昭和二十年 七月二十九日 実方辰顕 十年計画の求婚
今日の綜は、繁雪が来た辺りから、かなり機嫌が悪かった事に、辰顕は気付いていた。
普段は、仏頂面でも気難しい人間では無いのである。
喜びたいのだ、という言葉が、辰顕の胸を刺した。
尊敬する、大好きな恩師の家の御目出度話を喜びたい、という綜の言葉。
では実情は如何に、とは、辰顕は口に出来なかった。
周は静かに、辰顕に、自分の領域に在る椅子を勧めてくれた。
辰顕は、有難う、と言って椅子に腰掛けた。
周も、綜と自分の寝台の間に在る衝立を取り払って、自分の寝台に座った。
流石に夕方近くになると、細く開けた窓からの風は涼しく、柔らかな風が、籠った部屋の熱気と混ざるのを、辰顕は快く感じた。
沈黙に耐え兼ねたのか、綜が一番に口を開いた。
「俺は単に、初恋を引き摺っているだけだ。こんな事に特に意味は無いだろ」
初恋、と紘は復唱した。
「え?貴が九歳だよね?何時が初恋?…え、人妻に?」
紘は、はた、と何かに気付いた様に、そう言うと、左手で、自身の口元を押さえた。
綜は、慌てた様に、バッと起き上がって、待て、待て、と言った。
「其の時は未だ人妻じゃなかったさ。別に俺だって態々、人妻に懸想しやしない」
こんなに慌てて弁明する綜は珍しいので、辰顕は思わず笑いそうになったが、堪えた。
紘と居ると、さしもの綜も、何時もの要領で話を進められないらしい。
―本当に、不思議な奴。
辰顕は、感心して、紘の方を見た。
白い包帯の下の方に、窓からの光を受けた、輝く瞳が見える。
其の瞳は、何もかもを見透かす様な、美しい光を湛えていた。
「昭和九年の秋頃かな。実方本家の祝言が昭和十年の秋だから、十一年前の話だよ。其の時は未だ、あそこは夫婦ではなかったから」
綜は、何か疚しい事でも有るのか、と辰顕が思うくらい、丁寧に紘に説明したが、紘は余計に驚いた顔をした。
「え?じゃあ、初恋って、六つか其処等なの?其の初恋を引き摺っているって、相当おませじゃない?」
綜は、紘の指摘に、うっ、と呻いた。
周は、え?そんなに前からだったの?と言った。
実は辰顕も其れは初耳だった。
辰顕とて、こうして双子と一緒に住む様になって、やっと少し気付いたか、というくらいで、綜は、ほぼ完璧に自分の気持ちを隠し通していた。
だから綜の気持ちに気付いたのは此処一年くらいの話である。
綜は、自分の寝台の上でガックリと肩を落とした。
―こんな綜ちゃん、本当に珍しい。
何と言うか、誠吉も紘も、自分の話の進め具合に、意識的になのか無意識的になのか、他人を巻き込むのが上手い。
故に他人は、其の人の普段の態度からは想像もつかない言動を二人に晒してしまうのであろう、と辰顕は推察する。
繁雪にしても、荻平にしても、普段、紘に接していた様な態度を取るのを、少なくとも辰顕は見た事が無い。
綜は溜息をついてから、左手で自分の前髪を掻き揚げて、言った。
「自分の事を子供だと思っていなかったのさ。周りの頭が悪い様に思えていた。でも、俺は、やっぱり六歳くらいの子供でしか無くて、難しい事を口にすると、酷く滑稽だった。其れは自分でも理解していた。笑われたくも、叱られたくも無かったから、ただ只管、行儀の良い子供の振りをしていた。そんな時、安幾ちゃんに対して、自分が如何いう気持ちを持っているか気付いてしまったのさ」
あ、と辰顕は思った。
『安幾ちゃん』と、綜がハッキリ言ったからである。
―綜ちゃんが、最後にアッコおばちゃんの名前を、ちゃんと呼んだのを聞いたのは何時だっただろう。
綜は絶対に、安幾の事を、アッコおばちゃんなどとは呼ばない。
其れには辰顕は気付いていたが、安幾を、そう呼ばない綜の気持ちを想うと、辰顕は、今日は何だか、苦しい様な気分になった。
綜は続けた。
「最初は、単純に、母と安幾ちゃんの誕生日が同じだ、という事で興味を持った。あの頃、未だ、安幾ちゃんは、やっと大人になろうとしているくらいの年で、一生懸命御化粧を始めたり、髪形を変えたりして、凄く初々しく思えて。見ていると、何だか眩しくて、自分の気持ちに、凄くピッタリ来た」
おや、と辰顕は思った。
其れは何と無く、当時の綜の精神年齢が、安幾の当時の実年齢に近かった、という話の様に辰顕には思えた。
―考えてみれば、かなり凄い話じゃない?
