昭和二十年 七月二十六日 坂本紘一 辰顕との出会い
「早速だが、道中、暑かったであろう。うちの家族達に会う前に、風呂にでも入っては如何だ?今、うちの息子に風呂を焚かせているから」
俊顕が、そう言うと、静吉は礼を言った。
「有難う、助かる。えーと、辰顕君だったか?息子さんは」
「そう、辰年生まれだから、辰顕だな。紘は、昭和四年の二月生まれだったな。うちの息子は、昭和三年生まれだが、学年は紘と同じだよ」
俊顕は、そう言うと、紘一に微笑みかけてくれた。
「そうなのですか」
「そうなのだ。紘、仲良くしてやってくれな。親が言うのも何だが、うちの辰は割と気の好い奴だよ」
栄五が、あ、そうだ、と、ハッとした様子で言った。
「双子も紹介しておいた方が良いですよね」
俊顕が、何か思い出した様子で、ああ、そうだったな、と言った。
「双子?」
はて、という顔をした静吉に対して、俊顕が説明した。
「何とも込み入った話なのだが。今、事情が有って、うちの病院の別館に住まわせているのだ。まぁ、顔を見れば、誰の息子かは、直ぐに分かるだろうが」
「息子?双子というのは、男の子なのか?」
静吉は、また、おっとりとした声で、そう尋ねた。
俊顕は、言い難そうに答えた。
「そう、男だな。えーと、確か、昭和二年の十一月に生まれているから、学年は、うちの辰や、紘より一つ上かな。まあ、本当に父親そっくりだから、見れば直ぐ分かると思うのだが。二人は、長の息子なのだ」
静吉は、目を瞬かせた。
俊顕は益々、言い難そうに続けた。
「糺殿が子供好きで、其の双子の事も随分可愛がっていたというのは有るのだが。事情が有って、今そいつ等が里に居られないのだ。其れで、三年前から俺が預かって、実方医院別館に住まわせて隠している。表向きは、坂元家が預かると、妙な事になるからな」
静吉は其処で、ハッとした顔をした。
「そうだ、あのな、俊顕。気になっていたのだが、此の母屋は」
「そう。直さんが残された家だ。直さん一家が益城に移住した時に、清水本家が直さん家を買い取っていたのだが、今度は俺が清水本家から其の家を買い取って此処に移築した、というわけだ。御前の生まれた家に、そっくりだろう?」
「そうだったのか!道理で」
直、という、元は里の人間だったが、コツコツと外の土地を買って、里の外で地主になった人物が居る、というのは、紘一も聞いた事が有る。
本名は坂本直介というのだ。
昭和の初め頃は、不動産を取り扱ったり、商業を取り仕切ったり、里を出てからも何かと里の者に便宜を図ってくれていたらしい。
以前は紘一の住む渋谷の家にも年賀状等が届いていたが、今では疎遠になっている。
「其れからは、俺の両親、うちの嫁、其れから、子供三人の、七人で住んでいたのだ。井戸を掘ってから移築したのさ。なかなか良いだろう」
「生垣まで似ているよ」
誠吉が感心しきった様子で、そう言うと、そうだろう、と言って、俊顕は、また微笑んで、続けた。
「そう、そして、移築の後で、病院を、俺が通い易い様に、此の母屋の傍に建てたのだ。だがまぁ、後で話すが、事情が有って。今は、本館が別に在って、此処に在る病院は実方医院の別館になった。うちの嫁と、娘二人は、三年前から本館の近くに住まわせていて、今年から、うちの長男の辰だけ、双子と一緒に、病院別館に住まわせている。そして俺が家族と住んでいた此の母屋には、栄の一家に住んでもらっている。だから、晩年の三年は、糺殿も此処に住んでいらしたのだ。ちゃんと、屋敷神様も庭に移してきた。今は実質、此処が坂元本家だ」
