に思い至って、今、紘一は、噛み締めて、泣いた。
好きだよ、と紘一は言った。
「此の場所が好きだよ。皆の事もね。だから、もう会えないかもしれないなら、仲良くしたい。前言ったみたいな、桃源郷みたいな場所じゃないって、知っているよ。でも、だからこそ、此処は良い場所だって思いたい。未だ、たった五日しか居ないけど、此処に居て、初めて、自分に違和感が無いから」
辰顕は、紘一に、違和感?と聞き返して来た。
そう、と紘一は答えた。
「両親が瀬原集落の出身で、体術を仕込まれて、不思議な術が使えて。でも、其れは隠さなければならない事で。友達が出来ても、其れは、言ってはいけない事だった。そりゃ、友達だからって、何でも包み隠さず話す必要は無いよ。でも、其の秘密を黙って付き合う事が、後ろめたくて仕方なかった。世間の中で自分だけが浮いてしまっている様な気がしていた。でも、此処だと違う」
此処は違う、と、紘一は、もう一度、ハッキリと言った。
「里の習慣や感覚は、外で育った俺には、やっぱり、よく分からない。でも、里の外にも違和感を覚えている。此の病院は、きっと、薫さんの言う様に、丁度境界に在る。里でも外でも無いけど、外でも里でも有る。そんな場所は、きっと、他の何処にも無くて、俺にシックリ来る。里の者でも有り、外の者でも有る、里の者でも外の者でも無い俺を、隠さなくても受け入れてもらえる。大っぴらには出来なくても、英語の本だって一緒に読んでくれる人達が居る。其れが、どれだけ嬉しい事か」
女の子なんて、と紘一は続けた。
「同性の友達にだって、こうなのに。好きな女の子なんて、外に出来っこないよ。きっとまた、隠さないといけない。嘘をつかないといけない。瀬原集落とは何の関係も無い人間で、怪しげな術なんて使えなくて、語学になんて全く興味の無い、何処にでも居る学生だって。怖いよ。此処に居る時みたいには、きっと受け入れてもらえない。外の女の子になんて」
紘一は、再び涙を拭って、続けた。
「分かっている。余程の事だよね、あの御人好しで、おっとりした父さんが里を出るなんて。大好きな家族も、親友も置いて里を出るなんて。きっと何か、本当に、長との間に、俺に教えたくない様な事が有った筈だ。そして多分、其れを知ったら、俺達、ギクシャクしちゃう。だから父さんは、俺の為に、教えないでくれているって、分かる。逃げかな。此処まで分かっていて、考えない様にしているのは、逃げ?でも、誰とも喧嘩したくないよ。もう会えないのに。俺、此処が好きだよ」
辰顕は、そっと、紘一の寝台に腰掛けると、手拭いで紘一の涙を拭いてくれた。
「ごめん、余計な事を言ったみたいだな、俺。逃げるべきだな。きっと、全力で逃げるべき事だな、其の事実を知る事から。逃げて良いよ。逃げて全く構わないと、俺は思う。外は焼夷弾、家の中はギクシャクしていたら、何処に居ても戦争しているのと変わらないよ。栄さんが何時も言っている事、思い出した。外は敵だらけだから、家の中だけでも皆御互いの味方でいようね、って。家の中だけでも、桃源郷だって錯覚して居られれば、其れで良い。全力で逃げよう。俺も、もう考えないよ」
味方?と、紘一は尋ねた。
うん、と、辰顕は力強く請け負ってくれた。
「味方だ。俺、紘の味方になるよ。御前も俺の味方になれよ」
―あ、此れだ。
紘一が欲しかったものは此れなのだ。
好きな女の子の事は、未だ欲しいとは思えない紘一が、本当に欲しかったのは此れなのだった。
恋人より親友が欲しかった。
そして、親友という存在が居ない紘一には、欲しくても、其れが如何いう存在かは分かっていなかった。
でも、きっと此れだ、と紘一は思って、言った。
「なるよ。一生、俺は辰ちゃんの味方だ。困っていたら何時だって助ける」
「俺も助ける。先ずは空襲から、だけど。此の先何処に居ても味方だ」
辰顕の力強い言葉を聞いて、紘一は再び泣いた。
辰顕は紘一に手拭いを渡してくれた。
「俺も、きっと紘と同じだ。でも、今まで上手く言葉に出来なかった。此れが、違和感か。里の外に住んで、外の学校に通っていたけど、如何しても何かが違って、結局綜ちゃんや周ちゃんと一緒に居るのが楽だった。綜ちゃんが実験の事で悩んでいても、周ちゃんが長に死亡届を提出された事で苦しんでいても、何も出来ないのに。こんなの、友達って言えるのかって思っていたけど、分かったよ、俺、味方になる。二人の。困っていたら助ける。何処に居ても味方になる。大した事は出来ないかもしれないけど。紘も、二人の味方になってよ。親同士が如何でも」
「なる」
紘一は、辰顕に言葉に頷きながら、手拭いで涙を拭いた。
「俺も、綜ちゃんと周ちゃんの味方になりたい。父さんも言っていたもの。あの二人が俺に直接何かしたわけでは無いって」