少なくとも辰顕は、当時から、安幾の事は、大人だと思いこそすれ、初々しいなどとは思った試しが無い。
十は上なのだ。
安幾は、辰顕の中では昔から大人だった。
―自分の事を子供だと思っていなかったって、実は途轍も無い事を告白されている様な気がする。こんな話を綜ちゃんから引き出せるなんて、思いもしなかった。
仏頂面で、喋らない時はトコトン喋らない。
感情表現も下手である。
そんな綜が、まさか自分達に向かって、こんな心情を吐露する様な事態が訪れるとは、辰顕は本当に、思ってみた事さえ無かった。
辰顕は、そっと、周の方を見た。
周は、目をパチクリさせながら、綜と紘の姿を交互に見ていた。
そう、恐らくは、一番近しい弟にすら、否、一番近しい弟にだからこそ、綜は、自身の、こういった部分を見せないできたのに違いなかった。
「安幾さんは人気者で、御正月に家を囲まれちゃったって?其れで、三人で、安幾さんを助けたの?」
紘は、躊躇いがちに、そう尋ねた。
辰顕も、あの時の事は何となく覚えている。
大人が沢山居て怖くて、安幾が泣いていたので、幼心に助けてあげたくて、皆で、里から病院まで、安幾を逃がそうとしたのだった。
辰顕は転んで怪我をしてしまい、其れを背負って移動してくれていた周が動けなくなって、行方知れずの子供達を捜索に来ていた大人達に捕まったのだった。
散々叱られたが、綜の知恵と周の優しさに胸を打たれたのを、辰顕は覚えている。
―そう、そんなに昔から一緒に居たのに。
こういう綜を、辰顕は知らない。
恐らく、周すらも。
辰顕は、其の事実を、綜の安幾への気持ちを、驚きながら聞いていた。
しかし、綜は、辰顕が更に驚く事実を語った。
「あれは、俺には、人助けなんていう、そんな美談じゃなかった。あの時俺は、安幾ちゃんと本気で駆け落ちする心算だったのさ」
辰顕は我が耳を疑った。
周は、此れ以上開けたら目玉が落ちるのではないかと思うくらい、大きく目を見開いて、兄の姿を見ていた。
紘は、ええっ?と言って赤面し、綜に聞き返した。
「駆け落ち?」
周は、そうなの?と、小さな声で言った。
綜は、ムスッとして、そうだよ、と言った。
辰顕は、自分の額の辺りに、何か、痺れた様な感覚を覚えて、其の辺りに、そっと自分の右手を当てた。
如何やら、今の綜の発言は、辰顕の精神に、かなりの衝撃を与えたらしかった。
―駆け落ち?