なるほど、と静吉は言った。
紘一には、まるで話が見えない。
ヤシキガンサー、というのは何の事だろう、と思った。
後は、何を疑問に思っていいのかさえ、よく分からなかった。
風呂よりも先に、何か食べたいが、こんな埃っぽい身なりで、こんな立派な家に上がり込むのも失礼な気がして、言い出せない。
静吉は其の儘、勝手知ったる他人の家、といった様子で、真っ直ぐ、風呂と思しき場所に向かった。
紘一は、慌てて静吉の後をついて行った。
果たして此処か、と、辿り着いて見てみれば、実に立派な五右衛門風呂である。
焚口の前には、俊顕に言われた通り、紘一と同じくらいの背格好の少年が、火吹き棒を片手に立っていた。
余程暑いのであろうか、黒っぽい浴衣の袖を、諸肌脱いで、裾も捲っている。
此の陽気に風呂を焚かせたとは申し訳ない、行水でも良かったのに、と、紘一は思った。
静吉は、おお、と、嬉しそうな声を出した。
「君が辰顕君かな。初めまして。坂元誠吉です。此方が、息子の紘。君と同じ学年だ」
「父から伺っております。初めまして。実方辰顕です」
「いやぁ、お母さんが余程綺麗なのかね。あいつには、あんまり似ていないな」
立ち上がって袖と裾を直し、丁寧に礼をする辰顕を見て、静吉は微笑んだ。
しかし、辰顕は、かなり驚いた様子で静吉を見ていた。
「本当に、糺殿にそっくりでいらっしゃるのですね」
そうかい?と言って、静吉は、また微笑み、紘一の方を見て、挨拶する様に促した。
「ほら、紘」
「あの、初めまして。紘です。此の暑いのに風呂焚きしてもらえるなんて。本当に有難う」
「御客人に行水を勧めるもの悪いしね。気にしないで入って。宜しく」
辰顕は、紘一に微笑みかけてくれた。
其の笑みは思いがけず爽やかで、紘一は少し安心した気持ちになり、此方こそ宜しく、と言った。
静吉は、ああ言ったが、笑うと辰顕は俊顕に似ている、と紘一は思った。
辰顕は、眉こそ俊顕程は太くないものの、凛々しい顔立ちと、少し堅そうな髪が、何処となく俊顕に似ている。
そしてやはり、婉曲に静吉が褒めるくらい、整った顔立ちをしていた。
俊顕や顕彦と血が繋がっている子なのだからと思って見てみれば、そんなものかもしれない、と思うと、其の点に関しては、紘一は特に驚かなかった。
其れにしても、理知的で、都会的と言ってもいい雰囲気の少年だ、と、紘一は思った。
さっきから、会う人会う人、見目好く、何処か洗練されていて、此の田舎に、と、何だか異質なものを紘一に感じさせる。
泥だらけの自分が恥ずかしくなるくらいで、此れが隠れ里の住民達か、と思うと、不思議で、紘一は、暫し空腹を忘れた。
「あら、もう此方の方にいらしていましたか。すみません」
紘一がボンヤリしていると、母屋の方から、物凄い美人が二人出てきた。
一人は薬缶と、小さな紫の風呂敷包みを、一人は湯呑二つと浴衣を持っている。
紘一は、再び、訳が分からない、と思った。
―一体全体如何いう事?其れとも、隠れ里に住む人というのは皆、こうも美しいもの?
