昭和二十年 七月二十九日 瀬原周二 囲炉裏端
賑やかだな、と周二は思った。
俊顕は既に自宅に戻ってしまったし、安幾は奥座敷で寝かされていたが、其れでも夕餉時の囲炉裏端は楽しげな空気で満ち満ちていた。
人々は顕彦の炊いた米に舌鼓を打ち、小さな子達は、誠吉が作ったのだという、竹蜻蛉や竹製の水鉄砲に大喜びしていた。
小さな子達は、また誠吉が行水させてくれた後だそうである。
今日は、糺の席に、実に仲良く、誠吉と顕彦と栄が並んで座っていて、笑い合っていた。
まるで飲み物の様に米を食べる貴顕を、成子が、おかずも食べなさい、などと言って叱っている。
早々と食事を済ませた逸枝は誠吉の膝に座っている。
了も、食事が済んだと見えて、栄の膝の上で竹蜻蛉を弄って遊んでいる。
了が竹蜻蛉と言えなくて、たけぼんと、と言っているのが聞こえる。
蜻蛉は言えるのに、何故か竹蜻蛉が言えないらしい。
逸枝は、了に、竹蜻蛉を正しく発音させようと一生懸命である。
其れを見て大人達は笑い、顕彦は了の頭を撫でた。
初は、安幾の悪阻が治まるまで、此処で一ヶ月くらい泊れば良い、と皆に提案している。
「御米を炊く匂いを想像しただけで戻してしまったらしいのですもの。食事は私が作りますから。其れに、御産の前から暫く此処に泊まって、御産も此処でやって、床上げまで一ヶ月、此処に居たら良いのよ。もう安幾ちゃんも、御実家が、頼れる位置に無いのですもの。助け合いましょうよ」
初の提案に、大人達は喜んで賛同していた。
顕彦は、初と栄に礼を言った。
「済まないが世話になるよ」
「何を仰います。顕彦さんも、ついでに此処に泊まっていらしたら宜しいでしょう。貴も、御母さんと一緒に、叔父さんの家に暫く泊まるので構わないかな?」
栄の問い掛けに、貴顕は、米粒だらけの顔をニコニコさせて、はい、と言った。
「でも其れ、何時もと何が違うの?」
貴顕の言葉に、大人たちは笑った。
確かに、貴顕達は坂元本家に、よく泊まっているので、今更一ヶ月と言われても、違いが分からないのであろう。
初が、微笑んで、貴顕の顔の米粒を取ってやり、自分の口に入れた。
成子が、思い出した様に、そう言えば、と言った。
「貴ちゃん、瑛子ちゃんは如何だった?」
貴顕は、キョトンとした顔をした。
顕彦は、おいおい、と言った。
「貴、朝会っただろう?了と同い年の子だ」
貴顕は、キョトンとした顔の儘、はい、と言った。
「あの…如何って?」
貴顕は成子に尋ねた。
成子と逸枝は、え?と言った。
―女の子の、此の、『信じられない』っていう表情って、かなり胸に刺さるものが有るよね。
周二の戸惑いを他所に、貴顕は、興味が無い様子で、手元で口を覆って欠伸を一つした。
顕彦も、戸惑った様子で、え?と言った。
「あ、あのな、貴。御前は大きくなったら瑛子ちゃんと一緒になるって、分かっているか?」
貴顕は、え、何で?と言った。
「何でと言われると…」
顕彦は言葉を詰まらせた。
「一緒になるって、如何する事ですか?」
貴顕はサッパリ分かっていない様子で、そう言った。
―未だ九歳だからね。
周二は微笑ましく思ったが、貴顕の反応が真っ当だとするなら、十年前の綜一は、やはり、かなり子供らしくなかった、という結論になってしまう。
兄には悪いが、十年前の策が成功していると、今此処に貴顕が存在しない事になるので、やはり其れは、失敗するべくして失敗したのでは、という気がする。
もう貴顕の生まれなかった世界は考えられない周二である。
誠吉は微笑んで、貴顕に向かって、良いかい?と言った。
「御父さんと御母さんみたいに、瑛子ちゃんと一緒に暮らすのだ」
貴顕は、皆は?と言った。
顕彦は、皆ってなぁ、と、困った様に呟いた。
貴顕は続けた。
「お父さん、了は?」
「お夕ちゃん、という、今朝会った、もう一人の子と一緒になる予定だよ」
了は、知らなかった、という顔をした。
栄が苦笑いして、了の頭を撫でた。
「じゃ、お父さん、成ちゃんと逸ちゃんは?」
「其の頃には多分他所に御嫁に行っているよ」
「兄ちゃん達は?」
