昭和二十年 七月二十九日 坂本紘一 桃源郷
「今日は俺の炊いた飯だからな。少しだけ御祝いで、今日は混ぜ物無しの白米だ」
顕彦は、そう言って、ケラケラ笑った。
「本当ですか?先生が?凄い、凄い」
周二は、やったぁ、と言った。
綜一と辰顕も喜びの声を上げたので、紘一は、思わず、え、と言って、隣を歩く辰顕の顔を見た。
紘一の視線に気付いた辰顕は、ああ、と言った。
「うちの叔父さん、何故か、米を炊くのが異様に上手いのさ」
周二は、そうだよぉ、と言って、辰顕に力強く同意した。
「紘、絶対、吃驚するから。ハナコおばちゃんよりも、アッコおばちゃんよりも上手なの」
紘一は思わず、何者なの、と、小さな声で呟いてしまった。
辰顕は、分からない、と言った。
「実は叔父さん、他の料理も上手いの。でも、御米は本当に吃驚するよ。謎だ」
「謎なのか…」
甥の辰顕に分からぬというのでは、紘一には分かり様が無かった。
―また顕彦さんの不思議なところを一つ知っちゃった。
ふと、顕彦が振り返り、よう、と四人に声を掛けてきた。
「其れにしても、脚の長さ比べたぁ穏やかじゃない遊びだ。幾ら暇だからって、もっと穏便な遊びは出来なかったのかい」
顕彦は、少し呆れた声で、そう言った。
―違うもの。暇で遣った事じゃないもの。
顕彦は、あれを若者たちの他愛も無い遊びだと思っている様子だが、紘一には遊びでは無く、切実な問題だったのである。
綜一の脚の長さを確認した上で、脚は長い方が良いのだという考えを、如何しても綜一に認めてほしかったのだ。
其れが、と紘一は言った。
「うちの弟、俺より脚が長くて。身長は俺より低いのに。其れで俺は」
だからぁ、と顕彦は、紘一に対して、取り成す様な優しい声を掛けた。
「態々測って傷付くなって」
「測るまでも無く分かる事も有るでしょう?」
紘一が珍しく少し強い語気で言ったからか、顕彦は、稍小さな声で、まぁ、そうだけど、と、再び取り成す様に言った。
「兄弟で比べるのは、友達同士より余計しんどいぞ。忘れなさい」
其れは、実に優しい声掛けだったが、紘一は少し口を尖らせてしまった。
―忘れたって、背も伸びなければ、脚も伸びないもの。
周二が、先生は?と言った。
「お兄さんの俊顕さんと自分を比べて悩んだ事、有った?」
顕彦は、そりゃなぁ、と言った。
「兄上の方が何でも出来るし、顔も良いと思っていたな。でも、そんなに悩まなかった」
四人で、思わず、声を揃えて、え?と言ってしまった。
顔の造作となると最早、何方が好きか、という好みの問題しか残っていないくらい整った顔の兄弟である。
其れを、顕彦は、俊顕の方が優れていると考えていたとは、紘一には驚きだった。
他の三人も、そうなのだろう。
「悩まなかったのですか?」
辰顕は、かなり驚いた様子で、そう言った。
うん、別に、と顕彦は言った。
「幸いな、両親が兄弟の比較をしないでいれくれる人達だったのと。優しい兄だったから、殆ど、もう一人の父親くらいに思っていたから。自分と兄上を比べる、という事に、あまり意味を感じていなかった。だから別段悩まなかった。同じくらいの年なのに、とか、同じ兄弟なのに、とか、近いと思うから悩むのさ。妬んだり嫉んだりしてな。あれは俺とは別枠だ、と思えば全く悩まない」
もう一人の父親だと思うには、俊顕と顕彦は年齢が近過ぎる気がする紘一だが、顕彦が俊顕を信頼しているという荻平の言葉は本当らしい、と思った。
―しかし、そんなに俊顕さんを慕っているとはね。
自分は弟を妬んで、俊顕程良い兄では無いかも、と紘一は少し反省した。
周二は嬉しそうに、仲良し、と言った。
顕彦は、何の衒いも無く、そうさ、と言った。
「両親は立派で、兄は男前で、妹二人は美人だよ」
其の言い方が、あまりにも自然だったので、本心からの言葉らしい、と紘一は思った。
顕彦という人物は、周囲を尊敬して、愛する人柄らしい。
―こういう人に未だ会った事が無かったな。
紘一が、少し感動すら覚えて、心から驚きながら、顕彦の顔を見詰めた。
「如何した、紘」
顕彦は、薄暗がりの中でも分かる程優しい笑顔を紘一に向けた。
いえ、と紘一は言った。
「其の、凄く、其れは。良い事ですね」
「そうだろう?俺は幸せなのさ」
―ああ。
紘一は、また、在りもしない桃源郷を、顕彦の穏やかな顔の中に見た気がした。
酷い場所である。どれだけ焦土と化した土地でも、人体実験に里全体で加担させられている土地は、そう多く無かろうと思う紘一である。
人々は葛藤し、騙され、家族を守る為に、遣りたくも無い手術や実験をして、心を痛めている。
其れなのに、住む人は美しく、穏やかで、慎ましく、仲良く暮らしている。
少ないが、分け合えるくらいの食糧も有る。
何より、其処に住む顕彦は幸福を口にする。
やはり此処は隠れ里の桃源郷なのではないか、と、またもや紘一は錯覚しそうになった。
顕彦は、クルリと四人に背を向けて、さぁ、おいで、おいで、と明るく言った。
「得難い人だ」
綜一が、そっと呟いた。
顕彦には聞こえておるまい。
紘一は、綜一が顕彦を尊敬している事も、其の尊敬する人物の妻を心に懸けている事も知った上で、綜は器が大きい、と思った。
そうなのだ、此処に住む人たちの間には、御互いに信頼と愛情とが有る。
思い遣りと尊敬が有る。
静吉は此処の生まれで、親友達も、此の通りの人柄の良さなのだと思うと、紘一は、自分の父が何故あれ程御人好しで、穏やかなのか分かる様な気がした。
此処で得た愛情が父の心の根幹を支えており、其の愛情を裏切る事など出来ず、返せない分は他所に回しているのだろう、と紘一は思った。
苗の神教というものを、紘一は殆ど理解していないが、きっと、其の加護は関係あるまい。
加護が有ろうと無かろうと、此の世は等しく地獄で、今日も此の国の何処かで誰かが死んでいる。
しかし桃源郷は、静吉や顕彦の心の中に在るのであろう。
そうありたい、と、そうなれない紘一は、憧れの気持ちを持って、顕彦の背中を見詰めた。