十年前の正月に駆け落ちを企てたと告白する目の前の人物が、今、満十七歳だと知っているだけに、なかなか辰顕には受け入れられない内容だった。
「あの時は子供だったけど、俺は本気だったし、焦っていた。頭では、年回りも合わないし、安幾ちゃんは『水配』にも参加していないから、一緒にはなれないって分かっていたのに、如何しても納得出来なかった。あの頃安幾ちゃんは、日に日に綺麗になる様な年頃だったのに、俺は、ただの子供で、坂元分家には、安幾ちゃん目当ての大人が、ワッと押し寄せていて。でも、集まっている、どの大人より、俺は、安幾ちゃんと一緒になれる可能性が低かった」
綜の、血を吐く様な独白を聞きながら、辰顕は、本当に此れは綜なのだろうか、と、ただただ驚いた。
そんな情熱を幼い頃から胸に秘めている人物だとは、夢にも思わなかったのである。
「あ、ごめん、『ミックバイ』って何?」
紘は、オズオズと挙手した。
綜と周は、少し拍子抜けした顔をした。
―綜ちゃんから、こんな話を引き出せた張本人は、此の調子だしなぁ。
賢いかと思えば衝動的で、気弱かと思えば、大胆に大人に鎌を掛けもする。
此の不安定な人物の事を、一体、何歳なのか、何者なのかが、何を知っていて、何を知らないのか、時々、よく分からなくなり、辰顕は混乱しそうになるのである。
綜は、少し困った様に言った。
「…うちの親が遣っている婚姻統制の名前だよ。御前、此の里の事を、何処まで知っていて、何を知らないのか、よく分からないな」
「婚姻統制?」
紘が、今日一番の驚きの声を出したので、双子は、声を揃えて、ええっ?と言った。
「え?如何いう事?長が里の人の結婚相手を決めるって事?」
紘は、オロオロした様子で、そう言った。
周は、紘につられた様に、オロオロした声で言った。
「え?親が結婚相手を決めるでしょ、普通。下方限とか、上方限に在る家の次男の人とかは、うちの親が相手を決めているってだけ。同じ事でしょう?」
紘は、え?と言った。
「え?長が決めるの?本当に?親なら分かるけど…まぁ、厚生省が打ち出した『結婚十訓』に沿ってはいるのか…」
紘にとっては、同じ事では無いらしい。
辰顕には、何方の気持ちも、よく分かる。
兎角、里の常識が外の常識とは限らないのだ。
しかし、綜は兎も角、周に其れを分かってもらうのは難しい。
つい昨晩、貴顕と瑛子、そして了と夕の結婚相手を親が決めたのを目の当たりにしたばかりである上に、周は、本当に里の外の事を知らないのだ。
「え?何?もしかして、外では、自分で結婚相手って決められるの?其れって、映画とか、御話の中だけの話でしょ?」
周は首を傾げながら、大胆にも恋愛結婚架空説を提唱した。
しかし紘は、当然其の説を受け入れなかった。
「いや?結構御近所さんにも居たけど。恋愛して、好き合って一緒になるって」
「んー?如何いう事なの?」
周と紘のあまりの認識の相違は、会話というより殆ど驚かせ合いに近く、綜の話が、おいてけぼりにされている。
綜は、やれやれ、という顔をして、再び左手で自分の髪を掻き揚げ、兎に角、と言った。
「里は常に女が足りていないのだ。元々、里の外から嫁取りしやすい環境ではないし、妻を娶っても御産や病で夫より先に亡くなる事も有る。其れに、里の中で婚姻をするにも限界が有る。其処で、以前はされてこなかった、上方限と下方限の間の婚姻、というのを、うちの親が考案した次第だ。血が濃くならない様、誰と誰が一緒になる、というのを管理して、組み合わせを考えている。『水配』というのは、由来は知らないが川の水を分ける様に、上方限と下方限の血を分け隔てなく交わらせる、という様な意味合いの名前だろうか。水配り、と書くのだ」
綜の説明に、紘は、へぇー、と言った。
「上方限と下方限って、其処まで違うの?」