「そりゃ、御前より先に所帯を持っているだろうよ。其の頃には此処には居ないさ」
其れは如何かな、と、戸籍も無ければ先行きも見えない周二は、少しギクリとしたが、黙っていた。
貴顕は、ションボリした顔をして、質問を続けた。
「お父さんと、お母さんは?」
「そりゃ、両親は同居するかも分からないが」
「ハナコおばちゃんと栄おじちゃんは?」
「了と住むかもしれないな。兎に角、其の頃には、今みたいじゃないさ。皆其々(それぞれ)の所帯を持って居る筈だからな」
「皆が居ないなんて…其れ、あんまり楽しそうじゃないね」
貴顕は、萎れた顔をしながら、そう言って、食べるのを止めてしまった。
顕彦が、如何しよう、という顔をした。
周二が辰顕の方を見ると、辰顕は笑いを噛み殺した顔をして、汁椀を、そっと自分から離して箱膳に戻していた。
綜一と紘は、あまり表情の無い顔で食事を続けながら、成り行きを見守っていた。
顕彦が、助けを求めるかの様に、隣に居た誠吉の方を見たので、辰顕が、其の様子を見て、遂に吹き出した。
「そうだなぁ、貴。大丈夫だよ。其れは、うんと先だから。十年くらい先って考えて御覧。今考えているみたいな寂しい事では無いよ」
誠吉の助け舟に、貴顕が少し明るい顔をしたので、顕彦は露骨にホッとした顔をした。
「な、貴。そうだぞ、十五年もしたら、瑛子ちゃんは、きっと美人になるし、楽しいと思うぞ」
顕彦の言葉に、貴顕は、あまりピンと来ていない様子で、びじん、と呟いて、再び不安そうな顔をした。
―うーん、折角の誠吉さんの助け舟が台無しだね。でも、未だ、よく分からないよねぇ。
顕彦には悪いと思ったが、周二も、つい笑いそうになる。
「そうだね、貴は、どんな人が好き?」
栄が優しく問うた。
貴顕は、うーん、と、考え込んでから、言った。
「虫取りとか一緒に出来たら面白いかな。木登りとか」
綜一が、思わず、という様子で口を挟んだ。
「其れなら、了と遊ぶので良いだろう。多分そういう話じゃないと思うぞ、貴。御父さんと御母さんは、如何やって暮らしている?」
綜一の言葉に、顕彦は、お、と言って、期待の眼差しを貴顕に向けた。
綜一は続ける。
「御父さんと御母さんは、楽しそうじゃないか?」
貴顕は、おお、と言った。
な、と綜一は優しく言った。
「大人になったら、そういう風に暮らせる、という事だ」
―良かった、もう、何時もの兄上だ。紘の御蔭かも。
周二は嬉しくなった。
「御父さんと御母さんみたいにかぁ」
貴顕は、楽しそうに、そう言った。
顕彦は嬉しそうに、そうそう、と言った。
「そう、御前と瑛子ちゃんが、な」
「え?何で?」
話が一周してしまったので、堪らず、周二は笑った。
栄と辰顕も、ゲラゲラと笑い始めた。
顕彦は、目を閉じて、天井の方に首を向けた。
「あの、お父さん、如何して、あの子と一緒に暮らさないといけないのですか?」
貴顕は再び、キョトンとした顔で顕彦に尋ねた。
顕彦は悲しそうな顔をした。
「違う子が良いかい?」
顕彦の言葉に、貴顕は、再びキョトンとした顔をした。
「大人になったら、誰かと一緒に暮らさなければいけないのですか?」
顕彦は、うーん、と言った。
「そういうわけじゃ無いけど。何時までも皆で一緒に、こんな風に楽しく暮らせるわけじゃない。御嫁が来たり、御嫁に行ったり、亡くなったりして、皆、何時までも今の儘じゃないのさ。そしたら、何時か貴が一人になっちゃうかもしれないからさ。一人だと楽しくない、と思うなら、瑛子ちゃんと一緒に、自分の両親がしている様に暮らしたら如何かな、と思うだけだ。貴が、瑛子ちゃんではない、他の人と一緒に暮らしたいと思ったり、一人の方が良いって思ったりするなら、俺は別に何も言う事は無いし、清水分家の繁雪さんには断るよ」
―うわ、先生ってば、寛大。
提案した繁雪の顔を潰す様なものだが、顕彦は、貴顕が嫌なら断る心算らしい。
周二は貴顕の反応に期待した。
貴顕は黙っている。
黙って聞いていた初が、あらあら、と、おっとり笑って、席を外した。
安幾の様子を見に行くのであろう。