「え?きゃっ?御義父様?」
話し掛けてくれた方の美人が、小さな悲鳴を上げた。
相当驚いたらしかった。
小柄だが華やかな印象の、泣き黒子の美人である。
涼しげな紗の着物を着ている。
「まっ、本当。糺殿?」
此の暑いのに、黒っぽい麻の着物を、きちんと百姓袴に仕立てて着た、妙に色っぽい垂れ目の美人も、相当驚いている。
垂れ目の美人は華奢だったが、泣き黒子の美人より背が高いせいか、しっかりしている様な印象を受ける。
何方も二十代半ば、というところであろう。
「そんなに父に似ていますかねぇ」
静吉は困った様に、おっとりと、そう言って頭を掻いた。
しかし紘一は、二人の反応は無理からぬ事、と思った。
祖父の皺を取って、白髪を黒くすれば、ほぼ父と同じ顔だと紘一は思っている。
何せ身長も同じくらいなのだ。
髪の色が違うというのに、紘一でさえも、祖父と父を、何度か見間違えそうになったものである。
加えて、今日辺り到着するかもしれないから、と、父は今朝方、身嗜みとして、伸びた髭を剃っていたので、余計似ている。
薬缶と風呂敷包みを持った泣き黒子の美人が、おっとりと笑って言った。
「まぁ、私ったら。御義兄様でいらっしゃいましたのね。坂元初です。初めまして」
「ああ、貴女が。初めまして。私が、栄の兄の、誠吉です。此方が、息子の紘」
紘一が、初めまして、と言うと、あらぁ、と、初は嬉しそうな声を出した。
「初めまして。私、貴方の叔母さんになるのね」
ハナ子おばちゃんって呼んでもいいわよ、と言って、初が華やかに微笑んだので、紘一は、何故?と思った。
静吉も、キョトンとした顔をして言った。
「ハナ子?あれ?お初さん、ですよね、確か」
「ええ、ハナ子というのは渾名です」
初は、そう言って、おっとりと笑った。
静吉は、はぁ、と言った。
静吉は、六尺の身長という大きな見掛けに寄らず、おっとりとしたところが有るので、初の様に、静吉と同じく、おっとりとした人と会話をしていると、会話が全く進まない事がある。
此れは不味いかもしれない、と、経験上、紘一はハラハラした。
何故、初の渾名がハナ子になったのか、という理由を今聞き始めると、多分、二人して、おっとりと、噛み合っているのかそうでないのか、弾んでいるのかいないのか、よく分からない会話を続けて、きっと、風呂に入るのが遅れる。
聞き上手過ぎる静吉の悪い所でもある。
こういう時は一度保留にしておいて、後で理由を聞くのが良いのに、多分、静吉は今から、持ち前の好奇心で、渾名のついた理由を初に尋ね始める。
初も、簡潔に、渾名になった理由を言い添えていてくれたら、静吉の好奇心も満たされて、直ぐに会話が終わるのだが、紘一が察するに、此の叔母だという、おっとりとした人には、其れを期待できない。
悪い意味で相性の良さそうな組み合わせだな、と、紘一は思った。
案の定、湯呑二つと浴衣を持った垂れ目の美人が、口を挟めず、挨拶も出来ずに、初の隣で突っ立っている。
紘一は、慌てて、垂れ目の美人に挨拶した。
「初めまして、紘です」
「初めまして。実方安幾です」
紘一と安幾の遣り取りを聞いて、静吉が、やっと、ああ、と言った。
「もしかして、吉雄さんの娘さんですか?目が、そっくりだ」
「よく言われます」
安幾は、そう言って微笑んだ。
安幾は、ただ微笑んだだけなのだが、やはり、妙に色っぽい、と、紘一は思った。
安幾の癖なのだろうか、目の動かし方が、少し流し目の様に見えるのである。
しかし静吉は、そんな事は全く意識に上らない様子で、紘一に、ほら、と言った。
「此の人は、うちの親戚の、坂元分家の娘さんでな。吉雄さん、覚えていないかな?あの、さっき会った、顕彦の御嫁さんだ。あいつ、随分若い御嫁さんを貰った様だな」
紘一は、また、よく分からなくなった。
顕彦が十歳くらい、実年齢よりも若い様に見えて、安幾が二十代半ばに見えるので、二人の年回りは合う様に思えたのである。加えて、吉雄という人の事も、覚えているような、いない様な、といったところで、実に曖昧な認識である。
「私、顕彦さんより十一年下なのです」
静吉は、へぇ、などと言って微笑んでおり、特に気にした様子も無かったが、紘一は、かなり驚いた。
十一歳年下という事は、安幾は満二十六歳である。
安幾は年相応に見えるが、顕彦の方は、やはり、安幾より十一歳も年上の様には見えなかった。