双子は揃って、うーん、と唸った。
二つの地域の差異を、どの様に説明して良いか分からないらしい。
里で育てば殆ど皮膚感覚に等しいくらいに感じて育つ、此の差異は、なかなか言語化出来ない。
辰顕にはまた、紘の気持ちが、よく分かった。
「え、其れで其の、安幾さん達は『水配』に参加していないの?昨夜、貴と了の御嫁さん、決めていたけど」
紘は、そう言うと、益々以て理解出来ない、という顔をした。
「うん。『水配』に参加しているのは、殆ど吉野衆と瀬原衆だよ。清水衆も殆ど参加してないし、実方衆と坂元衆は一人も参加していない。まぁ、当たり前だよね。上方限の、まともな家は殆ど参加してないよ。下方限の生まれの御嫁さんなんて、上方限の家の御姑さんが許さないだろうし、上方限から下方限に御嫁に遣るなんて、真っ平って人も居るし」
周の説明に、紘は、驚きながら、双子の顔を見比べた。
「え?え?如何いう事?」
そりゃあ、と、周は、キョトンとした様子で言った。
「木戸が合わんち言わるいもん」
周が、行き成り訛ったので、紘は、ポカンとした顔をした。
辰顕は、家の格が合わないって事、と言って説明した。
「家の格ぅ?」
紘は、此れ以上無い、というくらい、素っ頓狂な声を出した。
「何?其の御家に御金が無いって事で、そんなに差別しているの?」
紘の驚きの言葉に、綜と周は、サッパリ理解出来ない、という顔をした。
周は、そうだねぇ、と、考え考え言った。
「いや、瀬原衆にも、最近は、御金持ちの人も居るよ。そうだな、多分、荻平さんのところは御金が有るよ。其れで、『水配』で、上方限の娘さんを御嫁さんにして、今は、要さんが前に住んで居た、えーと、坂元分家の土地屋敷を買い取って、上方限に住んで居るよ。繁雪さんと荻平さんって、実は御隣さんなの」
「じゃあ、荻平さんは、瀬原衆だけど、上方限の人なの?」
紘の言葉に、双子は再び、うーん、と唸った。
「御金を持っていて、上方限に住んで居ても、生まれが下方限だったら、上方限の人じゃないって事なの?」
紘は、信じられない、という声を出した。
「如何いう事?まさか今時、身分差別でもやっているの?」
双子は、キョトンとした顔で、紘を見た。
辰顕も、紘の発言の意図は、よく分からなかった。
紘は、話が通らない事を悟り、ごめん、と言った。
「えーと、瀬原衆だけど、長は上方限の人、なの?」
「そうだな、俺達も上方限出身だしな」
綜の発言が、紘を更に混乱させたらしかったが、紘は、稍あって、そうなの、と言った。
「其れで、御母さんは吉野本家の人?」
「そう。上方限出身だな」
紘は目をパチクリさせて、まぁ良いや、と言った。
「ごめん、俺、本当に分かっていないみたいだね。えーと、つまり、御両親は、その、『水配』で結ばれたの?」
「違うらしい。うちの母と一緒になった後、ほぼ直後くらいに、父が『水配』という制度を立ち上げた様だ。何分生まれる前の事なので、其の程度の認識で申し訳ないが。でも俺達は多分、親が遣っている婚姻制度に組み込まれる」
周が、綜の言葉に、ピクリと体を震わせた。
紘は、綜の説明に、成程、と言った。
「其れで、安幾さんは坂元家の、上方限の人だから、『水配』に参加していなかったし、今も坂元家は参加していない。だから、貴と了の御嫁さんも、長が決めなかった、という事?」
「そうだ」
「成程、綜ちゃん、有難う。何と無く分かった。だから綜ちゃんは、安幾さんと一緒になれないって思ったわけだ。御互いが『水配』に参加していないといけない」
「そうだ」
紘は、綜の返事を聞いて、うんうん、と頷いた。
「そうか、其れで綜ちゃんは駆け落ちしようと思ったのか」
おお、話が元に戻った、と、辰顕は感心した。
周は、でも、と言った。
「無茶じゃない?駆け落ちして如何する気だったの?」