初が中座するやいなや、成子が、ちょっとぉ、と、苛々した様な声を出した。
初の前では、何時も割と良い子なのであるが、成子は結構気が強いのである。
「貴ちゃん、他に好きな子でも居るの?」
「居ない」
「じゃ、良いじゃないのよ。瑛子ちゃんで」
「…ああ、そういう事かぁ」
貴顕は、成程、と言った。
周二は、成子と貴顕の遣り取りが面白くて、可笑しくて堪らなかったが、何とか堪えた。
貴顕は、お父さん、と言った。
「瑛子ちゃんは、他に好きな子は居ないのでしょうか?」
顕彦は、お、と言った。
意外にも貴顕は、瑛子の立場を思い遣ったらしい。
「瑛子ちゃんが嫌でないなら、俺、瑛子ちゃんで良いや。如何でしょう」
顕彦は、おお、と嬉しそうな声を出したが、成子は冷たく言った。
「そんなの他人に言う筈無いでしょ?ひこじぃも御存知ないわよ。貴ちゃん、自分で直接瑛子ちゃんに聞いてみなさいよ。他に好きな子が居ないなら一緒になろうって」
成子は、意地悪そうに笑って、そう言った。
栄が、娘の言動に、少し傷付いた顔をした。
初そっくりの美しい顔立ちなのに、優しい両親に似ず、時々こういった腹黒そうな発言をする成子の事が、時々周二は不思議だった。
―其れにしても今、凄い事言わなかった?貴ちゃんから瑛子ちゃんに求婚しろ、って事?
成子の意地悪そうな声を意に介した様子は無く、貴顕は、そうしてみる、と言った。
「年取って一人だと寂しいし、他に来てくれそうな人が居そうじゃないから、瑛子ちゃんと暮らしてみようかと思っているって言ってみるよ。瑛子ちゃんで良いや、って」
貴顕がハキハキと、そう言ったので、成子は青褪めた。
「待って貴ちゃん。ごめん、其れは言ったら駄目。其れじゃ振られちゃう」
成子は、懇願する様に、そう言いながらブンブン首を振ったが、貴顕は不思議そうな顔をして成子を見ただけだった。
大人達が堪らず、大笑いを始めた。
周二も辰顕も笑った。
紘が、残念そうに、うわぁ、と呟いた。
綜一が気の毒そうな顔をして言った。
「やはり未だ、貴には早いのでは?此れでは…」
貴顕は、紘の方をジッと見た。
最近貴顕は、紘が御気に入りなのである。
「紘兄ちゃん。好きな子居る?」
其れを聞くや、誠吉が思いっ切り噎せた。
周二は誠吉に少し共感した。
―居ないどころか、恋愛自体分かんないって言っていたよ、とは言い難いよね。
顕彦が、お、と嬉しそうに声を出した。
しかし、続く紘の答えを聞いて、気不味い顔をして、黙った。
「吃驚するくらい居ない」
紘が、止せば良いのに、実に正直に、そう言ったので、栄と辰顕が、また吹き出した。
「吃驚するくらい居ないのかぁ。十六なのに?」
「うん、今年の二月で十六になったのに。自分でも驚いている」
貴顕の問いに、紘が淡々と、そう言ったので、珍しく綜一が吹き出した。
「紘兄ちゃんが十六でも居ないなら、俺も、十六になっても、そういう人は居ないかもねぇ。瑛子ちゃんにしておこうかなぁ」
―先刻から結構自分が瑛子ちゃんに失礼な言い方しているの、貴ちゃん気付いていないだろうな。未だ分からないよね、やっぱり。未だ御互い気の毒かも。大丈夫かなぁ。
周二の心配を他所に、貴顕は、やけに納得した様子を見せた。
今度は紘が唸った。
「うーん…。結婚してください、って、瑛子ちゃんに言ってみたら?」
紘の提案に、貴顕は、え、と言って頬を染めた。
―あ、そうか。成ちゃんの遠回しな言い方じゃ分からなかっただけか。
貴顕は、紘の言葉で、やっと少し事態を理解したらしかった。
貴顕の意外な反応に、顕彦と成子は、え?と言った。
「言えないなら、瑛子ちゃんと一緒にならない方が良いかもよ。一生の事だから」
紘は、簡潔且つ、実に尤もな事を言った。
貴顕は真っ赤になって、俯いた。
初が囲炉裏端に戻ってくると、貴顕は、御馳走様でした!と叫んで、自分の膳を下げに走って行ってしまった。
「あら、真っ赤な顔をして、貴ちゃん、如何したのかしら」
初が、不思議そうに、そう言うと、顕彦が寂しそうに言った。
