昭和二十年 七月二十九日 瀬原周二 境界
陶冶は、そうかぁ、と、残念そうに言いながら、辰顕の方を見た。
「刀、供出したのか。顕彦さん、もう剣術は遣らないの?」
「木刀は家に在りますけど、最近は、練習姿も見掛けませんね」
「そうか、勿体無い、あの腕前で。其れにしても、顕彦さんって、何でも出来るよな」
陶冶が顕彦を褒めると、薫陶も頷いて同意した。
「今日の御米凄かったね、兄上」
「な、薫も驚いたよな。如何したわけ?あれ。顕彦さんが炊いたって?」
陶冶は、感心しきった様子で、周二の方を見てきた。
「御目出度が有ったから、御祝も兼ねているとは思うけど。今、アッコおばちゃんが悪阻でね。御米を炊く匂いが気持ち悪くて御飯を炊けなかったから、代わりに炊いたっていう事なのかも」
「ああ、実方本家の御目出度の話は、顕彦さんが食事を持って来てくれた時に聞いたよ。良かったなぁ。赤飯炊く様な小豆は無いだろうけど、あれだけ美味い、混ぜ物無しの米なら充分な御馳走だよな。しかし、あんなに美味いとはね」
頻りに感心する陶冶に向かって、凄いよねぇ、と言いつつ、周二は何と無く、自分が褒められるより、顕彦の炊いた米が褒められている方が誇らしい様に感じていた。
先生って凄いでしょう、と、何故か我が事の様に自慢したくなる感覚は何時も、我ながら不思議な程である。
其の楽しい気持ちは、紘の持つ疑問に対する周二の関心を掻き消した。
「顕彦さんって、出来ない事有るのかな?唱歌の時も風琴弾いてくれていたし」
薫陶が、そう言って首を傾げた。
顕彦の最後の生徒だった周二達よりも十年上の世代から、周二の世代までは、里の男子の殆どが顕彦の受け持ちの生徒だった。
川での水泳なり何なり、学校に纏わる殆どの事を、顕彦から学んでいるのである。
薫陶の気持ちは分かる、と周二は思った。
そんな筈は無い事は理解している心算なのに、周二の頭の中の顕彦は未だに、何でも教えてくれる凄い先生なのである。
辰顕は、そうですね、と言った。
「確かに、叔父の苦手な事、というのは、此れと言って思い付かないですね」
「そうだろうね」
薫陶は、良い先生だったな、と、懐かしそうに言い添えた。
「良くないとは思うのだけれど、何もする事が無いと、色々思い出してしまうね」
薫陶が俯くのを見て、周二は、其れは良くないね、と思い、提案した。
「俺、顔隠して畑を手伝っているよ。治ちゃんも薫ちゃんもコッソリ働いてみたら?」
あ、其れは良いな、と陶冶は、明るい声で言った。
「何もしないで居候するのも気が引けるし」
薫陶も、良いね、と、柔らかな声で言った。
「明日、御手伝いさせてもらえないか御願いしてみよう」
辰顕は、わぁ、と言って恐縮した。
「助かります。でも、今日の野菜は、繁雪さんが持って来てくださった野菜ですよ」
清水の双子は、声を揃えて、そうなの?と言った。
まぁその、と、辰顕は言い難そうに言った。
「…うちの従弟の貴顕と了との顔合わせを兼ねて、持って来てくださったのです。今朝、未だ涼しいうちに、繁雪さんが、瑛子ちゃんと、外ノ浦の、お夕ちゃんを連れて来てくださったもので」
清水の双子は、其れを聞いて顔を見合わせた。
陶冶は目を丸くして言った。
「兄上、本気でいらしたのだな」
薫陶は苦笑した。
「言い出したら大体意見を曲げないものね。男に二言は無いって人だもの。瑛子の母親も早くに亡くなっているし、あの子が心配なのかも。早めに相手を決めておきたいのかもね。早過ぎる気もしないでは無いけど」
紘は、清水の双子の顔を見て、確認する様に言った。
「そう言えば、うちの、坂元分家の土地屋敷を買い取ってくださったって伺いましたが」