「あの時は、安幾ちゃんを『水配』に入れさえすれば上手くいくかも、っていう淡い期待が有ったのさ。子供だったからな」
綜は、そう言いながら、フイッと、そっぽを向いた。
しかし、そっかぁ、と紘が言ったので、周と辰顕は、ギョッとして紘の顔を見た。
成程ね、と紘は続けた。
「安幾さんに『水配』に参加してもらって、御父さん、つまり長に、安幾さんを、綜ちゃんの許婚にしてもらおうと思ったのか」
綜は珍しく頬を染めて、そうだよ、と言った。
何だかんだ言って、紘は、かなり理解しているらしい、と思い、と、辰顕は驚いた。
周は、何かに気付いた様に、あ、と言った。
綜は、寝台の上で胡坐を掻いた。
窓からの空気が次第に冷えて来ていて、辰顕は、そろそろ日が沈む事を感じ取った。
綜が、重い口を開いた。
「そう。安幾ちゃんが怖がっていたから、熱りが冷めるまで病院に隠れていよう、って、俺が里から安幾ちゃんを唆したのさ。安幾ちゃんが、あんな、自分の家を囲む様な怖い人達と一緒になるのは嫌だ、って、怖がって泣いていたから、俺は、『水配』に参加すれば良い、と言った。うちの親に許婚を決めてもらえば良い、と企んだ。長が決めた事なら」
「ああ、誰も文句は言わないね」
紘は、綜の言葉の先を言い、うんうん、と頷いた。
そうだろう?と綜は言った。
「今は誰とも一緒になりたくなくても、時間が経てば気が変わるかもしれないから、十年くらい御嫁に行くのを止めたら?って、安幾ちゃんを唆した。実際うちの親も、上方限の娘さんが『水配』に参加する事自体は歓迎した筈だ。前例が出来れば、後に続く者も増える。そして、当時安幾ちゃんが参加すれば、恐らく、『水配』に参加している女性の中で、一番か家格が上になる。あの騒ぎには、うちの親も同情していたから、安幾ちゃんが言えば、暫く誰とも娶せない、くらいの配慮はしてくれた筈だ。其れなら、誰にも手が出せない。何年かしてから、何処かの後家に入る、という選択肢も考えてくれただろう。其処で、だ。初婚で後家に行くくらいなら、年は下だが、更に何年か待って、俺は如何か、と、其の時になって、うちの親と安幾ちゃんに迫るわけだ。うちの親も、初婚で後家は気の毒かもしれない、というくらいの事は思い至るだろうし、家格が『水配』の中で一番良いとなれば、次代の長の伴侶に選んでくれなくも無かろう、と。年の差を考えた上でも、あの家格は、うちの親にも魅力的だった筈だし。何だかんだ言って最終的には年回りより家柄優先だからな。…まぁ、子供の浅知恵だよ。求婚を十年計画で企てたって、そんなに相手が待っていてくれるわけでもないものを」
其れを聞いて、周と辰顕は青褪めた。
―思ったより巧妙だ。本当に子供の発想?しかも、十年計画の求婚って、何か怖いな。
「確かに其の方法なら可能性が有ったわけだ。駆け落ちと言うより、一定の期間安幾さんを隠しておいて、唆して、説得して、『水配』に参加してもらって、蓋を開けたら自分が許嫁、っていう流れを考えていたのか。なかなか具体的じゃない。後は安幾さん次第だしね。『水配』に参加する事さえ了承してくれれば、成功率も劇的に低くは無い」
紘は、淡々と、そう言った。
―だから、よくもまぁ、そんな事を、そんなに淡々と言えるよな。
辰顕は、そう思と、背筋が寒くなるのを感じた。
当時、子供の頭で、そんな事を考え付く綜も、其れをシレッと看破する紘も、何だか尋常ではない様に、辰顕には感じられた。
「其れで、安幾さんは、何て?」
紘が、結果を問うと、綜は、胡坐を止めて寝台の縁に腰掛け直し、項垂れて、言った。
「あと少しで頷いてくれる筈だったのに」
周と辰顕は顔を見合わせた。
あろう事か、安幾は、当時、綜の策に嵌りかけていた様である。
周が言葉を失っている様子なのが、辰顕には、よく理解出来た。
―綜ちゃんは、本当に、本気だったのか。