「何だろう。あまりにも分かっていないと、もどかしいけど、ああいう反応されると、何か寂しいなぁ。案外此れで上手くいっちまうのかなぁ。何時までも赤子じゃないからなぁ」
「気が早過ぎませんか?」
栄が、クスクス笑いながら、そう言うと、栄の膝に居た了が、小さな声で、紘兄ちゃん、と言った。
「如何したの?了」
紘が尋ねると、了は、あの、と言った。
「俺、お夕ちゃんに、結婚してくださいって言った方が良いのかなぁ」
栄の背後に正座した初が、え?と言った。
今度は、栄が思いっ切り噎せた。
誠吉が、ククク、と笑った。
紘は、了に問い掛けた。
「了は如何?お夕ちゃんと結婚出来そう?」
紘の問い掛けに、了が、割と、と言ったので、其の場に居た紘以外の全員が目を剥いた。
「確かに、お夕ちゃんは将来美人になりそうだし、悪い話じゃ無いよね」
了の物言いに、綜一が危うく汁椀を取り落としそうになり、慌てて箱膳に置いた。
「了は他に好きな子居ないの?」
―よく、そんなに淡々と聞けるよね、紘。
周二が紘に対して驚いていると、了は更に驚きの発言をした。
「居るけど、お夕ちゃん、其の子より可愛い」
囲炉裏端が水を打った様に静まり返った。
稍あって、紘が、そうなの、と言った。
了は、うん、と言った。
「好きな子三人居るけど、どの子より可愛い。今のうちに、お夕ちゃんに結婚してって言った方が良い?」
「了?」
初が、眼を瞬かせながら、息子の目を見た。
「予約だよね、お母さん」
了はハッキリと、そう言った。
「ええ、まぁ」
初は、自身の過去の発言を思い出したかの様な顔をして、そう答えた。
了は、紘の方を見て言った。
「紘兄ちゃん如何思う?他にも、お夕ちゃんより可愛い子が出てくるかな」
そうだねぇ、と、紘は淡々と言った。
「そういう話なら、二、三人目が良いと思うよ。一人目と二人目を比べる。更に三人目を比べる。其の辺りにしておくのが良いと思う。後になると、此処まで待ったから、もっと可愛い子を、って粘っちゃって、結局誰とも結婚しないとか、そろそろ結婚しないと、って、十五番目くらいの子と、ああ、三番目の子の方が可愛かったかも、とか思って結婚する事になるから、比べる人数は少ない方が良いと思う。今回、お夕ちゃんは四人目なら、妥当だと思うけど」
―だから、よく、そんなに淡々と具体的な提案出来るよね、紘。其れに、妥当、って言い方如何なの?
周二は、綜一と辰顕も、呆気にとられた顔をして紘を見ているのに気付いた。
―無理も無いや。俺も、今、鏡を見たら、二人と同じ表情しているのかも。幾ら何でも正直に具体的に答え過ぎだよね。
了は、分かった、有難う、と言った。
栄は、膝の上に居る我が子の両肩を掴んで、自分の方に顔を向かせた。
「あのね、了。好きな子三人居るって本当かい?」
「そうよ、了、如何いう事?」
初も、オロオロした様子で息子に問うた。
了は、実に素直に答えた。
「一緒に居る時はね、其の子が一番可愛いって思うから、其れで、好きなのかなって。其れが三人居るの。お夕ちゃんは、其の子達より可愛い」
初は、目を白黒させながら、そう、と言った。
栄は呆然として息子を見詰めていた。
―うわー、可愛いと好きが同じなんだぁ。了ちゃん面食い。
周二は、初と栄の驚きに共感した。
成子は、貴ちゃんは了に負けているわ、と呟いた。
―貴ちゃんどころか、此処に居る十五から十七は全員了ちゃんに負けているけどね。竹蜻蛉も上手に言えないくらいの年の子なのに。
求婚するという発想が、何の気負いも無く自然に出る時点で、綜一も了に完敗である。
顕彦は、誠吉に、如何しましょう、と言った。
「うちの兄に似て、こんなに面食いなのでしょうか、うちの甥っ子は」
「肯定も否定も出来んなぁ。俊顕は確かに、昔から面食いだったが…」
誠吉は、そう言って眼を瞬かせた。
了は誠吉の甥でもある筈なのだが、確かに、誠吉の性質は、其れ程受け継いでいないかもしれない。
―何だろう、此れ。
周二は、可笑しくなって、クスクス笑った。
辰顕も紘も笑っている。
綜一もクスッと笑った。
面白な、と周二は思った。
―何時まで続く日々か分からないけど。皆と居るのは楽しい。