紘一はまた、訳が分からない、と思った。
誠吉は続けて、初に問うた。
「初さん、えーと、ハナさん?ハナ子さん?は、うちの富と同い年でしたね」
「ええ、学年違いですけれど。私の方は、夫より三歳上なのです」
其処まで聞いて、紘一は、怖いよう、と思った。
初が言うのが本当なら、初は三十四歳である。
此の人も、実年齢より十歳近く見た目が若い。
何、此処の人達、怖い、と思って、紘一は困惑した。
静吉は初を見て黙った。
何と呼べば良いのか分からないのであろう。
「えーと…」
「ハナで良いですよ」
そう言って、初は、ふんわりと笑った。
静吉は、はぁ、と言った。紘一の思った通り、やはり話が進まない。
傍らで、辰顕が、静吉と初の、なかなか本題に入らない、進まない会話を聞きながら、ポカンとした顔をしていた。
紘一は、酷く申し訳ない気持ちになったので、心の中で辰顕に、ごめんね、と謝った。
折角辰顕が焚いてくれた御湯が、此の儘では冷めてしまう。
しかし、そんな紘一の煩悶など御構い無しに静吉は続ける。
「紘、ハナさんは、俊顕と顕彦の妹さんでな。俺の弟が、俺の親友の妹と結婚した、というわけだ。だから、ハナさんは、辰顕君の叔母さんでもあるわけだな」
「ああ、成る程」
美しく、極端に見た目が若い人達が血縁と聞いて、紘一は妙に納得した。
そういう家系なのかもしれない、と思うと、混乱する紘一の頭の中は、やっと少し纏まってきた。
其れと同時に、安心したのか、紘一の腹の虫が、グゥーッと鳴いた。
其れを聞いて初が、あらあら、と言った。
「忘れて居りました。御風呂の前に虫養いでもと思って、御握りを持ってきました。あと、安幾ちゃんが持っているのが、御着替えです」
「おお、此れは有り難い」
父が礼を言った。
紘一も、心から、有難うございます、と言った。
しかしまた、出来れば食べ物の存在は忘れないでほしかったな、とも思う紘一であった。
再び紘一の腹の虫が鳴いた。
紘一は、そっと、辰顕と安幾の方を見た。
二人はジッと、静吉と初の会話を聞いていた。
初の、おっとりとした話の進め方には慣れているらしい。
しかし、紘一の視線に気付いた安幾は、ハッとして言った。
「えーと、私の事は、アキ子おばちゃんって呼んでも良いわよ」
「あ、はい、有難うございます。あの、すみません。早く食べて、御風呂に入った方が良いですよね?」
安幾は、気不味そうに、気にしないで、と言って、笑った。
紘一は、辰顕にも謝った。
「ごめんね、折角、御湯を沸かしてくれたのに。冷めないうちに入るね、有難う」
紘一が、そう言うと、辰顕も、気にしないで、と言って笑った。
其れを聞いて、静吉がやっと、慌てた声を出した。
「あ、いかん。さっさと入ろう、紘」
初が、あらぁ、と言った。
「其れでは、私と安幾ちゃんは、母屋で御待ちして居りますね。辰ちゃん、後は宜しく御願いね」
紘一は、自分の腹の虫の鳴き声をボンヤリ聞きながら、静吉が気付いてくれて良かった、と思った。
静吉が入浴している間に、小さめの御握りを二つ食べると、何の変哲もない、ただの塩結びなのに、こんなに美味い物が此の世に在ったのか、というくらい美味い。
かなり雑穀が混ざっているとは言え、白米である。
白米なんて何日ぶりであろうか、と、紘一は感動した。
初と安幾が井戸で冷やしてくれていたという番茶も美味い。
そうこうしているうちに、静吉はサッサと風呂を終えた。
そしてサッと着替えて、ペロリと虫養いを平らげると、湯呑に入っている番茶を一気に飲み干して、辰顕に礼を言い、スタスタと母屋の方に去っていった。
其のあまりの速さに、風呂を追い炊きしてくれていた辰顕と紘一は、目が点になった。
普段から早食いで、烏の行水の人であるが、我が父の事ながら如何しても見慣れない紘一である。
話す速度と真逆なので、物凄く意外な気がしてしまうのである。
改めて、父さんは凄い、と、紘一は思った。
気が付くと、紘一と辰顕は、顔を見合わせて笑っていた。
「もう、火を落としてもいいよ。君、暑いでしょう」
用意されていた米の研ぎ汁と石鹸で綺麗に体を洗った紘一は、湯に浸かりながら、辰顕を気遣った。
静吉達に挨拶をしてくれて以降、裾も袖も捲っていないのである。
随分礼儀正しい性格の少年らしかった。
辰顕は優しく微笑みながら、辰で良いよ、と言ってくれた。