でも、と綜は言った。
「先生が、安幾ちゃんを迎えに来て、其の場で求婚したのさ」
「え?先生とアッコおばちゃんって、御見合いじゃなかったの?求婚?」
周の驚きの声に、綜は、そんなのは知らん、と言った。
辰顕は、一瞬、胃がキュウッと縮む様な感覚を覚えた。
其の後の事は、辰顕も、よく知っている。其の年の三月には結納、九月には祝言だった。
見れば、綜は泣いていた。
「十年なんて待ってはもらえない事くらい、当時の俺だって頭では理解していた。でも、必死だった。其れなのに、俺よりも、うんと大人の先生が、目の前で安幾ちゃんに求婚した。其の場で相手が決まって、其の日のうちに親同士が許してくれた。十年どころか、一日だって待ってはくれなかった。安幾ちゃんだって、元々先生が好きだったから。俺が、先生を大好きな様に。何も敵わない。俺は子供だから、真っ当な求婚は出来なかった。騙す様な事をしないと手に入らなかったのに。十年経った今でも、先生に何も敵わない。何だよ、繁雪さんなんて。正式に仲人を立てられる様な立場だったわけだろ?様ぁ見ろ。あの人も俺も、十年経っても先生に敵わないのさ」
周も辰顕も、泣きながら、綜の言葉を聞いた。
辰顕は、如何して綜が、今日、あれ程繁雪の言動に対して不機嫌だったか、漸く分かった。
綜の独白は続く。
「あの時、あそこで時間が止まってしまった様な気がする。あれが多分、俺の挫折だったわけだ。後十年早く生まれていたら。誰にも邪魔させなかったのに。俺が先に求婚していたのに、って。其処から抜け出せないだけだ。だから、其れを引き摺っているだけだ。もう別に、好きじゃないのに」
―其の言葉は嘘だ。
辰顕が思っていたよりも、大恋愛の大失恋だったらしい。
馬鹿だった、と綜は言った。
「里から出て、草原を、手を取り合って逃げている時、舞い上がったのさ。今、自分が手を引いて逃げているのは、里では珍しい、黒い振袖を着ている綺麗な年頃の娘さんで。自分は、怖がって泣いていた、此の人を助ける為に走っている、と思って。自分の事を子供だとは思っていなかった。あの時は、俺の頭の中だけでは、二人は似合いの年頃で、あれは、俺には、やっぱり駆け落ちだった。もう忘れないといけないのに。如何して相手が先生なのだろう。恨む事すら出来ない。代わりに俺は、民法七六五条を決めた奴を、一生許さない」
突然法律名が出たせいか、紘が、ん?と言った。
綜は腹立たし気に続けた。
「明治三十一年に制定された法律だ。『男は満十七歳、女は満十五歳に至らざれば婚姻を成すことを得ず』とな。俺に断りも無く勝手に、そんな事を決めやがって。男満五歳くらいいの決まりにしてくれないと俺に不利過ぎるだろう?」
綜は、バッと俯せに寝て、顔を隠した。
周は、ええっ?五歳?と呟いた。
辰顕はさらに悲しくなった。
何時もの理性的な綜は此処には居ない。
―幾ら何でも五歳は無いでしょ、って、何時もなら笑っていたけど。綜ちゃんは、誰にも相談なんて出来なくて。自分が生まれる、ずっと前に出来た法律に八つ当たりするくらいしか出来なかったのかもしれない。…自分の年齢に、そんなに腹を立てていたなんて。
紘は、えーと、と言った。
其の、あまりにも自然な声音に、周と辰顕は、驚いて、再び紘の顔を見た。
紘は、キョトンとした顔をして、言った。
「別に無理して諦めなくても良いと思うけどな。そんなに悪い事なの?」
綜も、驚いた様子で、バッと起き上がって紘の方を見た。
「別に綜ちゃん、今更安幾さんの事如何こうしようとは思っていないでしょ?年上の女の人に憧れるのって、そんなに悪い事?其れこそ、もう十年経ったら綺麗な思い出になるよ」
双子は呆気にとられた顔をして、そうアッサリ言う紘の顔を見た。
辰顕も、眼を瞬かせて紘の顔を見た。