「そう、今の家は、そうだよ」
陶冶は、何だか懐かしそうに、そう言った。
帰りたいのかな、と周二は察した。
周二は、生まれ育った長の館には帰りたくない。
帰りたい気持ちになる家って羨ましい、と、少し寂しい気持ちになる周二である。
周二の母が好きだったという庭の百合は、きっと、疾うに枯れてしまっているであろう。
父は忙しいし、こんな時局だから、庭の花など、綜一と周二の他に、誰かが気に留めてくれているとも期待は出来ない。
夏の盛りだというのに、あの百合が咲いていないであろう事は残念だが、母の絵姿は持ち出したので、其れ以外は、特に実家に未練の無い周二である。
此の三年、一度も帰りたいと思わなかった。
自分の葬式が行われた場所、というのも何だか嫌だが、元々、そんなに好きな場所では無かったのだろう、と周二は思う。
周二には、綜一が居れば其れで良いのである。今のところは。
「あの…御親切に、買って頂けて」
紘は清水の双子に、オズオズと礼を言った。
何も知らずに両親の故郷に来たら、自分の家の立場が悪かった、っていうのも大変そうだな、と、周二は紘に同情した。
―真ん中の子だよね、辰ちゃんも、紘も。
里の人間を親に持ち、術も使えるが、ずっと里で生まれ育ったわけでは無い。
此の病院の位置に似ている、と周二は思う。
此処は、出来た時から真ん中だった。
里の外に在るが、里の人間が住んで居て、殆ど里と変わらない。
其れでもやはり、里では無い。
何方でも有り、何方でも無い存在である。
真ん中だ、と周二は思う。
真ん中というのは、周二には心地良い。
こうあらねばならぬ、という、里の決まりも、外の決まりも、何方をも周二に押し付けて来ない。
だから、死んだ筈の周二が、こうして暮らしていける。
辰顕と紘と病院とは、周二の中で、溶け合う様にして、何か一つの纏まりとして認識されているらしい、と、ボンヤリ周二は思った。
「あの、何か言われませんでしたか?他の家の人から」
紘の言葉に、陶冶は、何で?と言った。
其れは其の、と、言い難そうに紘は言った。
「坂元家に良くして、悪く言われませんか?」
「俺は別に、良くした心算は無いけど?」
陶冶は、キョトンとして、そう言った。
紘は、え?と言って聞き返した。
「兄上が、あの家を欲しがったから買った。其れだけ。家が荒れるかもって心配して困っていたなんて、安幾さんが言うまで知らなかったし。な、薫」
「そう、清水の家は里でも割と戸数が増えてきているからね。分家する土地が減っているのさ。分家出来なかったら、一生長男の家に住まわせてもらって冷や飯食いだよ。だから、引っ越しして、住む人が居なくなる家が在るなら、そして金が有るなら、其処を買おうと思うのは、考えとしては普通だよ」
薫陶が、そう言うと、陶冶も、なぁ、と言って同意した。
「流石に、そりゃ、下方限に家を建てましょう、とは、ならないからな」
あ、また、と周二は思った。
紘が、陶冶の言葉を聞いて、一瞬不思議そうな顔をしたのである。
だが其れは、ほんの一瞬だった。
紘は、そうですか、と言った。
そうだよ、と薫陶は言った。
「助かったのは此方だよ。あんな良い所を、あんな安い額で」
「そうさ。坂元さん達こそ、建物の価値が分かっているのかと心配になったよ。新築を建てようにも、あんな良い木は、もう手に入らないだろうな。其れなのに、前に俺達が住んで居た家よりは築年数が浅いそうだし。夏は涼しいし、なぁ、薫。急に兄上が買い取るって言い出した時は驚いたけど、住んだら、凄く良い家だよ。彼是言う人は、羨ましいだけだろう。畑付きだしな」
陶冶が、そう言い切ったので、紘は眼を瞬かせた。
良いか、と陶冶は言った。