―綜ちゃんに、身重の人妻を如何こうする心算が有ったら大問題だけども。
紘は、やはり淡々と続けた。
「無理して忘れなくて良いと思うよ。其のうち忘れるよ」
綜は、だって、と言った。
「十年忘れられないのに?」
紘は、そりゃそうだよ、と言った。
「環境が良くないよ。抑年回りの合う女の子自体が、其れ程周りに居ないでしょ?極端に年上の人妻か、成ちゃん達くらいの年の子か、って感じ。あ、あと、辰ちゃんの妹二人か。兎に角、綜ちゃんの生活圏に女の子が少な過ぎるよ。忘れようにも他の相手が居ない。此れは思うに、一つは環境のせいだと思うよ」
周は、口をパクパクさせながら、か、かんきょう?と言った。
そうだよ、と紘は続けた。
「此処に居る人達、外から見たら皆、本当に綺麗だもの。綜ちゃんなんて、ちょっと怖いくらい女の子に人気が出ると思うよ。相手を選び放題だよ、多分。綜ちゃん、試しに軍服着て女学校の前でも歩いてみたら良いよ」
辰顕は、其の妙に具体的な紘の提案に思わず吹き出した。
綜は、御前は?と言った。
「紘は人気が有るのか?」
「とんでもないよ。俺みたいなの、目立たないもの」
紘の発言に、双子と辰顕は、声を揃えて、え?と言った。
辰顕は、紘の言葉が、よく飲み込めなかった。
―其れが事実なら、げに恐ろしきは東京、という気がするけど。都会には紘より綺麗で目立つ人が沢山居るって事?
綜は首を傾げて、更に言った。
「御前が目立たない容姿だと思っているのなら、其れは大いなる誤解という気がするが」
紘は、綜の、其の確認を取る様な言葉を特に意に介した風も無く、そうかな?と言った。
「ともあれ、憧れの人が居る、だなんて、ちょっと羨ましいくらいだよ。俺。そういうの、分からないから」
紘の発言に、双子と辰顕は再び、声を揃えて、え?と言ってしまった。
綜は、羨ましいか?と聞き返した。
紘はアッサリ、うん、と言った。
「恋愛とか分からないからさ。ほら、俺、英語の勉強をしたい、くらいしか欲が無いから。でもさ、十年も一人の人を想い続けていた、と聞くと綺麗だけど、俺なんて敵性語だよ?此の戦時下で勉強したって如何なるか全く分からないもの。不毛だと思う時も有るよ」
「うーん、そのぉ、紘にとっての英語の重要さって、一人の女の人を大好き、って思うくらいの重さなの?」
周は、分からない、という声音で、そう言ったが、紘は、うん、と、淡々と肯定して、周を珍しく絶句させた。
其の、絶句させた当の本人は、更に淡々と続けた。
「俺、其のくらいしか望みが無いの。父さんは、未だ気持ちに余裕が無いだけだって言ってくれたけど。こういう女の子が好き、とか、ちょっと言ってみたいなって思って」
周と辰顕は、思わず、声を揃えて、あー、と言った。
―流石父親。気持ちの余裕が無い。的確だな。
「成程、言い得て妙だな、誠吉さん」
辰顕は、誠吉の意見に全面的に同意した。
焼夷弾に怯え、英語を学ぶ事の露見を恐れ、時々声が出なくなる様な精神状態で、恋愛の事まで考える余裕は、確かに紘には無さそうである。
そう考えると、他人の事は言えない辰顕だった。
自分にも今、将に、そういう興味と余裕が欠けているのである。
そういう意味では、辰顕も紘も、良い環境に居るとは言えない。
兎に角、と紘は言った。
「悲観したり、無理に忘れようとしたりすると、気持ちが歪むと思う。今は其の儘、綺麗な思い出になるまで取っておけば?」
―気持ちっていうのは、そんな、日持ちする漬け物とか乾物みたいに、取っておけるものかね?
辰顕も、叙情的な事を理解する能力が長けている自信は無い。
紘が淡々と其れを言うからといって、其の事を批判出来る程の感性は持ち合わせない辰顕だが、流石に、今の紘の助言が正鵠を射ているか如何かは甚だ疑問である。
※木戸が合わん 身分が合わない、という意味の方言。