「兄上は如何か知らないけど、俺は別に、其方を助ける心算で買ったとは思っていない。対等に、金銭を遣り取りして買った家だから、例え他所から何か言われても、うちは何も恥じるところは無い。此の三年帰れていないが、満足して住んでいたよ。坂元さん達ってさ、ちょっと気にし過ぎだと思う事が有るぞ」
陶冶の淀みの無い口調に、紘は、はぁ、と言った。
しかし薫陶は、でも、と言った。
「妬まれている自覚は持った方が良いよ。良い家に住んで居て、糺殿の後継だった栄殿は見目好く賢く、医師になるし。奥さん達は美人で有名だしね。韜晦が無い方々だとは俺は思わないけど、優れ過ぎていて隠しきれていない、というかね。こんな田舎の里では」
辰顕は、薫陶の言葉に、何かに気付いた様子で、あ、と言った。
「そういう、相手の此方への感情は考慮しておいた方が良い、という事ですか?」
「そう。大体は、そういうものが、他人の足を引っ張ろうとする原動力だもの。第一、此の病院の土地に追い遣られて来た様に坂元さん達は思っているかもしれないけど、俺は違うと思う」
薫陶は、そう言って、涼を取る為に少し開けられた窓の外を見た。
黒い窓覆が、時々風で揺れる。
「里こそが、坂元家から見放されたのではないか、と思う事が有る。此処って、里と里の外との境界に在る、と、俺は思うのだけれど」
周二は、あ、真ん中の事だ、と思った。
薫陶も、周二と同じ事を考えているらしい。
「里でもない、里の外でもない。里でもあり、里の外でもある。でも、実際は里の外だろう?書類上は、此処は里の土地では無いのだから」
薫陶は、そう言いながら、紘の目を見た。
「如何して紘の御両親が里を出たのかは俺にも分からないけれど、何か、里を出る方が正しい、と思う事が有ったのではないか、という気がする。隠れ里が坂元家に見放されたのだと考えると、俺には、此の病院の位置の意味が、よく分かる気がするから。里全体で従軍してはいるけど、里の外だと認められている範囲は、実は此の病院の敷地からだ。此の時期に非国民と思われない為の従軍だと思っていたけれど、最近、何だか、何かが違う、と思って。日本として戦争に参加している筈だけど、里は、地図にも載らない場所で。里とは、一体何だろう。里の外が日本だとするなら、其の、外と隔絶された里は、一体何なのだろうって。此の病院は里の外である以上、きっと、日本だ。此の病院は、日本というものから取り残されていない気がする。でも里は、瀬原集落は如何だろうか。日本というものから取り残され、坂元家という、賢くて、里の外に出る才覚を持つ人達に見放されたのではないかって」
薫陶の語る言葉は、周二を、何だか落ち着かない気持ちにさせた。
薫陶が何かにモヤモヤしているのは周二にも理解出来た。
真ん中は心地良いと思う周二だが、同時に、何方でも有り、何方でも無い、という、寄る辺無さを感じるのである。
尤も周二は、物心ついてから此の方、寄る辺無さを感じなかった日など在りはしないが。
其れは、戦争は関係無く、単純に周二の生い立ちに関係する事だった。
だから、深く考える事を避けている。
モヤモヤした儘、其の思いを抱えて、思考を止める。
止めなければ、きっと周二は、もう此処に其れ程長い事居続ける事は出来ないだろう。
極楽の微温湯である、此の楽しい場所から。
陶冶は、弟に対して、アッサリと、考え過ぎだろ、と言った。
「さ、そろそろ始めよう」
陶冶の請いに、紘は、はい、と言って微笑んだ。
―あ、何だっけ。何か思い出しかけたのに。所属…?薫ちゃん達って、所属は何なのかな。
周二の中に浮かんだ疑問は、読書会の楽しさで雲散霧消してしまった。




